第一章 入学(ニュウガク)  7 風岡

 次の週の月曜日。風岡は晴れやかな気持ちで学校に登校した。

 昨日は久しぶりに中学時代の友人からも電話がかかってきた。学校が離れてしまい、寂しかったのかもしれない。もちろん名前は伏せて、精神疾患の診断を受けている友人ができたがとてもいい奴だということや、心療科の先生のアドバイスを受けながら仲良く付き合っていこうと思っていることなど、近況を吐露したりした。 

 くだんの影浦も風岡よりも少し遅れて登校してきた。左脚の腫れも改善傾向にあるらしいというが念のために訊いてみる。

「もう、歩いても大丈夫なのか?」

「だから、歩けるし痛みもないし、骨折ではないと思うって先生も言ってたから大丈夫だって。風岡くんって心配性だね」影浦は爽やかに笑いながら言う。

「心配性で悪かったなぁ」風岡は頭を掻く。

 周りのクラスメイトは影浦の笑顔をはじめて見た驚きなのか、目を丸くしていた者もいた。


 一時限目を終えると、千里がどこかいぶかしげな、そしてどこか不機嫌そうな表情で、つかつかと歩み寄ってきた。何だろうと思うやいなや、千里は風岡を廊下に連れ出そうとした。

「ちょっと外いい!?」

「なになに?」なぜ、千里が機嫌を損ねているのか風岡には分からない。

「影浦くんと仲良くなったの?」

「ああ。昨日心配で見に行ったんだよ。体調を崩していたみたいだけど、俺が見に行ったときにはもう回復していて、今ではあのとおりだよ」そう言って風岡は影浦の方に顔を向ける。

「それだけ?」

「それだけって? それだけだよ」

「嘘!」千里は廊下の壁に風岡を追いつめて詰問する。

 本当は、足達医師と偶然会って、解離性同一性障害である影浦について理解を深めるためのレクチャーを受けたのだが、デリケートな問題ゆえ守秘義務があるのだ。

「だから嘘じゃないって!」

 自然と、口調が強くなり周囲の目が向けられる。

「今日、ラグビー部の後、待ってるから」と言って、千里は席に戻っていく。

 いつもそんなこと言わなくとも、勝手に部活が終わるのを待っているじゃないか、とも思ったりするが、口には出さなかった。

 しかし、千里はなぜ影浦のことをそこまで気にしているのだろうか。気になるなら、この前みたいに自分から話に行けばいい。

 男の自分が仲良くなって、千里にあれこれ言われる筋合いはないと思う。千里は影浦についての何かを知りたいが、近付けない理由でもあるのだろうか。


 授業後、部活がいつもどおり終わると、鵜飼が話しかけてきた。

「風岡、この後、ラーメンでも食いに行かないか? 栄に美味いところがあるんだ」

 風岡はラーメンが好きだ。非常に魅惑的なお誘いではあったが、千里が待っていることを思い出した。

「ごめん、今日はダメなんだ」残念そうな顔をして風岡は断る。

「マジか? 今日は俺、家で一人だから食いにいけると思ったんだがな」

「鵜飼、風岡にはコレが待ってるからな」横から同じく同級生でラグビー部に入部したF組のプロップ体型のながが小指を立てるジェスチャーをしながら口を挟む。

「あー、あの赤毛の

「桃原だっけ、かなり可愛いから俺のクラスでも評判だった」

「俺の組でも話題になってたぞ。羨ましいな! 風岡は」

「仲は良いかもしれんが彼女ではないから!」

「そっか!? 今日も廊下で痴話ちわげんしとったじゃないか?」

「だーかーら!」

「そんなムキになって否定するな。いいじゃないか! お似合いだと思うぞ。彼女待ってるみたいだから早く行ってやれよ」

 永田は二階の部室の窓を開けて指で示した。確かに窓から千里の姿が見えた。

 早くも知られてしまっているのか。予想以上の噂が広まるスピードに参ったなと風岡は思った。風岡は他人が誰と交際しているのか等の情報に無関心なだけに余計にそう思ったのだ。確かに間違いなく千里は美人だ。魅力的な女子である。加えて特徴的な赤毛だ。話題にならないのは無理な話かもしれない。しかしまだ異性との交際経験のない風岡は、彼女という存在ができることに戸惑いを感じていた。彼女が欲しくないと言えば嘘だが、焦って作りたい気持ちもないし、むしろ慎重に判断したかった。千里と交際することは決してやぶさかではないのだが、彼女自身何を考えているか少しよく分からないところがある反面、他人の心の中を見抜いているような畏怖いふがあった。まさしく名は体を表すであり、千里にはせんがんを有しているような気がしていた。


