第2章
他人と違う英国紳士と私
第11話・黒薔薇の棘は猛毒だった
私は彼の腰を軽く押すのが精いっぱいいだった。そうしてやっと、暖炉の前のソファーに座らせる。彼はまだ下を向いている。
「エド、救急箱は? ピンセットはある?」
私はしゃがんで、彼の顔をのぞきこんだ。数十分前には考えられないほど、暗い目をしていた。昨日、私を拾ってくれたとは思えない。無表情が、怖かった。
「
彼は、はっとして上を向いて、声を荒げる。だいぶ彼は混乱しているようだった。そして、しゃがんでいた私を抱きしめた。
「……私は何処もある悪くないわ。
「救急箱なんかじゃ駄目だ……アル先生に診てもらわないとっ……!」
彼が私を見る目は少し潤んでいた。
「エド!! 貴方の、自分の手を見なさい!」
私はできる限り大きな声を出した。私の身だけを案じ過ごしている彼が、悲しかったのだ。
「あ……」
彼は、私に言われて自分の手のひらを見る。
「救急箱は!? ねえっ……」
私は彼の目を見て、叫ぶ。私も、必死だった。
「あの棚の、二番目に……」
彼は力なく、救急箱があるという棚を指をさす。
「貴方は座ってて」
私は立ち上がり、大きな棚の二枚目の扉を開ける。少しガサガサと
私は床に座って、救急箱を広げる。爪切りと一緒に、ピンセットも入っていた。
「手を……右手、広げて、エド」
私は彼の手を持つ。大丈夫だから、と、ゆっくり手を広げさせた。
「痛くは、ないの」
私はまず、ピンセットで皮膚の下に潜り込んだ
「大丈夫……?」
私はいまだに下を見て、ぼやあっとしている彼にたまに話しかける。小さく、ああ、と返ってくるだけで、私の話をまともに聞いていない感じだった。
私は温かく濡らしたタオルで、血をぬぐう。できるだけ優しく。それから、コットンに消毒液を染み込ませて、彼の手を拭く。少し、ピクッと彼の手が動いた。きっと、少し染みて痛かったのだろう。私は小さく、ごめんね、と言いながら彼の手の平を
私は彼の顔を
私は救急箱を元の場所にしまい、彼の近くに座る。隣では不安で、私は顔を
「つ、ばき…」
「!」
彼がやっと、私のほうを見て、私の名前を呼んだ。瞳からは、大粒の涙がこぼれていた。
「なあに? 何か淹れましょうか? 茶葉がどこにあるか教えてくれたら私も淹れれるわよ。ねえ、大丈夫?」
私は少し前のめりになった。彼が望むなら何でもしてあげたかった。彼が落ち着くのなら、何でもしたかった。
「これ……」
彼は手を動かし、小さな声で言う。
「ああ、いいのよ。もう、大丈夫なの……?」
「ん……」
彼はほんの少しだけ、笑った。私は先ほどの濡れタオルの使っていない面で、彼の涙を拭いた。
私がタオルを洗おうと思って立ち上がったら、彼が私の手を握った。なので私はまた彼の近くに座り込んだ。私は彼の手を両手で包んで、手の甲を撫でる。いつも彼がしてくれるように、私も彼が落ち着くまで、こうしていようと思った。彼はまだ下を向いているが、たまに私のほうを見て、微笑んでいた。その微笑む顔が悲しくて、私は、無理しなくていい、と言った。手の甲を撫でて、たまに彼の涙を拭いていた。
彼の涙が引くまで数十分、私はずっとそうしていた。やっと、涙が引いた頃、私の手を握る力がスッと弱くなった。これは合図だな、と思って、私はタオルを持って立ち上がった。彼も私の手を握ることもなく、私は、もう大丈夫かな、と思った。
『コンコンコン』
「え」
私がタオルを洗っていると、店のほうのドアが鳴る。コンコンコンと、結構力強く、そして速いテンポでノッカーで叩いているようだ。
私はどうしたらいいかわからなくて、おろおろしていた。出てもいいのだろうか。でも、
『……』
「あ、帰ったかしら……」
シーンと、ノッカーの音もなくなった。すると
『カランコロンカラン』
「え、うそ」
ドアに取り付けられている鈴が鳴る。入ってきたようだった。私はキッチンからエドワードのもとに小走りした。
「ねえ、エド。お客さんみたいだけど……」
私が彼の顔を覗き込むと、なんと、彼は寝ていた。さっき、力がスッと落ちたときに、寝たのだろう。
「どうしよう……」
「エド! エドワード!! いるの? エドワード!」
女性のようだった。彼はまだ何も言わない。だけど、彼を呼ぶ声は大きくなっている。近づいてきているようだった。
「「あ」」
彼が座っているソファー越しに、私はその女性と目が合った。私は
「か、彼女さんですか……」
私は恐る恐る、その女性に
「えっあたし?やだあ、ないわあ」
彼女は手を振りながら、きょろきょろする。一方私は、彼女じゃないと聞いて、ほっとしていた。
「あ、これ、エドね。ごめんなさい、可愛らしいお嬢さん。ちょっとだけ、エドを
