第一章 入学(ニュウガク)  8 風岡

 ラグビー部は入部式を終え、いよいよ本格的に厳しいトレーニングが始まった。新入部員は風岡を含め十五名で、うち二名は女子マネージャーであった。それまでのお客さん扱いではなく厳格な縦社会に組み込まれ、ボール磨き、部室の掃除、用具の管理などを徹底的に叩き込まれた。

 風岡は経験者なので、別に驚くこともなかったが、初心者の部員は早くも弱音を吐いていた。それまでは練習が終わればすぐ帰れたのが、必然的に三十分は遅くなる。

 そうこうしているうちに五月も末になりすぐに一学期の中間考査が始まるのだ。新入部員はハードな練習の洗礼を受け、身体が疲弊しきったところにテストが行われる。もちろんラグビー部に限ったことではないのだが、帰宅してテスト勉強どころではない一年生も数多くいた。テスト期間中には練習はなかったが、マネージャーを除くラグビー部の一年生たちはこぞって散々な成績を披露していた。

 風岡はラグビーの練習で身体がボロボロになることはなかったが、もともと勉強は得意ではなく、特に理数系科目は酷かった。高校に入ってから不可解な公式や定理が多数登場して、部活よりも学生の本分の方でを上げそうだった。

 一方、成績優秀な生徒の上位百名は、掲示板に順位と名前と各科目の点数まで貼り出されていた。一学年は三百名強なので上位三割程度なのだが、風岡はその中にはもちろん入っていなかった。そして、驚くべきことに、身近に素晴らしい成績の持ち主がいた。しかも二人も。

 まず、総合四位に影浦瑛の名前があった。影浦は授業中も寝たりせずにしっかり板書をノートに書き写していたのだが、すごいのは何日か学校を休んでいることだ。後で本人から聞いた話では、結構頻繁に風邪をこじらせたりするらしいのだ。しかも、児童養護施設という環境でアルバイトと両立させながら、この成績をマークするのは並大抵の努力ではないだろう。鵜飼が言っていた、影浦が成績優秀だという噂はどうやら本当だったのだ。そして、それを上回ったのは総合一位の桃原千里だ。千里も普通に会話しているときにはあまり頭の良さを感じさせない喋り方をする。良くも悪くも、いかにも今どきの女子高生のように見える。しかし中身は秀才そのものだったのだ。能ある鷹は爪を隠すとはこのことを言うのだろう。

 桃原のテストの平均点は92.8点という驚異的な数字であった。もちろん満点をとった科目もあった。影浦は88.6点であったが、おおむね文系科目は桃原の点数を上回っていた。一方、風岡の平均点や順位は、恥ずかしくてやすやすと言えるものではなかった。当然ながら順位は下から数えた方が早いし、風岡の点数はどの科目も影浦や桃原の点数には及ばなかった。千里に以前、「今度勉強教えてね」や「私は、社会科はダメなんだから」などと言われたが、この点数の格差をもって一体何を教えるのか。まさしく釈迦に説法ではないか。まったく逆の立場だろう、と心の中で千里に言った。

 この成績のおかげで当然ながら桃原千里という名前が学年内に知れ渡る。優秀なだけでなく赤毛の美女というみょうがつくほど名をせて、他のクラスでも度々話題に上った。それに付随して、ラグビー部の風岡という名前の彼氏がいるらしいという(正しくない)情報まで回るものだから、困ったものである。成績の格差カップルなどと揶揄やゆされるのはおそらく時間の問題で、おのれのバカさ加減を恥じるばかりであった。本気で、千里や影浦に勉強を教わろうと思った。

