二、保健室は無法地帯




 目の前には見慣れた白い天井。ただし、保健室の。

「………………………………ゆめ?」

 つぶやく、あたし。


 ああ、全身がびしょ濡れだ。


 目覚めたばかりの倦怠感に支配された身体は、汗でいっぱいになっていた。

 仰向けのまま、あたしは手の甲で額に触れる。

 熱を奪われた皮膚はじんわりと湿っていて、朧げな記憶はやがてうつろへと溶け込んでゆく。


 ん、溶ける?


「あ、ジェラート。やべ、そろそろ準備しなきゃ……」

 ゆっくりと呼吸を整えてから静かに上体を起こす。そして、シーツを剥いで脚を下ろす。とその時、

「ん……い、痛い……あ……だめ…………あん……」

 あん?

 カーテン越しに、隣のからどこか淫らな女の声が聞こえた………………


 なんだこの忙しい時に。

 どこのどいつだ、白昼堂々と保健室でイチャコラやってやがんのは!


「……い、いいです……そ、そこ、もっと…………あ、やん……ら……め……」

 少しイラついてきた。


 いや、別に彼氏がいないからとか、そういうんじゃないから…………多分。


 ていうか、これから実験の準備とかで色々と神経使うって時に、隣のベッドでそんなことやられた日にゃ、イラついても仕方がないだろう。

 まあ、一昨日の実験みたいに「科学の領域」からは外れていないから、実際はそこまで神経使わないけどね。

「…………ああ、い、いい…………すっごく…………」

「おい、そこで何をしてい…………………………る?」

 カーテンを勢い良く開き、ベッドの上に視線を向ける。と、そこには、

「何って、足つぼマッサージだけど」

 平然と答える二戸布良芽にのへふらめと、

「えっと、最近疲れが取れないって言ったら二戸先生が……」

 なぜか恥ずかしそうにそっぽを向く道家南華みちいえみなかの姿。

「なんか、えらくベタな展開だな……」

「ん、何が?」と布良芽。道家先生の綺麗な脚を膝に載せながら、足の裏を丁寧に揉んでいる。

 そういえば彼女、大学院では西洋のみならず東洋医学も専攻していたような。

「いいえ、何でもありませんよ二戸先生。それより、道家先生」

 あたしは、ベッドの上で仰向けになっている彼女を見る。

 より正確には、彼女の胸の辺りを。

「な、なんでしょう?」

「疲れが取れないと言ってましたが、先生は肩がこり易い人なのでは?」

「な…………なぜ、それを!」

「いえ、気がしたものですから」

「…………………………!!!」

 意味を理解したのか、慌てて胸を隠す彼女。

「おー、そういうことか。それは気がつかなかったわ。道理でこの辺りのぜい肉が、やたら自己主張しているかと思ったら」

「ちょっ、二戸先生!?」

 不意に道家先生の豊かに実ったそれを、面白がって下から持ち上げる布良芽。

 持ち上げながら、上下に動かしたり胸全体を念入りに揉んだりして遊ぶ彼女。

「こんなご大層なモノをブラブラ下げていたら、そりゃあ疲れも取れないよね。ナンカちゃん」

「や、やめて下さい。あと『ナンカ』じゃありません、『み・な・か』ですよ」

「本当にやめて差し上げろ! 見いてるこっちが恥ずかしい……」

「ちっ、お子様め!」と言いつつも、布良芽も少し飽きた様子で躾けの悪いその手を離す。

「まだ第二次成長期が終わってない白魔はくまちゃんには、オトナの世界は少し刺激が強過ぎたかい?」

「余計なお世話ですよ、二戸先生」

「もったいないなー、せっかく膨らみかけの良いラインが出来上がりつつあるというのに。世の男子が草食過ぎるせいで、きみのような異端児は中々受け入れては貰えないようだねー」

