第一章 入学(ニュウガク) 10 風岡
次の月曜日、風岡は登校するや否や、千里のもとに歩み寄った。風岡は影浦と改めて友情の絆を深めた一方で、千里に対する後ろめたい気持ちは多少なりともあった。とは言っても、影浦が望まない限り影浦の秘密を暴露するわけにはいかない。その意向は変わらない。ただ、千里の一方的なフィジカル・インティマシーとはいえ、千里の気を害してしまったことに対しては釈明をしなくてはいけないような気がしていた。何よりも、心のどこかで千里を失いたくないと思っていたのだ。そんなわだかまりを抱えていた。
「チーちゃん、おはよう!」
そう呼びかけるも、千里からの応答はない。もう一度呼びかける。
「あのさ、金曜日はごめんな。別に悪気があって……」
「私のところに来ないでくれる!?」
千里は、激しい剣幕と口調で風岡の言葉を遮る。風岡は思わず怯む。まだ相当怒っているのか、千里の態度は非常に険悪だ。
「参ったな……」風岡は頭を掻いた。
そこに、トイレにでも行っていたのだろうか。ハンカチで手を拭きながら影浦が着席した。風岡の表情から悟ったか声をかけてきた。
「風岡くん、どうかしたの?」
「あ、いや……」咄嗟の問いかけに一瞬言葉を詰まらせる。「影浦ってさ、桃原から何か話しかけられたか」
自分でも何か変な言い様になってしまったことに気付く。
「桃原さん? えっと、
「あ、そうそう」やっぱり風岡の返事はぎこちない。
「特に何も言ってきてないよ。何で?」
「あ、いいんだ。それなら別に」
風岡はその場を
千里が風岡に仲介させて影浦に近付く計画だったのが、風岡が断ったおかげで
ところで、あの豹変した千里の態度が、どうも不気味で仕方がなかった。千里は身体を触らせる代わりに、影浦を交えて三人で勉強するように風岡に交渉させる条件を提示してきたと考えて良い。いわゆる色仕掛けである。ひょっとして最初から風岡ではなくて、影浦と親密になることが千里の目的ではなかったのだろうか。影浦に直接近付こうとしなかったのは、影浦の二面性、二重人格性に何かしらで察知して、風岡に親しくさせて探りを入れさせるためではなかったのだろうか。勘が鋭い千里であれば、影浦の内面に気付くのは訳ないことかもしれない。何となくそんな予感がしたが、考えれば考えるほどその仮説が真実味を帯びてきたような気がした。と、同時に風岡は寂しくもなった。
結局、その日は授業が終わっても風岡は千里と接触することはなかった。完全に愛想を尽かされてしまっているかもしれない。
風岡はもやもやした気持ちを抱えながら、部室の扉をノックした。すると、同級生部員の鵜飼が慌てたように言ってきた。
「風岡! お前一体どうしちまったんだ?」
「は?」風岡には意味が分からない。こちらが鵜飼にどうしちまったかと訊きたい。
「は、じゃねぇよ! お前、嫌がる桃原さんを襲ったんだって?」
「えええ!?」風岡は驚きのあまり調子はずれな声を上げた。「何!? そんなことしてないよ、俺!」
「何言ってんだ!? これを観てみろよ!」
鵜飼は自分のスマートフォンを取り出す。動画投稿サイトから履歴を呼び出す。
「これだよ!」鵜飼はディスプレイを突き付けてきた。
風岡は目を疑った。開いた口が塞がらなかった。
そこに映し出されていたのは確かに地下鉄の駅のホームだ。その奥の方に写っているのは間違いなく風岡と千里だ。もちろん制服も止社高校のものである。特に千里は髪の毛の色で疑いようもない。
どうも要所要所で編集がなされているのだ。風岡のがっしりした身体で千里を隠そうとしながらも、その右手はしっかり夏服の上から千里の乳房を捕えているのが鮮明に映し出されている。風岡は千里に対して背中を向けていたから分からなかったのだが、驚いたことに千里はとても迷惑そうで嫌そうな顔をしていた。しかも実際は、風岡は千里に誘導されて乳房を手に押し当てられたのだが、この映像ではどういうわけか風岡が自発的に乳房を揉み、それを千里が引き離そうとしているように見える。ちなみに日付は先週の金曜日、つまりこの行為が行われた当日にアップロードされているようだ。
「どういうことだ?」
「どういうことだじゃないって! 部員のみんなに噂広がってんぞ」
風岡の疑問はそこではない。誰がこの動画を撮影していたというのか。しかもこの編集は、千里が自発的に仕掛けてきた箇所はカットされ、あくまで千里が被害者っぽくなるように編集されているようだ。悪意を感じる他ない。
「この動画って、どうやって知ったの?」
「ついさっき、先輩から聞いたよ。
西本とは、先輩で高校二年生である。風岡はまだあまり親しくはないが、ポジションは同じバックスの中のウイングを務める。