そう言いながら、女性は彼の正面に来た。私は邪魔かと思って、キッチンのほうに避難しようと思った。
「あ、ごめんね。ここにいていいのよ。エドの隣にでも座ってて」
彼女は私に向かって早口で言った。
「そ、そうですか……?」
私はびくびくしながら、少しずづ彼のほうに近づく。
彼女は持ってきた大きな
「あたし、アニカ・シュナイダー。エドワードの古い友達よ。さっき、アルフレッド・レイランド先生に電話があったのだけれど」
「あ」
私は、たまに彼が言う”アル先生”を思い出した。
「アル先生……?」
「そう。あたしの旦那。アルフレッドは今ロシア行ってて……。でも、相当焦っていたみたいだったから、またやらかしたのかと思って急いできたんだけけれど」
「けど、こっちね。これなら大丈夫よ」
「?」
私は、”また”とか”こっち”が分からなかったけど、アニカと名乗った女性は優しく話してくれたから、少し緊張がほどけた。私はエドの座っているソファーに座った。彼女は、また鞄をあさり始めた。
「あたしも医者の端くれだから安心してね。エドワードはね、たまにこうなるのよ。きっときっかけがあったとは思うけど……何か知ってるかしら?」
彼女は注射器の入った袋を取り出しながら話す。
「……中庭で」
「ええ」
「黒が……黒薔薇があったんです。それを彼に尋ねたら、それを手折って、握りしめて。それから口数が減って、涙もこぼすし、私のほうを見てくれなかったんですけど……」
私は黒薔薇のことを彼女に伝えた。彼が取り乱して、少し怖かったことも、彼がうわの空で、不安なことも。彼女は、うんうんと聞いてくれた。一旦話が落ち着くと、彼女は袋を破って、真新しい注射器を取り出した。そして、彼が血だらけにした右手を手に取る。
「そう……手当てしてくれたのね」
「ええ、一応……」
彼女は彼の右腕に注射を打った。
「しばらく安静にさせましょう。大丈夫、もう少ししたら元の紳士的なエドワードが戻ってくるわ」
私はほっとして、はあ、と、大きく息を吐いた。
「彼がこうなったの、初めて見た?」
彼女は医療器具をしまいながら私に問いかける。
「……私、昨日からここに住まわせてもらってて」
「そうなの……それじゃあ、びっくりするわよね」
彼女は立ち上がり、微笑みながら私の頭を撫でた。
「一応、エドが起きるまで、ここに居てもいいかしら」
彼女は少し申し訳なさそうに言った。私は、彼が起きるまでお医者様にいてほしかった。私だけじゃ万が一の時に、何もできない。
「是非いてください、お願いします」
私は彼女に向かって頭を下げる。
「そんなに固くならないで。医者じゃなくて、ただの友人よ。あたし、ぜひあなたともお友達になりたいわ」
彼女は私の頬を撫でて、顔を上げるように促す。私はちらりと彼女を見る。やっぱり、優しく笑っていた。私は彼女がずっと微笑んでいるものだから、それにつられて少しだけ口角が上がった。その様子を見た彼女は、満足そうに、うん、と頷いた。
そして、慣れているように、ソファーの近くの花が飾られているテーブルの椅子に座った。
「ごめんなさい、お茶を出したいけれど、茶葉の場所とかわからなくて」
私は彼女に謝る。お客様を何ももてなさないわけにはいかない。でも、紅茶の正しい淹れ方も、茶葉の場所もわからなかった。
「あ、あたし淹れるわ。お嬢さんは座ってて。チャイにしようかなあ。お嬢さんは、チャイ大丈夫?」
「え、ええ……好きです」
彼女は、ショーケースからティーカップとソーサーを手に取り、手慣れたように棚から茶葉を、冷蔵庫からミルクを取り出し、紅茶を煮出し始めた。私は彼女の様子を見て、あ、と声が漏れる。
「あっあの、私、中庭に行ってきます」
「中庭? 一人で大丈夫?」
「はは……大丈夫です」
私は苦笑いしながら、小走りで中庭に向かった。
中庭の扉を開けると、びゅうっと冷たい風が私を直撃する。私はサンダルを履いて、腕をさすりながら白いタイルの上を歩く。
「何時かしら。ちょっと日が落ちたわね……」
私は、流れるスピードが速くなった雲を見ながらつぶやく。何時間、私たちはここに居たのだろう。そうしていると、一番奥のベンチにたどり着いた。
「すっかり冷たくなって」
私は、置きっぱなしにしていた食器を持つ。私は引き返そうとしたところで、黒薔薇が目に入った。
「……憎しみ、恨み……そして……”貴方はあくまで私のモノ”……」
風になびく黒薔薇が、うっとおしく感じた。彼を狂わせる、黒薔薇……。私は一回持った食器をまたおろした。そして、黒薔薇に近づく。
「……私も、
私は、彼がしたように、黒薔薇を、手折った。
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