第一章 入学(ニュウガク)  9 風岡

 明くる日は土曜日だった。

 ラグビー部の練習は土日といえども関係なく行われることが多い。もっとも、試合が行われることも多いのだが、今日は通常の練習日であった。

 まだ梅雨入りしておらず、この日も晴天で地面も乾いていた。ラグビーは基本的に雨天決行のスポーツゆえ、雨で練習がなくなることはまずない。雨になれば当然、ユニフォームや用具がどろどろに汚れるし、ボール磨きも大変になる。また濡れて手が滑ってボールを前に落としやすくなる。ちなみにこれはノックオンという反則である。風岡だけでなく皆にとって嬉しくない季節だ。かと言って、梅雨が明けたら明けたで、ここ名古屋は非常に蒸し暑い気候が待っている。フィールド上は軽々と三十度を超えたりする。下手すると脱水症状をきたすこともある。それはそれで辛い。やっぱりラグビーは秋冬に限る。

 風岡と鵜飼はバックスである。バックスはボールを持って相手のタックルをかわしたり、パスで回したりしながらトライを狙うポジションだ。一方、永田のようなラガーマンの中でも特に身体が大きく重い人間は、スクラムを組んだり、相手チームと激しく衝突しボールを奪い合ったりするフォワードに向いている。


 今日も午前練習を終え、後片付けやグラウンド整備やライン引きを行う。暑さや湿気で体力を削られないのは今のうちだなと思う。ラグビーの経験者である風岡だからこそ、夏の練習の厳しさを身にしみて分かっているのだ。

 しかし、技術面ではそれなりに高く評価を受けているのだと我ながら思う。これは、決して自己陶酔などではないだろう。監督だけでなく、あまり下級生を褒めない先輩らにも、「いいぞ」と声をかけられることが多かった。

 やはり、自分自身はラガーマンに向いていると思う。どう捉えてもそうだ。ラグビーの戦略的な知識は高校一年生ながら兼ね備えていると思っている。しかし、学生の本分である勉強は頭に入って来ない。一方の千里や影浦は、学生の本分である勉強に向いているのだろう。この違いは一体どこで生まれるのだろうと思わずにはいられなかった。


 影浦といえば、そう言えば今日の午後は足達先生の診察日だったか。実はそのようなことを先日影浦から教えてもらった。

 影浦と足達医師の付き合いは長い。どんな診察を受けているのだろう。おかしな言い方かもしれないが、影浦の友人という太鼓判を頂いた身であり、今後の接し方なども含めて話を聞きたいと思っていた。

 さっそく影浦のいる児童養護施設『しろとり学園』に電話をしてみる。「先日伺った止社高校の風岡です」と名を告げると、影浦は在室しているとのことでスムーズに取り次いでくれた。

 影浦に今日の診察に付き添ってもいいか聞いてみると、一緒に診察室に入れるか分からないけど、それでも良いならどうぞと返事をもらった。

 風岡は下級生部員の仕事を済ませてなるべく早く帰る支度をして、学校を辞去する。土曜日はさすがに、千里は待ってはいない。

 代わりに帽子を被り眼鏡をかけた黒髪の若そうな女性が部室付近をうろうろしていた。見慣れない女性である。ラグビー部の部員の彼女か何かだろうか。鵜飼に上級生の居場所を尋ねているように見える。一体誰なのだろうと思いながら、急ぎ足で一社駅に向かった。

 影浦から通院しているメンタルクリニックを聞き出していた。先日偶然足達医師にばったり会った時には、大城医療総合センターと言っていたが、そこは木曜日に非常勤として勤めているらしい。本務先は『あだちメンタルクリニック』という。場所は熱田区の西隣の中川区らしい。

 風岡は帰宅してすぐさま、自転車に跨がってしろとり学園に向かった。影浦は待っていてくれていたようで、施設の門の外にいた。原則、表出している人格は、穏やかなホスト人格の『瑛』である。

「診察間に合うかな?」風岡は気にして訊いてみた。

「大丈夫。今から出ればちょうどいいから」

「いつもはどうやって行ってるんだ?」

「施設の自転車を借りられる時は自転車で、そうじゃない時は六番町からバスかな。今日は自転車借りられそうだから、それで行こうと思っている」

「そっか、良かった」

「じゃあ、さっそく行こうか」

「よし行こう。ついて行くから案内してくれ」


 あだちメンタルクリニックは、しろとり学園から自転車で十五分くらいのところにあった。六番町から西方向に行くとほどなくして中川区に入る。中川区は東西に長大な区だが、ここはおそらく区の南東端あたりだろう。