「それが余計なお世話だと言って……」

 言いかけたあたしの唇に、布良芽はそっと人差し指を当てて小さく囁いた。

「寂しかったら昼夜問わずいつでも、わたしが相手してあ・げ・る」

「………………………………骨も残らず灰になればいいのに」

「やだ、白魔ちゃん冷たい!」

「まあ、これから冷たいジェラートを作る実験もあるんでね」

「あら、それは美味しそうな実験ですね」

 と、そこへ、甘い物に目がない道家先生が割って入る。

「良かったら、先生にもお裾分けしますよ」

「え、良いんですか!」

「ええ」と、あたしは朗らかスマイルで答える。

「嬉しいです。私、ジェラート大好物なんですよ。あ、でも一番は杏仁豆腐ですけどね」

 きもしない情報をわざわざ教える彼女。


 残念だけど、杏仁豆腐の予定は無いから。家庭科じゃないから。


「ねーねー白魔ちゃん、わたしには?」

「ああ、二戸先生には『激熱げきあつビーカーコーヒー(取っ手無し)』でも持って来てあげますよ」

「何、その待遇の差!? 今、夏だよね? 真夏だよね?」

「日頃の行いの差では?」

 そっけなく応えるあたし。

「というか、取っ手が無いと火傷するよね?」

「保険医なら火傷の処置とか楽勝でしょう」

 なおも食い下がる布良芽にしれっと言い放つと、あたしはベッドの鉄パイプにかけた白衣を着込んで出口へ向かおうとする。が、

「ん、何ですか?」と問うあたしの右手を掴み、恨めしそうに見つめる布良芽。

「同じ大学院のよしみで…………ね?」

「はあ…………じゃあ、余ったらってことで」

「しゃぁー」と、なぜか勝ち誇ったように拳を握って天高く掲げる二戸布良芽にのへふらめ(二十五歳)。


 子供か、君は…………


 さて、こんなアホな大人に構っている余裕も、そろそろ無くなってきたかな。

 あたしはふと、壁にかかった丸時計に視線を移す。時計の針はちょうど十一時を指していた。

「あ、道家先生」

 あることを思い出し、あたしは彼女に声をかける。

「はい」

「そろそろ三時限目も終わりそうなので、あたしは戻りますが、確か先生はこの後『倫理』の授業ありませんでしたっけ?」

「…………あ、そうでした、そうでした」

 まるで今思い出したかのように手を叩き、慌ててベッドから這い上がる。

 大丈夫かな、このヒト…………

「あ、待ってください。今行き…………ひゃうっ」

 あたしが心配した矢先、彼女はベッドを降りようとしてバランスを崩し、たたらを踏むようにしてこちらに駆け寄ってきた。

「ちょっと、大丈夫ですか?」

「えへへ、つまづいちゃいました。私のあわてん坊さん」

 ごつんと、小さな拳で自分の頭を小突く彼女。


 いや、そんな小動物みたいなオーラ全開で言われても困りますが。


「じゃあ、職員室まで一緒に行きますか」

「はい」と朗らかに返事して、至近距離ではにかむ道家先生。


 おのれ、かわいいじゃないか!


 などと思いつつ、あたしがドアノブに手をかけようとしたところで、

「あー、そうだ。白魔ちゃん」

 布良芽が呼び止めた。

「最近、掲示板に奇特な書き込みが増えてるみたいだけど、知ってる?」

「掲示板?」と、あたしは頭を振る。

保健室ここによく来ている生徒から聞いた話なんだけど、なんでもさー『魔王』を名乗る人物が『週末に備えろ』とかなんとか、ワケの分らないことを書き込んでいるらしいよ」

「掲示板って、高校ここの?」

「そ、ここの」

「ふーむ…………『魔王』ねえ……」

『魔王』という単語自体には、思い当たる節が無いこともないが、しかし、

「週末って、今週何かありましたっけ?」

 そう言って、小首を傾げる道家先生。

「さあ、あたしにはさっぱり」

 先週末ならともかく、今週末にそういった実験をする予定などは無い。

 掲示板に書き込むということは、誰かに知ってもらいたいという意図があるとは思うが、をわざわざ公衆の面前で行う心算つもりなどサラサラなかったし。

 あるいは――――

「まーとりあえず気をつけることだね。先生方はともかくとして、生徒の中にはきみのことを疎ましく思っている連中もいるだろうし。特に同年代はねー」

「ご忠告、ありがとうございます。二戸先生」

 一応、布良芽に礼を言うと、あたしは道家先生に引っ張られるようにして保健室を後にした。

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