 風岡はすぐ後ろにいる影浦の好成績をたたえた。

「影浦、すげぇ優秀なんだな! 授業中に当てられても結構すらすらと答えてたし、頭良いんだなって思ってたけど」

「いやー、たまたまだよ。偶然勉強したところが多くテストに出ただけだって」

「ご謙遜を。今度勉強教えてな。俺、呼び出し受けそうなくらい悪い点数だからさ、ヤバいんだよね……」

「僕なんかで良ければ全然良いけど、お役に立てるかなぁ……あ、桃原さんもいるじゃん。桃原さん一位だし」どうやら影浦も風岡と千里の関係性を把握した上での発言だろう。

「もちろん桃原にも頼もうかなって思ってるけどな」と頭を掻きながら苦笑いした。


 休み時間の『放課』になると、千里が風岡の机の方に向かって来た。

 風岡は、成績一位の生徒が成績下位の自分のもとに来るなんて自慢目的か、と卑しい気持ちに少なからずなったが、千里は驚いたことに後ろに座っている影浦に話しかけた。

「影浦くん、すごいね! 四位おめでとう!」

「いやいや、それなら桃原さんこそ一位じゃないですか」

 なぜか影浦は敬語で応対していた。

「でも影浦くん、学校休んだ日もあったのにすごいよ、休まなかったら私負けてたよ」

「そんなことないですよ」

「私は国語と社会科系の科目が足引っ張っちゃったから、影浦くんに教えてもらいたいよ」

 以前、千里は風岡に社会科を教えて欲しいなんてことを言っていた記憶があるが、百位圏内にかすりもしない自分に愛想を尽かせたか。否が応でも寂しい気持ちになる。

「いや、教えることなんて何もないです」影浦の発言は前の席にいる風岡に気を遣っているからなのか、どことなく素っ気ない応対だ。

 ここ一年G組には学年総合一位と四位の生徒がいるのだ。その一位と四位の会話に、自分の介入する余地なんてないと風岡は卑屈になったが、それを見透かしたか、千里は風岡に声かけてくる。

「ヒーくん?」

 一瞬、聞こえない振りをしようとしたが、相手が千里ではそんなごまかしは通用しないような気がして、仕方なく応答した。

「何だ? 俺は、三百位以下だから何も教えることなんてないぞ。むしろ助けてくれよ」

 気の抜けた表情で自虐的に風岡は言った。順位は尋ねられる前に先に明かしておいたほうが、気が楽だった。

「じゃあ今度さ、三人で勉強しない?」千里は提案する。

「ええ、でも僕、実はバイトもしてるし、なかなか時間ないですよ」影浦は消極的だ。

「ええっ!? ダメ……?」と、千里は残念そうな表情を見せる。

 千里のこの提案にはどのような意図があるだろうか。

 好意的に解釈すれば、いたたまれない成績の風岡を救うために、友人二人で救済しようということである。これは心強い。何と言っても成績トップと四位のコンビである。理数系科目や英語が満点近い千里と、文系科目に強い影浦のコンビに死角はない。

 では好意的でない解釈をするとどうか。

 それは千里が興味の対象を影浦に移すということだ。周りはどう思っていようが、風岡と千里は告白して交際しているわけではないのだから、影浦に乗り換えることを責める筋合いなど風岡にはまったくないのだが、いざその可能性を考えてしまうと非常に切ない。性格の不一致ならぬ成績の不一致によってフられるわけだ。影浦が消極的な返事をしたのは、おそらく風岡に気を遣ったからであろう。影浦も、風岡と千里が仲睦なかむつまじいことを知っている。しかし、その解釈では風岡を勉強に誘う理由が分からない。成績の優秀な者同士、ハイレベルな勉強でともに研鑽けんさんし合ってくれた方が余程レベルアップへの近道であろう。まさか、風岡は社交辞令で誘われているのか。それは誘われないよりもみじめだ。学力の差とともに疎遠になることを感じることになるからだ。

「いや、僕もこう見えて本当に忙しいし、風岡くんにも何だか申し訳ないし、できないよ。ごめんなさい」

 影浦は友人の男女関係を破壊したくないのか、丁重に断って、そのまま廊下に出て行ってしまった。影浦の義理人情の厚さに感心させられる一方で、余程千里と勉強したくないのかと言わんばかりの断りようにいささか疑問を感じた。影浦は確かに忙しいかもしれないが、風岡がカラオケに誘ったときには時間を工面してくれた。

「忙しいのかぁ。残念だなぁ」そう、肩を落としたのは千里だ。

 実際のところ、風岡も少し残念だった。勉強は学生の本分だから大切だ。優秀な友人に教えてもらえるのなら非常にありがたい話だ。そして、風岡にとって千里は若干だが油断ならない相手になりつつあった。そこに影浦という穏やかな好青年がクッション役になってくれる、つまり癒しになってくれそうな気がしている。もちろん、『夕夜』に人格が交代してしまったら、どうやったって自分ひとりでは収拾がつかない気もするが。


 成績発表の日、ラグビー部では予想した通り、同級生のH組の鵜飼、F組の永田だけでなく、G組から遠く離れたA組の近藤こんどうやB組でマネージャーのいまいずみにまで茶化された。その噂を聞きつけたか、先輩までもからかってくる。もう風岡はお手上げであった。

 その内容とは、「あんな可愛い女の子に勉強を助けてもらえるんだろう? 幸せだな!」というごもっともなものから、「頭脳面は彼女にリードしてもらって、肉体面は風岡がリードしろ」という訳の分からないものまであった。

