ミエナイ

ひせみ 綾

第1話

 昼休み、食事から戻って来た同じ部署の若手社員数人が怪奇現象の話題で盛り上がっているのを、私は少し離れた自席で、聴くともなしに聞いていた。

「でさ、その取引先の担当者が会議室に入って来た途端、俺、なんていうかこう、背中がザワっとしちゃって」

 話の輪の中心になっているのは営業部の牧野。その牧野を取り囲むようにして新人の女子社員が三人、熱心に相槌を打ったり、可愛らしく笑い声をあげたりしている。

 牧野は際立ったイケメン、というわけではないが、人当たりがよい好青年だ。女性社員にも人気があるようで、社内にいるときには、いつも数人の若い女の子に囲まれている。

「外から連れて来ちゃったんだよねえ。それも、結構ヤバめのヤツ。肩に乗っかられてる本人はゼンゼン気づいてないんだけどさ。俺、プレゼンしながら指先が震えてきちゃって」

 連れて来ちゃった、というのは、霊の話か。会社や飲食店、人が集まる賑やかな活気のある場所には浮遊霊が寄ってきやすいというのは聞いたことがある。しかし、ただ道を歩いているだけの人間にくっついて他人の会社まで入り込んでしまう霊、というのは、想像するだに少し滑稽だ。

「やだあ、怖い」

 両手で自分の身体を抱くようなポーズをとりながら、心底怯えたような声を出したのは、新人女子社員の結花だ。怖い話が本当に苦手なのか、怖い話が苦手な自分をアピールするのが好きなのか。どちらにせよ、私には関係ないけれど。

「牧野さん、大丈夫だったんですか?霊って、視えてる人に寄って来るっていいますよね?」

 女性はとかくパワースポットだの占いだのを好む傾向にあるが、心霊の話題も同じらしい。牧野が、自分で言うように本当に霊感があるのか、或いは女性受けを狙ってそのように言っているだけなのかは分からないが、後者だとしたら明らかにその試みは成功している。なにより、牧野を見つめる結花の熱の籠った目が、雄弁にそれを物語っている。もっとも、嘘か否かなど私に判別がつく筈がない。私自身に霊感などというものが欠片も備わっていないからだ。

 私は子供の時分からこれまでの人生で霊を見たことはないし、怪奇現象と呼ばれるものに遭遇したこともない。一昔前は霊の仕業だと考えられていた(いまでは睡眠麻痺と呼ばれるある種の睡眠障害だと医学的説明が為されている)、あのオーソドックスな「金縛り」とやらにすらあったことがないのだ。でも、霊感がある、と自称する人の言葉を疑ったりはしない。私には視えないだけで、視える人たちには本当に視えているのだろうし、私に感知出来ないこの世ならぬ世界は存在するのだと信じている。私の旧知にも一人だけ、霊感を持っているという女性がいた。

「それがさあ。瑞葉さんが登場した途端、フっと楽になったんだよ」

 突然に名前を出され、私は我に返った。

「そのとき瑞葉さんがちょっと遅れて打ち合わせに参加したんだけど、彼女が部屋に足を踏み入れたと同時に、霊の気配が消えたワケ」

 説明っぽい台詞は、結花とその他二人の女子社員に向けられたものだ。

「え~~。それって、なんだかまるで、岩崎さんがゴーストバスターみたいじゃないですかあ」

 結花がわざとらしく首を傾げる。上目遣いの視線は牧野に向けられているので私に対しての質問ではない。なので、黙っていた。

「そうだよ。瑞葉さん本人は気づいてないかもしれないけれど、実際、そういう人っているんだよ。霊媒体質とは真逆の、生まれついての除霊体質、っていうのかな」

 傍で見ていても意味ありげな結花の問いをするりとかわし、牧野が私へと視線を投げる。私は気づかない振りをした。もうじき昼休みも終わる。午後の仕事の用意をしないと。結花がなにか言おうとしたが、時間切れだった。牧野は外交へ出掛けて行き、私も結花も他の女子社員も、各々の仕事へと戻った。


