第一章 入学(ニュウガク)  5 風岡

 ゴールデンウィークを終えた翌日。

 風岡がいつも通り登校すると、ひとつ後ろの席に座る者がいなかった。

 影浦がいないのだ。いつもは時間を守っており、風岡よりは大抵先に来ている。珍しく遅いなと感じていると、予鈴が鳴っても影浦の姿が見られない。とうとう本鈴が鳴り、担任の一年G組の担任のかね教諭が朝礼を始めてしまった。出席を取り始めても影浦は現れない。このクラスはどういうわけかやたらと『ア』行の姓が多く、四十人のクラスで影浦は出席番号十七番だ。

「……大森おおもり、……ざわ、……柿原かきはら、……影浦……はいないんだな」

 あたかも、金子教諭は影浦が休みなのを知っているかのようだった。

「風岡……風岡も欠席か?」

「あ、はい!」

 影浦のことを考えるあまり、自分が返事するのを忘れて慌てた。千里がこちらを見ながら面白そうに笑いをこらえていた。

 影浦はなぜ休んだのだろう。

 昨日、クラスメイトで影浦に会ったのはおそらく風岡だけであろう。影浦の交代人格『夕夜』の出現と関係があるのだろうか。そうなると頭によぎらずにはいられない『出席停止処分』の文字。いや、『停学』あるいは『謹慎』と言うのだろうか。

 しかし、昨日の夜、喧嘩をして、こうもすぐに『謹慎』に至るだろうか。いくらなんでも早過ぎやしないか、と思う。

 一時限目が終わり、休み時間である『放課』がやってくる。千里はにこやかに近寄って来て、風岡に話しかけた。

「昨日、影浦くんとどうだった? カラオケ」千里が事も無げに言う。

 そう言えば、ゴールデンウィークに影浦とカラオケに行くということを、千里にだけは話していたことを思い出した。そして問い返した。

「あ、影浦今日欠席だけど、何か聞いてる?」

「聞いてないよ。私が影浦くんと会ってないし、連絡先も分かんないもん。ヒーくんが昨日会ったんだから、聞いてるんじゃないの?」

 そうか、知らないのか、と思いながらもごもっともな意見だと思った。それはそうとして、クラスで『ヒーくん』と呼ぶのは勘弁して欲しいところだが、何となく言えなかった。

「それが聞いてないんだよ。先生は知ってるっぽかったな」

「休みそうな、きっかけはあったの?」

「い、いや。ないない」

 風岡はそう答えるも、影浦が他校のチンピラと喧嘩していたことを口には出さなかった。口に出すということは『夕夜』の存在をばらすことになる。絶対口外しない約束だ。風岡は約束をしっかり守りたいと思っていたし、あの気性が荒い夕夜に激昂されたらどうなることか分かったものではない。

 しかし千里は腰を下ろして、顔を近付けつつ上目遣いで不敵な笑みを浮かべて言った。

「ヒーくん、何か知ってるんじゃない?」

 千里の笑みが意外に妖艶で風岡は狼狽する。

「し、知らんよ!」なぜに千里は風岡が何か知っていると勘繰るのだろうか。隠していることが表情からバレてしまったのか。すべてお見通しよ、と言わんばかりの千里のまっすぐな瞳を直視できなかった。

「ホントにー? ま、いっか。また何か分かったら教えてね」千里はそう言って自分の席に戻っていった。

 風岡は、桃原千里という女子生徒に、ちょっとした畏怖を感じた。あの目は、完全に風岡の心を読んでいるようであった。隠し事があることを完全に見抜いているのだ。そして影浦のことを気にしているようだ。ひょっとして影浦の特異なパーソナリティーをも見抜いていて、わざとそんなことを言ってきたのだろうか。風岡はあれこれ推度すいたくせざるを得なかった。


 三時限目は地理Bの授業だ。金子教諭は地理の教師であり、朝礼に続いて教壇に立った。幸い、風岡は社会科の科目は得意だった。子供の頃は、歴史漫画や世界の地図帳を意味もなく読む少年であった。

 一方、数学や物理、化学などの理数系科目はとことん苦手であった。アルファベットやギリシャ文字が乱立するかいじゅうな数式を見ると瞬く間に睡魔に襲われる。

 理数系科目の授業で先生に当てられても風岡は良いところを見せることはほとんどできなかったが、地理をはじめとして社会科や国語では当てられても戸惑うことはあまりなかった。高校生活がスタートして一ヶ月余りで、関係性を築くにはまだまだ短いのだが、少なくとも金子教諭から悪くは思われていないだろうと思っていた。

