第4話・明光椿
『チチチ……』
小さな小鳥のさえずり。
昨日があんな雨に、強風だったとは思えないような、爽やかな青空。
昨日は暗くて気がつかなかったけれど、彼の部屋は角部屋のようで、大きな窓があった。そこから入ってくる太陽の光が、私には眩しすぎた。それと同時に心が躍る。こんなにも町は明るいものだったろうか。蛍光灯の光とは比べ物にならないくらい、あたたかで幻想的な光。私は起き上がり、そのまま窓を見つめる。いつぶりかわからない美しい光に、私は見とれていた。
『コンコンコン』
部屋の白い扉が鳴る。はっ、として右を見ると、エドワードはいなかった。
「
扉の向こうから彼の声がする。ここは彼の部屋なのに、ノックするなんて不思議な感じ。
「おや、起きてたのかい」
少し驚いたように言う。
「体も起こして……大丈夫かい?」
「やだ、そこまで弱くないわ。起き上がるくらいはできます」
ぷいっと顔を横に向け、少しふてくされたように言う。
「おっと、失礼したよ、レディ」
と、彼は少し頭を下げつつ、目線は私のまま。
私はほんの五秒くらい経ってから、顔はそのままでちらりと目線だけ彼を見た。 そして、ぱちっと目が合った彼と私は、クスクスと笑いあった。
「あら、エド、それはなぁに?」
彼は綺麗なトレーに、これもまた、綺麗で高そうなティーカップが乗っていた。
「アーリーモーニングティーだよ。君が来てから初めてだからね。シンプルな茶葉のほうがいいかと思って。とりあえず世界三大銘茶の一つ、ダージリンティーだ。」
彼はそう言いながらベッドの上の私にカップを差し出す。
”Early Morning Tea.”目覚めのお茶。知ってはいたけど、初めての体験だった。
ソーサーを膝に置き、私は両手でカップを持つ。差し出されたティーカップは白に小さな赤い花柄。素敵なカップだと思って、口をつけずに眺めていた。
「ああ。素敵だろう? Floretって店のカップさ。私のお気に入りの店の一つだ」
彼は私の視線に気づいたみたい。
「素敵。私も気に入ったわ」
「小さな花。君にぴったりだろう?」
まあ、キク科なんだけどね、と、彼は言いながらベッドにトレーを置く。そしてベッドのふちに腰掛け、紅茶を一口飲んだ。それにつられるように、私も一口飲む。高貴な香りが口いっぱいに広がる。私も一応イギリスに住んでるわけだし、紅茶は毎日飲んでいたけれど、こんなに口の中で香りが広がるのは初めて。ダージリンが”紅茶のシャンパン”と言われるのも、納得だ。
「これ、本当に、ダージリン?」
「うん?そうだよ」
私が飲んできた紅茶とあまりに違いすぎて、疑える。
「私、貧乏なりにも一応イギリスに住んでるんだから、紅茶は結構飲んでたのよ。だけど、こんなの初めて」
「淹れ方によっても変わるからねえ」
「ふうん……」
淹れ方云々より、絶対茶葉が違うわ、と、私は思った。私が飲んでいたのは偽物で、これが本当のダージリンなのだ、とも思った。
私がしばらく香りの
「……窓を眺めていたけど、何を見ていたんだい?」
彼はカップを置きながら話し出す。私はもう一口紅茶を飲んで、両手でカップを包み隠す。紅茶のあたたかさが、手にじんわりと伝わる。
「んー……何も見ていないわ。
「へえ?何か面白いものはあったかい?」
不思議そうに彼は私に問いかける。
「ええ、とっても」
ロンドンが美しい街だとわかったし、太陽は眩しいものだと知った。そしてその光は決して嫌なものなんかではなく、暖かく優しい母のようだと。嬉しい気持ちと相対して、私には不釣り合いではないかと、少し不安にもなった。けれど、いい街と人に拾ってもらえたと、やっぱり嬉しかった。
「私には教えてくれないのかい?」
彼は少し寂しそうな顔をする。私は逆に微笑んで、こくり、とうなずく。
「内緒よ。でもそうね、少し白が好きになった。これだけ教えてあげる」
私はちょっとだけ得意げに、ふふん、と笑って、紅茶を飲んだ。
一方彼は、紅茶を一口飲んでから、残念そうに大げさに肩を落として、首を振った。私はその様子を見て笑う。彼もくすっと微笑んだ。
そのまま二人、窓を見ながら、無言で、でも穏やかに。ゆっくりと紅茶を飲んだ。白くまばゆい光を見ながら、二人で飲む紅茶とその空間が暖かくて、私は朝のこの時間が大好きになった。
ゆっくり飲んでいたダージリンが空になっても、しばらく二人、窓の外を眺めていた。この時間が終わってほしくない。でも雲も空を漂うように、時間は進んでいく。私は小さくため息をついた。
「ん?」
彼はこちらを見る。
「いいえ、時間が過ぎていくのが惜しくて。最高の目覚めだったわ」
私は空になったティーカップの、可愛い小花をつなげている
「朝から幸せでいてほしいからね」
彼は私の頬を撫でる。嬉しくて、むずがゆくて、顔がにやけた。私はつい下を向いた。すると、彼は顔を近づけて、私の頬にキスをした。
「おはよう、私のお姫様」