 二時間程残業し、退社しようとデスクを片付けていると、社用車で牧野が帰って来た。やたらと重そうな鞄をデスクに放り投げ、露骨な咳払いをする。

「お疲れさま、お先に」

 面白くも無いアピールを無視して事務所を出ようとすると、牧野は追いかけて来た。

「待ってくださいよ、瑞葉さん。怒ってます?昼間、俺が瑞葉さんの名前を出したから」

 別に、牧野に腹を立てる理由は無い。

「怒ってなんかいないわ。デフォルトでこういう顔なの」

「俺のこと、変なヤツだと思ってるでしょ」

 牧野の言葉に、つい、全力で頷きそうになる。

「確かに俺は瑞葉さんに興味があります。でも、ヘンな下心とかじゃありません」

 なにを言っているのだ、この男は。意味が分からない。

「私が除霊体質だから興味がある、ってこと?」

 自分でも驚く程に醒めた声が出た。

「そんなの、いまさら指摘して頂かなくたって昔から知ってるわ。ずっと昔に、私に同じことを言ったひとがいたから」

 私のことを除霊体質だと言ったのは、彼女だった。

 瑞葉ちゃんには、すごく強い守護霊がついている。鬼とか蛇とか、ですって?ううん、全然、そういうんじゃないの。これは私のイメージだけど、エプロンをつけた肝っ玉母さん、的な感じ。やだ、どうして笑うの。エプロン姿のオカンじゃ全然強そうじゃないじゃないか、って?でも、本当に強いの。悪い霊が近づこうとしたら、叱りつけて追い返しちゃう。だから瑞葉ちゃんは一生、霊と関わらない。悪い霊は、あなたに手出し出来ないのよ。そう言って柔らかく微笑んだ彼女は、10年前に亡くなった。

「あなたが私に興味があっても、私のほうはあなたに関心がないの。私に近づかないで」

 大学生の頃、バイト先の上司と深い仲になり、それが原因で痛い目にあって以来、私は、男性と関わりを持つことを極力避けている。おまけに、霊感があるなどという人間、なおさら願い下げだ。

 私は牧野を押し退けるようにして、その場を後にした。


 都心は今日でもう1週間、記録的な猛暑続きだ。

 昔のよしみで断り切れず不承不承参加した六本木での懇親会。二次会の誘いをなんとか断って、足早に帰路につく。

 恵比寿駅でJRに乗り換えるため地上に出ようと階段を昇る私の視界を遮るように、かれらは現れた。地下鉄日比谷線に乗るために降りてくる人々の群れのなかでも一際異彩を放つ中年カップル。

 男は、長身で横幅も二人分、月並みな表現だが、熊のような体躯だ。ネクタイではなくカラフルなネッカチーフをし、カネの匂いを振り撒いている。女のほうは、小柄で細身。大男の腕に、蔓草のように纏わりつき、ぶら下がりながら歩いている。見たところ年齢は50絡み、決して若くはないが整った顔立ちで、派手な化粧に栗色に染めた巻き髪、なにより、深いスリットの入ったスカートから延びた鮮やかな緑色のストッキングを履いた足が、水商売の女性であるらしいことを物語っていた。

 二人は大分酔っていると見え、大声で浮ついた会話を続けている。大男が女の腰を引き寄せ頬にキスすると、女は辺り憚らぬ嬌声を上げた。

 いい齢をしてこんな公共の場で、と、醒めた視線を送りつつ、階段半ば付近でかれらとすれ違うときだった。

 大男がいきなり私に抱き着いてきた。否、正しく表現するのなら、足を縺れさせ倒れ掛かってきたのだ。そのままであったなら、私は大男に下敷きにされた状態で真っ逆さまに階段を滑り落ち、打撲や骨折程度の怪我では済まなかっただろう。下手をすれば、命の危険さえも。