 部室でしどろもどろになっていると、プロップ体型の永田がまた窓から外を指差して、低く野太い声で風岡に言う。

「おい、お前の可愛い彼女がお待ちかねだぞ。早く行ってやれよ」

「だから、まだ付き合ってないんだって!」こうやってムキになって否定するのは何回目だと思いながら、風岡は先に部室を出た。


 千里は今日もどこか艶かしい雰囲気をかもしていた。ひとつは六月に入り夏服になったからそう見えるだけかもしれない。しかし、たかだか高校の夏服だ。至って普通の公立高校の制服である。そう見えるのは、実は彼女自身の変化ではなくて自分の意識の変化に依るものなのかもしれないとも一瞬感じた。しかし、よくよく思い出すと『放課』でも千里と会話しているではないか。その時はそんな感じはしなかった。よって気のせいだとは思えなかった。

 そんなことが風岡の脳内を巡りながら、それとはまったく関係のない話題を切り出す。

「ところで、あのさ、今日は何で、三人で勉強しようだなんて言ったんだ?」

「決まってるじゃない? ヒーくんは影浦くんと仲良しだし、ヒーくんと私も仲良しでしょ? だったら三人で勉強すれば良いじゃない?」

 その説明には説得力がなかった。千里と風岡は周囲から見たら付き合っているような状態である。影浦もそれは知っている。さらには、もちろん皆には内緒にしているが、キスをした仲でもある。そんな関係の男女に加えて、もう一人男子を呼ぶ理由が、「ヒーくんは影浦くんと仲良し」というだけでは納得はできない。現実、影浦は「風岡くんに申し訳ない」と言っていたではないか。影浦に別に彼女がいて、その彼女が千里と仲が良いから四人で、なら分かる。でも通常は付き合う寸前のような関係の男女で、それを皆が周知なら、二人でやるのが普通ではなかろうか。それとも風岡の考えが固すぎるのだろうか。

「でも、影浦は俺に申し訳ないって断ってたじゃないか。嫉妬とかそういうのじゃなくて、何となくチーちゃんは影浦に固執しているような気がする」

 現実、嫉妬もないわけじゃないが、あらかじめそうじゃないことを宣言しておかないと、また議論をはぐらかされる気がした。

「別にたいした理由じゃないよ。影浦くんは頭脳明晰だから。一緒に勉強するなら、私だって何か得るものは欲しい。それだけよ。気悪くした?」

「なるほど」

 これもまた気を悪くしなかったと言えば嘘になる。しかし、これこそ説得力がある理由であり、それを意外にも包み隠さず話してくれた、ある種の爽快感さえ感じられた。

「私ね、頭良くなりたいんだ」

「もうすでに充分良いじゃないか」俺の立場はどうなるのだ、と風岡は心の中で呟いた。

「いや、もっともっとよ」

「もっと、って一位より上には行けないだろう? ライバルはみんなチーちゃんより下なんだから。それとも国公立の医学部でも狙ってるの?」

「大学はどこでも良い。でも、世の中には私なんかよりもっと頭の良い人がいるの。その人たちに勝ちたい」

 何と、千里のライバルは止社高校以外の生徒らしい。止社はそこまで偏差値の高い学校ではない。きっともっと難関高校には優秀な生徒がいることだろう。これだけ聞くと、受験戦争を見据えているようにも思われる発言だが、千里は「大学はどこでも良い」と言う。

「でも大学はどこでも良いって」

「大学はどこでも良い。自分の学力を最大限に発揮して入学できるところなら。でも頭を鍛えることは、受験とか関係なく大事なことだよ」

 確かに、頭を鍛えることは大事なことだが、大学に進学する高校生なら、受験は大きな比重が置かれるべきことだと思う。やはり千里という女子にはよく分からないところがある。

 千里は続ける。

「私ね、目標ができたんだ」

「目標? 志望校がないのに?」

「そう。すっごく頭のいい人」

「誰なの?」

「誰って、ヒーくんの知らない人よ」

「知らない人って、有名人じゃないの?」

「だって、他校の生徒だもん。しかもうちらと一緒の高校一年生」

 一体誰なのだろうか。目標に掲げるくらい憧れの、頭の良い人物と言えば、アインシュタインやガリレオ・ガリレイやレオナルド・ダ・ヴィンチなど挙げられると思う。女性ならばキュリー夫人あたりか。風岡はそれくらいしか知らないが、とにかく歴史上の偉人、もしくは存命の科学者の名を挙げるかと思った。しかし、千里の目標は他校の生徒であるという。しかも同学年。先輩ならまだ分かるが、同学年で憧れになるくらいの他校の生徒で、有名人でもない人物など皆目見当がつかなかった。