 クリニックの佇まいは決して大きくはないが新しく綺麗であり、淡桃色を基調とした看板が目を引いた。正直な話、精神科系統の建物はもっと暗くて禍々まがまがしいものだと思っていた。もちろん都市伝説的な偏見なのかもしれない。ましてあの見た目が非常に若くオシャレな足達医師が開いているクリニックがそんなはずではないのは、考えるまでもないことなのだが。

 風岡は中川区にはあまり行く事がなかったので、こんなところにこのような建物があるとはつゆらずであった。

 中に入ると、清潔感の溢れる内装であった。それはもちろん患者に来てもらう空間であり、そこは一般的な接客業に通ずるものだから、おかしな話ではないのだが、待ち合いというよりもカフェのようなテーブルや椅子、それにソファーのようなものもあり、邪魔にならない程度に観葉植物が置かれている。またウォーターサーバーが設置されており、好きなときに水が飲めるようになっていた。

 メンタルクリニックは、特にはじめての人には足を踏み入れるのに少し抵抗のあるものだと思われる。そんな患者の緊張を少しでも落ち着かせるための配慮なのだろうと風岡は分析する。

 影浦は、風岡という友人が付き添いで来た旨を受付に伝えた。

 待っている間、風岡は影浦に訊いた。

「診察って、実際にどんなことするんだ?」

「どんなことって言っても、先生と話しているだけだよ」

「夕夜も出てくるのか?」

「まぁ、出てくる時もあれば出て来ない時もあるけどね」

「薬も出たりするのか?」

「薬っても、解離性同一性障害を治療するものはないんだよ。頭痛とか幻聴とか眩暈めまいとか不眠とか、そういった症状に対して緩和させる薬は出されることはあるみたいだけど、僕自身は、今は何も処方されてないんだ」

「そっか」

「基本的に治療はカウンセリングだからね。と言っても、僕はもう長いし今はだいぶ安定しているから、ほとんど足達先生と学校の話とか世間話とかをするだけなんだけどね」影浦はそう言いながら相好そうごうを崩す。


 しばらくすると影浦が診察室に案内された。まずは患者である影浦のみで、風岡は引き続き診察室で待機した。

 カウンセリングの様子は当然聞こえてこなかった。やっぱり患者にとっては聞かれなくない内容も多いのだろう。メンタルクリニックとはきっと胸の内に秘めている悩みを、誰にも打ち明けられずにいる患者が集まるところなのだと推測する。

 会話の内容は敢えて気にしないようにした。風岡は人に知られたくないことをいちいち詮索しない性分だ。風岡は、友達が愚痴を言ってきたり、悩みを打ち明けたりする時は取りあえず聞き役に徹することにしている。意見を求められたらなるべく中立的な立場で自分の考えを述べることもあるが、そうでないときは相手にダメ出しをしたり積極的に意見をしたりすることはなく、また根掘り葉掘り聞き出すこともなかった。そのような性格だからか、相談に乗ることも多かった。

 しかし、五分ほど経過したところであろうか。診察室の方向から低くて太い、大きな声が聞こえてきた。

「先生よぉ! 相変わらず若作りしやがって! そろそろ諦めたらどうなんだ!? とし女なんだからよぉ」

「失礼ね! 何言ってんの!」

「俺は大抵の若い女とはヤれるが、先生ではたねぇぜ!」

「このセクハラガキが!」

「先生があと十年若けりゃな、俺だって考えてたぜ!」

「大きなお世話よ!」

 何という会話だ。風岡は居ても立ってもいられなくなり、慌てて診察室の扉を開いた。

「お、おい!」

 そう。扉の向こう側にいたのは、『瑛』ではなく『夕夜』であった。顔つき、声色、そして口調から、それは自明の理だ。

「オラ! 風岡じゃねぇか! どうした、この野郎!」

「あら、勝手に入ってきちゃダメって言ったでしょ?」


 足達医師いわく、『夕夜』はいつもこんな感じだという。

「夕夜くんったら、私の前になるとわいな発言ばっかりするんだから! 卑猥なだけならまだしも、オバさん、オバさんって! 先生では勃たないとかさ!? セクハラよ! こっちだって私だってあんたみたいなガキは対象外だわ! でもこー見えても私だってオシャレすればそれなりに視線を感じるんだから!」