 でも、そうはならなかった。私は咄嗟に片手で手摺を掴み、捻るようにして半身を開きながら、残った片方の腕に渾身の力を籠めて、男の身体を押し戻した。

 ほんの一瞬だった。

 私にありったけの力で押し返された男は、バランスを崩したまま振り子のように、今度はまったく逆の方向へ傾いた。そう、自分の連れの女のほうへ。

 金切声。悲鳴。周囲の騒めき。

「大丈夫か。おい、大丈夫か?」

 階段を駆け下りながら、大男が叫んでいる。遥か階下に、頭を下に向け、壊れた人形のような姿勢で投げ出された女が転がっている。緑色のストッキングに包まれた爪先からは靴が両方とも脱げ落ち、片足は、膝から下が健常な人間なら有り得ない角度に曲がっている。

 死んでいるのか、生きているのか。分からない。

 倒れ伏した女の傍らに膝をつき、丸めた背中を震わせる男が、一瞬、首だけで振り返り、私を見上げた。途方に暮れたような表情、或いは、私を咎めるような。

 関わりを持つのは御免だ。私はそのまま踵を返し、振り返らずに地上に走り出た。


 翌日。

 出社前に、数種類の新聞に目を通したが、昨夜の日比谷線恵比寿駅での階段転落事故に関する記事は見つからなかった。事件性のない事故程度では新聞沙汰にはならないのかもしれない。落ちた女がどうなったのか、気にならないと言えば嘘になるが、やがて忘れる。いつもそうなのだから。私の周りで人が死ぬような事件や事故が起きるのは、これが初めてではない。

 3年程前になるが、乗っていたタクシーがいきなり急ハンドルを切り、歩道に乗り上げ、電柱に激突した。幸いなことに私自身は軽い鞭打ちをやったくらいで、外傷もほとんどなかった。だが、通行人数人が巻き添えとなって重軽症者が出たうえ、タクシーのドライバーが搬送先の病院で亡くなった。その初老の男は、潰れた車輌から助け出されたときはまだ息があり、救急隊員に「突然、子供が二人飛び出してきた」としきりに訴えていたらしい。無論、私は男が言うような子供の姿など見てはいない。

 去年、行きつけのバーで、妙にしつこく絡んでくる見知らぬ男性客がいた。馴染みの店員も、態度の悪いその男を持て余し気味で、私はうんざりし早々に店を出た。数日後、夕方のニュース映像でその男を見た。なにが理由か知らないが、新幹線のなかで突然に刃物を取り出し振り回したとかで、連行されていく場面だった。

 一歩間違えれば、自分も死んでいたかもしれない。運が悪ければ、自分が刺されていたかもしれない。でも、そんな不確かなことに恐怖を抱いてどうなるというのだ。落命したり怪我をしたのは私ではない不幸な別の誰かで、私は今日もこうして無事に生きている。

 そして、そんなときいつも、私は振り向いて、誰かの姿を探してしまう。


「おはようございます、瑞葉さん」

 事務所に到着するなり、牧野に捕まった。

「ちょっと、いいですか」

 近づくなと言ったばかりなのに。この男の記憶容量は2バイト程度なのだろうか。

 牧野は強引に私の手を引っ張り、非常階段の踊り場まで誘(いざな)った。怖いほど厳しい顔をしている。普段は柔和な表情なのに、別人のようだ。そして、前置きもなく、言った。

「後ろにいる女性と子供たちは、誰なんですか?」

 言葉に詰まった。その問いを予想していなかったからではない。むしろ、その逆だ。

「瑞葉さんの、じゃない。瑞葉さんの『近くにいる誰か』の背後にいつもいる。初めは、俺の気のせいなんじゃないかって思ってました。でも、そうじゃない。かれらはいつも、瑞葉さんを見てるんです」

 そうか。牧野には、やはり、視えてしまっているのか。


 彼女は、私が幼い頃に近所に住んでいた。私が小学校高学年の頃には確か成人していたと思う。それ程に年齢は離れていたが、あまり社交的な性格とは言えず、おそらく友人も少なかっただろう彼女は、時折遊びに行く私をいつも笑顔で出迎え、妹のように可愛がってくれた。美しくたおやかで儚げで、まるで物語の主人公のようで、私にとって憧れの存在だった。私は彼女にどんなことでも話せたし、彼女も私に、強い霊媒体質のせいで幼い頃から霊障に悩み、それが原因で人づきあいが苦手になった、とこっそり打ち明けてくれたりもした。メディアでも有名な霊媒師「○○の母」の元に直接相談に行ったこともあったらしい。