「チーちゃんってどことなく不思議だよ。具体的に行きたい志望校があるか、なりたい職業があるかと思ったけど、頭が良くなること自体が目標だなんて」

「そっかなぁ。でもお母さんと約束したんだ」

「お母さんが?」

「そう。何でも良いから一等賞になれるくらい努力しなさいって言われてるんだ。私にそれができそうなのは、成績くらいだから」

「そうなんだ」と、同調しつつも、止社高校の学年総合一位では満足できないほどとは、なかなか手厳しい親御さんだと思った。もし風岡のこの成績を見せたら発狂するのではなかろうかと、ちょっと恐くなる。気付くと地下鉄一社駅に到着し、階段を下りようとしていた。

 風岡は続けた。

「でも、チーちゃんが目標を持って努力することは大賛成だから、素直に応援するよ。残念ながら俺成績悪いから応援くらいしかできんけど」

「もし本当に応援してくれるのなら、影浦くんに一緒に勉強してもらえないか、もう一度掛け合ってくれない?」

「えっ?」結局そこに戻ってきたか、と風岡は心の中で呟いた。「頭が良い人と勉強したいのなら、他のクラスだけど二位の橋本はしもとさんとか、三位のひろさんとかいるじゃない? 二人とも女子だし」

 一学期中間テストの総合上位三名はすべて女子だ。つまり男子の総合一位は影浦ということになる。

「いやいや、その二人とも一度も話したことないもん」

「そうかもしれんけど、影浦は本当に忙しいみたいだからなぁ……」風岡は、一緒に勉強するなら影浦を交えて三人でするということには賛成だが、当の影浦が消極的である以上無理強いはしたくないと思っていた。

「でも、影浦くん、あの人は実際私なんかより優秀じゃないかと思う」

「そうなのか」

「うん。私の勘で申し訳ないけど、彼には表に見せない顔があって、とても頭脳明晰な一面があると思うんだ」

 突然の影浦の核心に迫る発言で、風岡は思わずたじろいだ。しかしながら、表に見せない顔というのが『夕夜』を指しているのならば、頭脳明晰というフレーズは彼のイメージにそぐわない。

「何でそう思う?」と、風岡は質問してみるも、私の勘だなのだから愚問だということに気付いた。千里は質問に答えずに、急に風岡の腕を掴んで、地下鉄一社駅のプラットホームのいちばん端まで引っ張って走っていき、千里の身体を密着させてきた。

「な、何?」と動揺する風岡をよそに、千里は風岡の頭の後ろにしなやかな両手を回して、顔を引き寄せた。そしてうるわしい唇を触れ合わせる。今度は柔らかな舌が風岡の口腔に侵入してくる。

 プラットホームに対向列車が進入してくる際の風圧で千里の髪が靡く。その甘い匂いを感じる。

 しかし、電車からこちらが見えるのではという懸念が頭をよぎり、風岡は口づけを止めていったん身体を少し離し、表を向いた。ホーム隅の壁に背を向けた形だ。すぐ後ろには千里がいる状態だ。

 しかし千里は止めようとはしなかった。千里は風岡の耳元に後ろから甘くささやいた。

「ね、お願い、ヒーくん。影浦くんを説得して……」

 そう言って、風岡の耳を舐めてくる。さらには、風岡の右手に自らの胸の膨らみを押し当ててきた。しかも、一見華奢でスレンダーな体型とは裏腹に、豊満な乳房の質感と体温と湿度が一緒になって下着と制服越しから伝わってくる。

 風岡にはそんな免疫などまったくない。惑乱しそうになった。ここが、他に誰もいない閉鎖空間なら風岡は、そのままきょを失い、千里の制服を脱がせて丸裸にしていたかもしれなかった。しかしここは公共の場だ。風岡は慌てて理性を取り戻す。

「だ、だめだ。止めてくれ」

「影浦くんは?」

「それもだめだよ。お願いするならチーちゃんからしてくれないか」

 風岡は優しく告げたが、千里は急に大きな声で「もういい!」と言い放ち、怒ったように去っていった。

 風岡は瞬時に自分の発言を後悔しかけた。しかし、それでもどこかで影浦の意志を尊重したいという気持ちもあった。千里が自分から影浦に近付くのは勝手だが、風岡が影浦の秘密に土足で踏み込ませる手助けをしてはならない。ましてや『夕夜』の顔を暴露したりすることなどできやしなかった。影浦には、風岡にそうさせる何かを持っているような気がした。

 まだ頭の中は興奮と空虚と理性が入り交ざって錯乱しつつある。千里には今度また、ごめんと謝ろうと思った。

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