「実際、オバはんにはちげぇねぇだろだろ? 年齢はダブルスコアじゃねえか」

「んなこと別にあんたなんかに指摘されなくたって分かってるわよ! 毎回毎回出てきて同じこと言わなくたって良いでしょ!?」

「先生が無理に若作りして痛々しいから教えてやってるだけじゃねえか。むしろ感謝して欲しいくらいだ」

 夕夜の声が聞こえてきてからの会話の内容は、痴話喧嘩に近かった。カウンセリングというものを風岡はよく知らなかったが、それでもそれとは程遠い会話の内容だということはすぐ分かる。しかし、夕夜にも足達医師にも笑みが見られた。


 その後、足達医師から簡単に影浦の病状の経過や付き合い方について教えられた。概要は、以前ファミリーレストランで教えられた内容と一緒だ。とにかくどちらの人格とも分け隔てなく接して欲しいとのことだ。もう一つ強く言われたのは、影浦の疾患名を安易に他人に口外しないことだ。個人情報保護という観点もあるが、精神疾患というデリケートな問題であるのと、元来内向的な性格の影浦に不足している友人との信頼関係を、崩壊させる可能性があるからだという。ちょっと知っている者からすれば、解離性同一性障害が多重人格のことを指すことくらいは分かる。いけないのは、興味本位で影浦のあの手この手で交代人格を引き出そうとすることだそうだ。中途半端な介入は逆効果をもたらすらしい。だから、影浦自身が望む場合ではない限り、言いふらさないことを指示された。風岡はそれを守ることを固く約束した。ふと、影浦が静かになったと思っていると、いつの間にか『瑛』に戻っていた。


 影浦は診察を終え会計を済ませた。とは言っても、児童養護施設に入所している場合、名古屋市の子ども医療費助成制度から外れる高校生であっても、窓口負担は発生しない。これは児童福祉法による規定で自己負担額は公費によって負担されるのだ。日本は社会的弱者に対する福祉に手厚い国なのだ。

 外へ出ると二人は自転車にまたがらずに、押して歩き始めた。

 影浦は口を開く。

「もしまだ時間あったらでいいんだけど、どこか公園で話でもしない?」

「ああ、ええよ」風岡は、特にこれと言って予定はなかったので、拒否する理由などなかった。

「ちょっと暗い話になるんだけどさ」影浦はひとことお断りを入れた。

 暗い話か。影浦には児童養護施設とか解離性同一性障害とか、通常の人とは明らかに違う境遇の人生を送っている。その経緯が明るい話であるわけがない。きっと、そのことに関するエピソードだろうか、と予想した。

「ひょっとして影浦の生い立ちに関するお話か?」

「うん」

「俺は構わないけど、影浦は良いのか?」

「風岡くんには話しておきたいと思ってさ」

「分かった」

 そう言って、近くの公園に寄り道してベンチを探した。


「解離性同一性障害って何が原因でなるか知ってる?」

「子供の頃の虐待とか災害などの経験でトラウマを持つこと……だっけ」

 風岡は、その病名をはじめて教えられて以来、インターネットで調べていた。素人レベル同然だが、多少の予備知識は持っていた。

「そう。よく知っているね。僕もご多分に漏れず、それがあったんだ。命の危険を感じるくらいの恐怖の日々がね」

「ちょ、ちょっと待て、影浦。良いのか? その体験は影浦の思い出したくない過去だろ? それを思い出すようなことしていいのか? ましてやそれを他人に打ち明けても良いのか?」

 訥々とつとつと今にも語り出しそうな影浦を、風岡は一度制した。なぜなら、過去のトラウマ体験を思い出す行為によって、フラッシュバックされるかもしれないことを危惧きぐしたからだ。それによってパニックになったりして、抑えが利かなくなる可能性も考えられたのだ。

 影浦は答える。

「もう、いいんだ。昔は意図的に隠していた。思い出すのも忌まわしい。ただでさえ、思い出そうとしなくてもフラッシュバックして眠れなくなったりしていた時期もあったくらい。だけど、今はもう落ち着いてきた。過去を受け止め、自分の病気も受け止め、夕夜とも付き合って行くことを決意しているから」

「……そうなのか」風岡はどのように返答したら良いのか分からず言葉を詰まらせた。

「むしろ、自分のこの病気を理解してくれる人が必要なのかと思ったんだ。風岡くんは僕の病気のことを個性だって言ってくれたけど、要は、自分のこの性質を分かってくれて受け入れてくれる人がそれまでいなかったんだ。正直、風岡くんがはじめてだったと思う。だから、できればすべて打ち明けたいと思ったんだ。風岡くんはこんな話、聞きたくもないかもしれないけど」