「西本さん?」
「いや、誰がこの動画を見つけたかも載せたかも知らねぇ。ただ俺は西本さんから聞いたというだけだ」
「そっか」と、軽く風岡は息を吐く。
「本当にお前なんだな?」鵜飼が詰め寄る。
「この動画に映っているのは俺と桃原だ。でも、事実が一部
「何だそれは? お前がやったんじゃないのか?」
「動画では編集でカットされているようだが、すべて桃原の主導でやったことだ」
「そうか。お前の発言を信じたいところだが……」
そのとき、勢い良く部室の扉が内側に開いた。扉付近にいた風岡は、開いた扉に身体を打ち付けられ、思わず
「いたたた……」
見上げたところにいたのは先輩の西本
「風岡!」西本は倒れた風岡に詰め寄り、低い声で怒鳴る。
「何ですか!?」
「この
「説明を聞いて下さい」
「この動画は間違いなく風岡だろうが!? 弁明の余地なんかあるか!?」
西本は聞く耳を持とうとしない。
「だから、話を聞いて下さいって!」
「戸田先生と
そう言い放って西本は去っていった。なぜ西本はあれほどまでに怒っているのだろうか。西本はフェミニストなのだろうか。そんな憶測を抱えながら、渋々グラウンドに向かった。
グラウンドでは顧問の
「風岡、説明してもらおうか」
落ち着いた口調で戸田教諭は風岡に言った。
「俺は無実です」
「動画の存在を知っているか?」今度は大塚が訊いてくる。
「知っています。確かにあれは俺と桃原です」
「じゃあ、無実じゃないだろうが!?」大塚は声を荒げる。
「いや、あれは桃原が誘導したのです。これは本当です。動画はあたかも俺がやったかのように編集されているだけです」
「しかし、桃原の方はそうとは言っていないみたいだぞ」戸田教諭が言った。
「えっ?」風岡は怪訝な顔をした。「どういうことですか?」
「どういうことかって、桃原はお前にやられたと言い張っているようだ」
何ということだ。千里は嘘を言って話をでっち上げている。しかも、都合が良すぎることに証拠の動画まで捏造されている。完全に罠だ、これは。
「そんなことはありません! それは嘘です!」風岡は主張した。「この動画は誰が撮ったんですか?」
「誰が撮ったかは分からん。しかし動かぬ証拠になるだろう。明日にでも校長からお呼びがかかるかもしれんがな」
「そ、そんな」風岡は溜息をつく。
「あと、監督の財布からお金を抜き取ったとか」
「え?」嘘だ。完全にあらぬ噂まで立っている。どういうことだ。
「女子更衣室を
「違う!」
「どういうことなんだ」
「だから、俺はやってない!」風岡は声を荒げて否定することしかできなかった。
「事実関係が確認できるまで、風岡を練習に参加させるわけにはいかない。ラグビーはチームスポーツだ。犯罪行為の疑いのかかった人間を交えては、チーム内の風紀や規律が乱れてしまう。それは監督もそう言っていた。だから今日はもう帰りなさい」
「先生、話を聞いて下さい!」
「話なら明日聞いてやる」
そう言うと、顧問の戸田は去っていった。
何ということか。千里とのやり取りについては一部事実が歪曲されて伝えられているが、お金を盗んだとか、更衣室を覗いたとかはまったくもってでっち上げである。風岡は確信した。悪意が渦巻いていることを。誰かが自分を
待て。ひょっとして千里のことが好きな男ならどうだろうか。千里は誰がどう言おうが才色兼備だ。見た目については好みが別れるから一概に言えないが、それでも多くの人間が美人だと思っているに違いない。しかも、これも風岡個人の主観かもしれないが、夏服に変わってから、思いなしか妖艶にすら見える。人知れず、千里に傾倒している男がいても何ら不思議ではない。
しかし、ここでまた一つ風岡には疑問が浮かんだ。あの地下鉄のホームでは明らかに千里が風岡を
風岡はどんな憶測を立てても、所詮は憶測の域を出ることはなく、もやもやしながら遠くからラグビー部の練習を眺めていた。風紀や規律を乱すなどと言われたのでは、近くで見ることなどできない。なるべく、部員の目につかなさそうなところでひっそりと見ながら、頭の中ではいろいろな可能性を巡らせていた。
一方で戸田教諭は、事実関係が確認されたらと言っていたが、当然千里にも事情聴取が行われるだろう。監督のお金を盗んだと言うのなら、監督にもそれが行われるのか。女子更衣室……どこの部活の更衣室なのだろう。
しかし、そこで悪意が働き、風岡の不利な方に状況が働く可能性だってあるのだ。そうしたら間違いなく停学だろう。下手したら退学だろうか。それは非常に困る。