 千里は芳色おういろの美しいポニーテールを風になびかせながら、部室棟の外で待っていた。鵜飼や永田らが可愛いとか言ったためだろうか。思いなしか、今日の千里は色気があった。気のせいかもしれないが、髪色はいつもより美しく輝いており、どことなく妖艶な雰囲気を漂わせていて、風岡は思わず息を呑む。

「遅かったわね」

 練習自体はいつも通りの時間に終わったのだが、そのあと部室で鵜飼らと駄弁だべっていたおかげで少し遅くなった。そんな後ろめたい気持ちを、鋭く真っ先にいてくる。

「ごめんな。さぁ帰ろう」

 申し開きなどしても千里に対しては逆効果な気がして、さっさと駅方面に歩くように促した。千里はちょっとせない表情をしていた。

 ほどなくして地下鉄の一社駅のホームに着く。止社高校から最寄りの駅だ。タイミング良く電車がやって来て、二人乗り込んだ。車内は帰宅ラッシュで混雑しており、扉付近の手すりにつかまって立った。

「ヒーくん、影浦くんと仲良くなったんだね」

「ああ。彼はいい奴だよ」

 そう言うと、千里は風岡の空いている右手の指と指の間に自分の左手の指を入れてきた。俗に言う『恋人繋ぎ』と呼ばれる手の繋ぎ方をされて、風岡は鼓動が高鳴る。千里の指は細く滑らかで、掌は驚くほど柔らかかった

「そっか。でもヒーくんって優しいよね。影浦くんそれまでどこか寂しげだったからもっと仲良くしてあげて。でも私のことも大事にしてね」

「ああ」

 よく分からない発言だ。千里は、風岡が影浦と仲良くなることを応援しているのか嫉妬しているのか。

「ねぇ、影浦くんってどんな人?」

「だからいい奴だよ」風岡は心の中で、またかと思った。

「もっと具体的に教えてよ。彼にはきっと他人ひとに言えない悩み事があると思うんだ。裏の顔というのか」

 千里はどこまでも的確であった。以前にも千里は「普段は見せることのない顔がありそうな、そんな気がする」と言っていた。しかも自分でも勘がよく当たると自負しているようだ。実際に『夕夜』という、『瑛』とは似ても似つかない、知られざるまさしく裏の顔を確認した後だけに、千里の『千里眼』におののいた。

「具体的と言ってもな。まだそこまで俺もよくは知らないし、もし気になるなら自分から話しかけてみれば良いじゃない? ひょっとしたらあまり人に喋って欲しくない内容もあるかもしれないだろ?」

 風岡はシラを切ると同時に正論を言う。

 千里は膨れっ面をするが、風岡は不本意ながらそれが愛らしく見えてしまった。しかし、なぜそこまで影浦のことを知りたがるのだろうか。

「分かったよ。でももし影浦くんが良いと言ったら教えてね」

 そう言って、千里は繋いだ手を離し風岡の正面に来て見上げたかと思うと、そっとつま先立ちして軽く口づけた。

「またねー!」千里は屈託のない笑顔で手を振って、電車を降りていった。

 気付けば覚王山駅に着いていた。風岡は突然、しかも公共の場で、さらには車内というすぐ近くに周囲の目があって逃げられない状況の中でのキスという出来事に、途方に暮れてしまった。しかしすぐに周囲の目を気にして、次の池下いけした駅で用もないのに降りた。そしてホームを移動して違う車輛の扉から再び乗り込んだ。

 風岡のファーストキスだった。

 千里の唇は適度に潤っており、余分な角質が一切なく、艶かしいほどに柔らかかった。

 あのキスは一体どういう意図だったのだろうか。もちろん千里から自発的に手を繋いできているし、好意を抱かれているのは間違いない。

 しかし、やたらと影浦のことを詮索するのかが分からなかった。影浦のことが好きなら、風岡への突然のキスはどう説明がつくのだろうか。風岡は表向きでは冷静を装いつつも頭の中は混乱していた。その証拠に地下鉄名城線に乗り換えるための栄駅に着いても、降り忘れそうになったほどだった。

 家に帰ってから食事をしていても風呂に入っても、キスが頭から離れなかった。布団に入って千里の唇の感触をさいに脳内で再現しようとして、ほとんど寝付けなかったことは言うまでもないことだった。

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