「聞きたいかどうかは別として、聞いてもらいたい話と影浦が判断したのなら、俺は聞く」

「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ。じゃあ本題に入るね」影浦は一度深呼吸する。「ここからの話は、少しの冗談も誇張もないからビックリしないでね。僕は育ての親に二度殺されかけているんだ。しかも違う二人の人間に」

 あまりにも淡々とした口調に、風岡はすぐには頭に入ってこなかった。しかし、影浦は衝撃的な事実を語っている。『殺される』というフレーズは悪ふざけの誇張で発せられることはあるが、あらかじめ『少しの冗談や誇張はない』と断言している。

「じょ、冗談じゃないんだな。どういうことなんだ?」

「まず、前にも言ったことだと思うんだけど僕の両親は一歳の頃に離婚しているんだ。まずこれの原因は、後々の僕の解釈では、母親の不倫が原因なんだ。不貞行為ってやつかな。でもそのあと、どういうわけか母親が親権を持って僕を引き取ったんだ。でもそんな母親は信じられないことに四歳の頃に僕を捨てたんだ。若い男のもとに転がりこんで、僕を育てることを放棄したんだ。これが一回目」

 一歳のときに離婚したことは、以前、はじめて『夕夜』を目撃したときに聞いた。しかし、離婚した理由が母親の不倫だとは初耳だ。影浦が母親のことを憎んでいるような口調である理由が何となく分かってきた。

「それによって、夕夜が誕生したのか?」

「いや、それは直接的な原因ではないよ。そのあと、育ての親に引き取られたんだ。そのときについた苗字が『影浦』なんだ。そこでおぞましい恐怖の日々の連続が待っていたんだ」

「ど、どんな……?」

「養父が虫の居所次第ですぐに暴言を吐いたり暴力を振るったりする男でさ。最初はまだ良かったんだけど、途中からどういうわけか家に入り浸るようになってさ。今考えると仕事してたのかな。ずっと酒を飲んでいたような気がしてならない。そして、ちょっとでも口を開こうものなら『うるさい』って怒鳴り散らして、裸にされて殴られたり床に叩き付けられたりしていた。僕は身体が弱いから、それが原因ですぐに血が出たり痣ができたり、さらには熱が出たりした。そうすると、また養父は業を煮やすんだ」

「ちょっと待って。母親、いや養母もいたんだろう?」

「養母が僕に暴力を振るうことはなかったけど、養父にはまったく逆らえなかった人だと記憶している。だから、養父の命令で、痣だらけの僕を病院に連れて行くことすらしなかった。いや、できなかったというのかな」

「でも、幼稚園の先生は気付いたりしなかったのかな? そうしたら異変に気付いて、専門の機関に連絡が行ったりするんだろ? えっと、確か児童相談所って言うんだっけ?」

「僕は幼稚園とか保育園には行っていないよ」

「えっ?」一瞬、風岡は耳を疑う。

「幼稚園は義務教育じゃないから。これも養父の命令だったと思う。幼稚園とかに通わせないことは問題にはならないけど、おかげで僕が虐待を受けていることを知られることはなかった。そんな生活が二年くらい続いた」

「に、二年も」

「そう。殴る、蹴る、怒鳴る、無視するくらいはまだやさしい方だったよ。酷いと、裸にして熱湯をかけたり、煙草の火を押し付けてきたり、ドライアイスを身体に押し当てたり、真冬に冷水を張った浴槽に浸からされたり、ちぎれんばかりにペニスを強く引っ張られたり……」

「……」風岡は戦慄のあまり聞くのが辛くなってきた。

「泣けば、それがさらなる養父の神経をさかですることが、分かってきたから、泣いて誰かにしらせることもできなかった」

「そ、それは悲惨だな……たった四歳の子供に」

 児童虐待はニュースでたびたび報道はされているが、実際にそれを受けてきた被害者から話を聞いて、その恐ろしさをまざまざと感じた。そのような現実を知りつつも、今までは心のどこかでテレビの向こう側の世界、言わば対岸の火事のごとく感じていたに過ぎない。しかし、影浦の体験談は、風岡の想像で組み立てられた世界を遥かに凌駕していたのだ。

「極めつけは、酒で荒れた養父が、何を思い立ったか僕を殺そうとしてナイフを持ち出したことだね」

「殺そうとしてナイフ!?」突然出たおどろおどろしい単語に風岡は驚愕した。

「そう、ナイフを突き付けたときに、防衛本能が働いたかのように『夕夜』が誕生したらしいんだ」

「誕生したらしい?」他人事のような発言だと風岡は思った。

「いや、その……覚えてないんだ」

「あ、そっか」あっさり風岡は納得する。

「そのとき僕は六歳だったかな。そうに連絡が行って、僕は養親のもとでの生活は不可能ということになって、しろとり学園に入所することになったんだよ」影浦は暗い表情で語った。