今のうちに千里に電話して確認しておこうかと思った。しかし、彼女は電話を取るだろうか。電話に出たとしてもちゃんと納得の行く説明をしてくれるのだろうか。それとも、もし千里の本当に知らないところで悪意が働いていたら、彼女は何も答えられないだろう。ただ、今朝の様子からして、千里はひどく憤慨しているようであった。話に取りあってくれるかどうかは、それ以前の問題だった。
少し悩んだ挙句、風岡は千里に電話をかけてみることにした。千里は何をしているのだろうか。この期に及んで、千里のスケジュールをよく知らなかった自分を情けなく思った。それでも、もし少しでも話に乗ってくれるのなら口裏を合わせて皆の誤解を解いておきたかった。千里が話に乗ってくれるかはダメもとだ。千里は条件を出してくるだろうか。影浦と一緒に勉強してくれるようにもう一度頼んでみてくれと。影浦が乗るか反るか分からないが、頼んでみるだけなら、条件を飲んでみてもいいかと思っていた。我ながらふがいない話だと風岡は思った。しかし、得られた結果は無情なものであった。
『この電話は、お客様のご希望によりおつなぎ出来ません』
着信拒否であった。千里は風岡を完全に拒んでいた。風岡は頭を誰かに殴られたかのようなショックを味わった。きっかけとすれば、地下鉄のコンコースで起きた出来事であるが、途中までは千里が風岡に胸を触らせたりしていて、拒絶はしていなかったはずだ。むしろ好意だ。風岡は取り乱しそうになったが、何とかぎりぎりのところで理性を保ち、千里の要求を断った。しかし動画は、千里がスキンシップを図るところを映している。この時はまだ千里は好意を持っていたはずの時間だ。つまり悪意はそのときからすでに動いている。思い出せば、千里は敢えて迷惑そうな表情をしていたのか。すなわち、動画撮影は千里が風岡を陥れるために、誰かにやらせたのだ。スキンシップを図ったのではなく謀ったのだ。そう仮定すると説明がつくような気がした。
ただ、一体誰にやらせたのだろうか。千里が誰かと共謀して自分を
そんなことを考えているうちに、ラグビー部の練習はいつの間にか終わっていた。いつもその中で泥と汗にまみれながら走り回っていた自分がいると思うと、それを傍から見ていたというのは何とも奇妙な感じがした。
そして、風岡の頭の中を駆け巡っていた疑問が思わぬところで解決を迎えようとしていた。鞄を肩に引っ掛けて帰ろうとした矢先の出来事であった。
「おい、風岡! お前こんなところで何しとるんだ!?」
「何ですか?」
「お前がやったんだろう? あの動画が証拠だ」
「何ですか? 言いがかりですか」いろいろな不穏な憶測で疑心暗鬼になり少々苛立っていた風岡は、自然と
「先輩に対してその態度は何だ!? ああっ!?」西本は逆上した。風岡は応じない構えを見せた。「お前、何か
風岡にとってみれば逆上される筋合いはない。今までそんなに話したこともない先輩の恨みを買うほど、調子に乗ってはいない。ただ、強いて言えば、風岡のラグビーのスキルは西本のポジションを脅かしているかもしれなかった。
「西本さんに俺、何かしましたか?」
「俺じゃない。桃原に手を出したのが許せねえんだよ」
「何で……」
「俺はな、桃原に好かれてんだ」
「えっ?」
「桃原がな、お前に襲われるって、俺に助けを求めてきたんだ。それで動画の存在を知ったんだ」
「桃原は動画の存在を知ってたんですか? それとも西本さんが見つけたんですか?」
「んなもん、どうだっていいだろ!?」
「誰が撮ったんですか?」
「知らねえよ。高校生の公然猥褻を許さない奴が撮ったんじゃねえのか?」
そう話す西本の目は、どこか
「嘘ですよね。西本さん。本当は桃原とグルだったんでしょう?」
「嘘とは何だ!? 先輩の言うことを信じないのか!?」再び西本は風岡にすごむ。
「信じられません」
「ふざけんな! 一年のくせして! お前は、桃原を襲っただけでなく、財布から金を盗んだのと、女子更衣室を覗いた疑いがかかってんだ。そんな野郎に弁解の余地などない!」
「だから俺はやってねぇって!」風岡はもう、先輩の西本に敬語を使うほどの敬意など持ち合わせていなかった。
「ふざけんな! どうせお前のダチの影浦って言うんだっけか? 鵜飼から聞いたから名前だけは知ってるぜ。何でもそいつは中学時代に問題を起こしたろくでもねぇ奴だってな? どうせそいつと一緒にやったんだろう。類は友を呼ぶってな?」
風岡はそのとき激情に駆られた。風岡がもっとも聞きたくない言葉を聞いてしまったのだ。気付いたときには西本の身体は遥か後方に倒れていた。風岡の右手には拳が固く握られていた。
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