第10話・宝石箱の中での決意

私が、泣きつかれたのか落ち着いたのか、涙が引いた頃。そのころにはもう、ぬるかったハーブティーは冷え切っていた。

 彼はずっと、私の頭から腰あたりまである長い髪の毛先まで、ゆっくりと撫でていてくれている。彼の腕の中は温かい。きっと、私が泣きじゃくったものだから、彼のきれいにアイロンがかけられたパリッとしていたYシャツは、もうびしょびしょだろう。

 私は涙が引いても、真っ赤でぐしゃぐしゃになっているだろう目鼻を彼に見せたくはなかった。もう落ち着いていたのだけれど、泣きじゃくったこと自体が恥ずかしくて顔を上げられない。彼は、それをわかっているかのように、私の肩の震えが止まっても、しばらく抱いていてくれた。彼の優しさに、また泣きそうになる。その繰り返しだ。

 私はようやく決心した。顔を上げなくては。いつまでも甘えていられない。

「エド……」

 彼の腕の中で小さく呟くようにして言う。彼は、次の私の言葉を待つようにして、ずっと頭を撫でている。

「……あの、私、私」

「……うん、うん」

 彼は一息ついて、私を抱きしめなおした。頭を撫でていてくれた手は、今度は私の背中に。ぎゅっと私を抱きしめて、背中をさすってくれる。私は、大きく息を吸った。

「もう大丈夫! こんなことでくよくよしない。いつも笑顔でいるわ」

 私は、彼の抱きしめていた腕を振りのけるようにして、ぱっと彼の顔を見る。ぐしゃぐしゃの顔で、精一杯笑って見せた。

「……ああ」

 彼は私の頬に手を伸ばし、顔に残っていた涙を親指で拭う。優しく、温かく、微笑んでいた。

「私の自慢のママは、きっと、パパにとっても自慢の妻だったに、違いないわよね」

「そうだね、きっと」

「私も、エドにとって自慢の妻になれるように頑張るわ。だから、ずっと笑って貴方と共に毎日を過ごしたい」

 私は、彼の顔をまっすぐに見ながら、頬の上にあった彼の手をぎゅっと握る。私の中の、精いっぱいの力で。

「だから、もう、大丈夫」

椿つばき……」

 彼は、また、私をぎゅっと抱きしめた。いくら振りほどいても、きっとこの人は何度だって私を抱きしめるだろう。きっと、私が地の底に落ちても、彼は追いかけてきて抱きしめてくれるのだろう。私も、ぎゅっと抱き返した。私だって、彼がどこに行ったって、どんな立場になったって、この小さな真っ白い手で、彼を抱きしめる。そう、決めた。


「ふう」

 私は、冷えきったブレンドティーを一口飲んで、一息ついた。彼は、相変わらず私の髪を撫でている。

 私たちは守り、守られ、前を向いて生きていく。世間の流れを気にすることなく、穏やかに。私はママのことを全部話したのもあり、心は落ち着いていた。不安から変わり、強い決心で固まる。

 また、前を見て、残り少なかったブレンドティーを、私はくいっと飲み干した。相手に合わせるのがマナーとされているからか、私が飲み干したのを見て、彼も残りのブレンドティーを飲み干した。

「これからもこんな素敵な日々が続く?」

「ああ。私たちは、私たちの世界でゆっくりと生きていこう」

 私と彼は、顔を見合わせて、手をぎゅっと握った。

 彼を見つめて数秒。彼の顔がだんだんと近づいてきて……私は目をつむる。彼は、私の唇に、軽く優しくキスをした。

 そしてまた、ゆっくりと顔が離れていく。

「大好きだよ、椿つばき

「私もよ、エドワード」

 おでこをコツンとくっつけ、私たちは愛を語らう。彼の目を見つめて、私はふふ、と笑った。それに追って、彼も優しく笑って、抱きしめてくれた。そんな彼を私もぎゅっと抱きしめ返す。

 私も積極的に、愛を行動に移していこう。私から、彼を抱きしめよう。そう思った。




 私の髪を風がなぜる。ひゅうっと冷たい風が通った。

 それを合図のように、私たちは抱きしめ合っていた腕をほどいく。

「ちょっと冷えてきたね」

「そうね」

 私の髪は、風で少し揺れていた。

「そろそろ中に入ろうか」

 彼は、食器を重ね、一つのトレーにまとめた。私は彼が何もしなくていいというから、庭の花たちを改めて眺めていた。

椿つばき……椿つばき?」

 私は、ベンチの後ろを見ていた。彼が私の名前を呼んでいたのは気が付いたけど、それ以上に気になるものがあった。

「エド、貴方……これ」

 私は目線をそのままに、彼を呼ぶ。

「なんだい?」

 彼は私に覆いかぶさるようにして、私がのぞいていた方を見る。

 私の視線の先には、黒。黒薔薇が、中庭の端っこに、ひっそりと、でも立派で。後ろにあるから気が付かなかったけれど、真っ白い小花の上に、黒い薔薇が立派に、美しく植えられていた。

 私は、返事のない彼が気になって、彼の顔を見る。彼は少しこわばっていて、時が止まっているようにまばたきもせず、黒薔薇を見ていた。

「……エド?」

 私は、彼のシャツを引っ張っる。すると彼は、はっとしたように私を見た。

「このお庭には薔薇がないと思ったけど、あったのね」

 赤薔薇も、白薔薇も、この庭にはなかった。イギリスの国花も薔薇なだけあって、庭や花壇に薔薇を植える人は多い。むしろ、薔薇庭園というくらい、薔薇がメインのお庭が多いのに、ここには薔薇がなかった。

「あっては、いけないんだ」

「え?」

「うちの庭に、薔薇は、あってはならないんんだ」

 彼はそう言って、立ち上がる。そして、庭のすみ、黒薔薇の前にしゃがんだ。

「私は、黒は苦手だけど、その薔薇は美しいと思うわ」

「……憎しみ、恨み」

 彼は、ぼそっと呟いた。

 

 『パキ』

 

「っ……!?」

 なんと、彼は、黒薔薇を、手折ておった。

「エド……?」

 彼は、私のほうをくるりと向いた。手折ておった薔薇をそのまま力強く握っている。

「……黒薔薇の花ことば。憎しみ、恨み。そして、”貴方はあくまで私のモノ”」

 薔薇を握ってる手に、さらに力が込められたのが分かった。彼の手のひらから、血がツーっと流れて、真っ白な小花たちの上にぽたりと落ちた。

「……エド、手を……」

 下を向いている彼。力強く握りしめている手の上に私の手を重ねた。彼は、下を向いたまま、握りしめていた手をほどいた。薔薇のとげが皮膚内に潜り込むように刺さって、血でにじんでいた。

「中に、入りましょう」

 私は、彼の手のひらから黒薔薇を落とした。

 そして、どこか上の空になってしまった彼の痛々しい手を軽く握った。私は彼のシャツを引っ張るようにして歩く。トレーをそのままにして私たちは中庭を後にした。

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