 私は、その年代の多くの子供たちと同じように、心霊現象や怪奇な話に興味津々であったので、彼女のちょっと怖い体験談を聞くのが大好きだった。

 しかし。中学、高校と年齢が上がるにつれて、友達と遊ぶことに忙しくなり、私は彼女を顧みなくなった。私の知らぬ間に、彼女は見合いをして結婚し、他県へと越して行った。それきり彼女との付き合いは絶え、彼女が二人の男児の母親になった、ということも、自分も故郷を離れてしばらく経ってから実家の親を通して知った。

 彼女との思いがけない再会は、それから数年後。否、再会とは言えない。彼女は私と会ってはくれなかったのだから。

 どうしてそんなことが起こってしまったのか。罪があるのは、罰せられるべきは誰なのか。偶然だった。私は知らなかった。当時、アルバイトを始めた飲食店で知り合い、交際を始めた上司が、彼女の夫だったなどと。

 男は出会ったその日から、それは熱心に私を口説いた。既婚者であることは知っていたが、社会的地位もある大人の男にチヤホヤされるのが満更でもなかった私は有頂天だった。男を真剣に愛したわけではなかったが、無邪気に、ただ流されることを楽しんでいた。それから半年も男と関係を続けながら、私はそのことを、誰をどのように傷つけるかを、一瞬たりとも考えてもみなかった。子供だった。愚かだった。

 全てを知ったとき、初めて、世界が足元から崩れて行く感覚を味わった。出来ることなら、彼女の前に身を投げ出したいと思った。罵倒され、鞭打たれたかった。でも、彼女は私が謝罪することすら許してはくれなかった。電話も手紙も面会も私の全てを拒絶し、そして自ら命を断ったのだ。二人の幼い子供を道連れにして。


「そんな。そんなことがあったなんて」

 牧野は蒼褪めていた。無理もない。

「その、相手の男の人は、どうなったんですか?」

 声を絞り出すかのような、掠れた問いかけ。私は首を横に振った。家族と愛人を同時に失った男の行方を、私は知らない。知りたいとも思わない。

 尚も何か言おうとする牧野を、私は再び首を横に振って、黙らせた。これ以上、何も答えたくなどないし、聞きたくもない。ただそっとしておいて欲しい。

 項垂れた牧野が非常階段を降りていく。私はその背中を見送った。別に、貴方が落ち込む必要はないのよ。そう思いながら。

 私へと向かって走る憎悪と害意の視えぬ矢は、決して私には届かない。的を外れた流れ矢に当たったとしたら、それは本人の運の無さだとしか言いようがない。

 ふと、視線を感じた。目線を上にあげる。非常階段の重い扉が軋みながら閉まる音、走り去っていく軽い足音。

 確かめるまでもない、結花だろう。私と牧野の様子をこっそり窺っていたのだ。距離を考えれば、会話の内容まで聞こえた筈はない。人目を忍ぶように囁き交わす私と牧野は、結花の目に、さぞ親密そうに見えたことだろう。何かが私のなかで確信に変わる。この次に、私の周りで誰かが命を落とすとしたら、そこには結花が関わってくる。その不運な犠牲者は、牧野なのか、結花本人か。そこまでは、私にも分からない。

 私は振り向いて呟く。私の目には、誰の姿も視えないけれど。

「ねえ、もう諦めたら?どうせ、私には指一本触れることが出来ないんだから」 

 覚えているでしょう。貴女が、そう言ったのよ。

 どこかで、彼女と、両脇に並んだ二人の子供たちが舌打ちしたような気がした。


                   ≪Fin≫

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ミエナイ ひせみ 綾 @mizua666da

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