「じゃあ、もう十年近くもいるのか?」

「そう。里親に引き取られていく子もいるけど、僕は解離性同一性障害だから、誰も引き取りやしない」

「そっか……」

 風岡は、悩み相談を受けて話を聞き役にはなるものの、今まで類を見ないエピソードに返すべき言葉が見付けられないでいた。

「僕が結果的に『夕夜』という人格を得たのは、良かったこともあるし悪かったこともあるけど、児童養護施設に入る生活を余儀なくされたことはやっぱり嬉しいことじゃない。他の生徒のように部活も習い事もやれないし、中学校時代も児童養護施設に入所していることが分かると,親が偏見を持って生徒を遠ざけようとしてくる。さらには、『夕夜』という激しい男が宿っているから、誰も近寄ってこない。僕に関する噂はかなり広まっていたと思うけど。そういう意味では、風岡くんははじめて偏見を持たずに接してくれた人かもしれない」

「あ、いや。正直、俺は影浦がそんな遠ざけられる人だって、これっぽっちも思わなかったし」

「ありがとう。でも僕は実際、中学校時代、出席停止処分喰らってるしね」

「夕夜が原因なのか」

「夕夜が原因だけど、夕夜は悪くない」

 そう言うと、影浦は右手で頭を抱え始めた。これは人格が入れ替わる瞬間だと、過去の経験から記憶している。顔を上げると目付きは『夕夜』のものになっていた。

「俺は悪くねえぞ! あの楯突いてきたクソガキゃ、学園のチビたちの弱みに付け込んで虐めていたゲスどもなんだ」

「そうだよな。影浦が正当な理由もなく暴力は振るわないと俺は思う」

「おめぇは分かってくれるのか。ありがてぇ話だ。でも俺がしばいてやったガキどもの一人の親が、PTAの役員長だったらしいんだ。怪我を負わされて親に泣きついて、話をわいきょくして、俺を悪者にしやがった。とんでもないマザコン野郎だ。親も親だ。バカ息子の言いなりになりやがって。喧嘩の記憶のない瑛の野郎には何ひとつ弁明の余地もねぇ。俺が出てきて弁明できりゃ良かったんだが、発言の機会すら与えられず出席停止処分だぜ。バカ野郎!」

「なるほど。こないだゴールデンウィークに打ちのめしたチンピラも?」

「やつらの残党だ。いまでも養護施設のガキどもを腹いせに虐めるバカどもはいる。俺は、ただでさえつれぇ思いをしてきたガキどもを、守ってやらねばならねぇ。恐喝された野郎どもの行方を追っていて、ちょうど河川敷で見つけた俺は奴らを問い質していたんだ」

 そう言えば、あの喧嘩の後、瑛もそのようなことを言っていたことを思い出した。

「なるほど。俺は影浦のことを信じている。なぜなら、あのときあの後、夕夜は俺に攻撃を加えてきたけど、わざと当たらないようにしてたんだろ?」

「ふん、分かってやがったのか」夕夜はやさぐれた表情で鼻を鳴らす。

「お前が正義感のある男だということは、俺は分かっている。今後影浦がそれで不利になるようなことがあれば、俺が弁明する」

「ありがとよ」そう言うと、また顔をしかめていた。

「ありがとう。風岡くん」

 そう言ったのは『瑛』だ。人格交代が起きたようだ。どうやら今の会話の記憶を共有しているらしい。

「心配するな、影浦」

「分かった。僕も信じるよ」


 日はかげり始めていた。「またな」と言って、風岡は別れを告げると影浦が呼び止めた。

「風岡くん!」

「どうした?」

「僕、バイトの収入が入ったから携帯電話を買ったんだ。スマホじゃなくてガラケーだけどね。風岡くんの連絡先を教えて欲しい」

「そっか。こちらこそ教えてくれ!」

 影浦の取り出した携帯電話は質素なデザインだ。きっと本体価格は0円だろう。二人は電話番号とメールアドレスを交換した。

 児童養護施設の高校生は携帯電話を手に入れるのも大変なことだろうと思う。限られたバイト代で購入したのだろう。法定代理人がいない中で契約するのも、苦労が付きまとったに違いない。施設長が同意に応じたのだろうが、以前はそれでは契約できなかったこともニュースでやっていたと記憶している。

 風岡は、影浦の保護者でも身内でもないのだが、影浦のためにできることであれば何でも協力したいという気持ちが強まってきていた。

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