挨拶はまだだったからね、と言いながら彼は私の頬から手を放す。今度は私のカップを持つ手に触る。
「お気に召したかな」
と笑って言った。
私は彼に空になったカップを渡して、それから彼の頬にキスをした。
「ありがとう、私の王子様」
昨夜は頬にまで届かなかったから、頬にキスできたのを私は心の中で喜んだ。彼は笑って、どういたしまして、と照れたように言った。そして彼は、空になった二つのカップをトレーに戻しながら話し出す。
「じゃあ今日は、約束通り
「あらまぁ」
私は口に手をあて、クスクスと笑う。
「それじゃあ、私は一回カップを置いてくるから、少しの間だけ、ひとりでいられるかい?」
彼は私の頭に手を置いて、軽くぽんぽん、と。でも私は、今朝は起き上がれたし、綺麗な太陽の光を見てから、歩くことも走ることも、なんだってできる気がしていた。
「カップ置きに行くの、私、一緒に行くわよ」
彼は、ぎょっとする。
「まだ危ないんじゃないかい……」
「一緒に一階に下りる!行ける行ける、大丈夫よ!」
私は彼を見上げながら、大きな声でねだるように言う。彼はうつむいてうなり始めた。
「うう~~~~~ん……でもなぁ」
「大丈夫だって、言ってるじゃないっ」
私は悩む彼を横目に立ち上がる。
「えっ」
彼は驚いて思わず声がこぼれた。そして当の私も驚いた。立ちあがった自分にびっくりして、私は目を丸める。
「……ね? もう大丈夫よ!」
彼はため息をついた。
「はあ……。オーケイ、
遠足でも散歩でもない。ただ、階段を下りるだけだ。それなのに、座って休むとか。これでも彼は、かなり
「もう、わかったわよ、ゆっくり、休みながら、ね。うふふ」
昨日と違って、とても体が軽い。ステップだって踏める。私はくるくると彼の前を
「参ったな。レディに手をとられるなんて」
彼はやっと私のほうを見て、呆れ顔で笑う。深呼吸を一回。それから彼も立ち上がり、改めて、私の手を取った。
「それじゃあ行こうか、レディ?」
彼は私の右手を握り、空いた手でティーカップとソーサーの乗ったトレーを持つ。私は嬉しくて彼の手を、ぎゅっ、と握り返した。
「
片手に私、片手にトレー。両手がふさがっている彼は、困ったように私に言う。私は、私の手を握っている左手を離せばいいのに、と思ったけど、どうしても手は放したくないようだった。
「もちろん」
二枚扉の私側にある、左側だけ押して開ける。彼は隙間を、すっと入って行って、足で扉を抑えて、閉まらないようにする。それから私も廊下に出る。すると、目の前に見えたのは、真っ白で長い廊下。階段までの道のりで、何個かある扉も全部白だった。彼の寝室の向かいの部屋、前の女性の部屋の真っ黒な扉は、ものすごく場違いなように感じた。
「
三人は余裕で横に並んだまま通れそうな階段。彼は左側に寄って、手すりを握るよう促す。私はちゃんと、彼に心配かけないように、しっかりと
彼が先に一段降りて、私を見る。そして私は足元を見ながらゆっくり一段降りる。そして度々彼が、大丈夫かい、と聞く。それを何回も繰り返して、やっと一階のリビングについた。それでも彼は手をほどいてくれない。そのまま彼はゆっくり進んで、私を暖炉の前のソファーへ誘導した。
「はい、到着」
彼はテーブルにトレーを置いて、ソファーに座った。手は放してくれないので、そのまま私も流れるように座る。
「着いた着いた、よく頑張ったね」
彼は、安堵の息を吐く。そして空いた手で私を撫でる。繋いだ手はまだそのままだ。私は階段くらい、と思いながらも、褒めて撫でてくれるのが嬉しくて、笑みがこぼれる。
「ふふ、当然よ」
「
また彼は私の頭をくしゃくしゃと撫でた。私も少し体を傾けて、彼に寄りかかる。そのまま、少し休憩。十分くらい経っただろうか。
「あの、
そもそも、私は何時に起きたのだろうか。そもそも、彼の部屋に時計はあっただろうか?
「ん? あぁ、まだ六時半だよ。ちょっと早起きしたんだ」
随分ゆっくり、アーリーモーニングティーを楽しんでたことを考えると、だいぶ早く目が覚めたと思われる。私はママが寝る時間に合わせていたから、朝に寝て夕方に起きる生活をしていた。だから、朝日で目が覚めるってこういう事なのかな、と思った。
朝日で起きられたことをうれしく思い、こっそり笑う。すると、彼は私の体を少し彼をほうに引き寄せる。きっと笑ったのがバレたのだろう。ああ、この人には隠し事はできないな、と思った。
「よし!」
彼は声をあげる。私の手を握ったまま、少し立ち上がり、中腰で私の前に来る。
「さあて、
私の目を見る彼の前は、綺羅綺羅していた。子供のようだと思って、笑いながら、私も立ち上がった。
アーリーモーニングティーの後片付けもそこそこに、私は昨夜のシャツのまま。彼に手を引かれながら
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