 三時限目の授業が終わると、風岡は金子教諭のもとに行って問うた。

「あのー、先生」

「風岡か。どうした? 質問か。感心だな」

「あ、いえ。授業のことではないんです。すみません」そう前置きしてから続けた。「影浦って今日どうして休んでるかご存知ですか?」

「おー。影浦と仲良いのか?」

「出席番号も隣だし、仲良くなりました。だから、気になって……」

「そうか。友達想いだな。連絡はもらっとる。体調を崩したそうだ」

「体調を崩した、ですか?」影浦は昨日まで元気だったではないか。不良たちをほんのわずかな時間で一蹴してしまうほどに。しかしそんなことなど言えない。金子教諭が影浦についてどこまで把握しているのかは分からない。いや、担任だからさすがに解離性同一性障害のことは知っているだろうか。

「ん? 別におかしな理由か? それか影浦が仮病を使ってるとでも?」金子教諭が怪訝な顔つきで言う。

「いえいえいえ! そんなことはないです。ありがとうございました!」

 風岡は頭を下げて、自分の席へと戻った。

 影浦が体調不良とは意外な答えだった。いや、風邪を引いたりするのは、学校を休む最も一般的な理由なのでおかしくはないのだが、昨日の夜は少なくともそんな様子には見えなかった。かと言って、学校をサボるようにも見えなかった。それとも風邪ではなくて、交代人格の『夕夜』が学校に行くのを阻止したのだろうか。情緒不安定という名の体調不良かもしれない。いろいろな憶測がまた風岡の脳内を交錯したが、明確な答えなど出ては来ない。今日、部活の後に『しろとり学園』に行ってみようと思った。児童養護施設は、それまで風岡にとって無縁なので、未知の世界であった。ちゃんとした手続きを取らないと入れないのだろうか。アポなし訪問は門前払いなのか。よく分からなかったが、影浦を気遣う気持ちの方がなぜか上回っていた。


 ラグビー部は入部式を来週に控えていた。確定している新入部員は風岡を含め十一名だ。うち二名は女子マネージャーである。もちろんその中にH組の鵜飼もいる。

 早くも風岡は期待されていた。風岡は中学校時代にラグビー部のバックスとして活躍してきた。ラグビーのポジションはフォワードとバックスに別れ、それぞれ役割が異なるゆえに適性も異なる。風岡は中学生としては大柄だが、決して筋肉質過ぎるわけでもなく重量級ではない。概して、重量級の選手はスクラムを組んだり相手チームのバックスからボールを奪ったりするフォワードが適していると言われている。風岡は、体格自体はもちろん悪くないが、びんしょうせいにも優れており、トライを決めにいくバックスの役割を与えられてきた。はじめはセンターやウイングを努めたりしていたが、風岡の戦略的頭脳を買われて中学三年生ではスタンドオフという司令塔的な役割も務めてきた。

 高校生からラグビーを始めた者が多い中、中学からしっかりレギュラーに組み込まれていた風岡に寄せられる期待は計り知れなかった。そんな自負が風岡にはある。例えば、風岡がラグビー部以外の部に入るようなことは、他人から見ても自分から見ても考えられないことであった。まさに入るべくして入った部である。


 ひとまず、今日もラグビー部の練習を終えて、帰宅の準備をする。

 今日は、千里は待っていなかった。千里は魅力的な女子だが、話していると心の中を透視されているような感覚に陥ることがある。注意深くしていないと、たちどころに彼女のペースに巻き込まれてしまうような気がしていた。これから影浦の様子を見に行こうとしていた。別に千里にそのことを知られていけないことは何もないのだが、彼女が待っていないことにちょっと胸を撫で下ろす。

 一人で帰路に着き、家に到着するや否や荷物を置いて自転車に跨がった。事前に『しろとり学園』の場所は調べておいた。昨夜の河川敷から徒歩圏内で、風岡の家からも比較的近かった。ここに児童養護施設があることを知らなかった。いや、意識していなかっただけかもしれない。あまりに身近なところは案外見過ごされていて実はよく知らなかったりするものだ。

 児童養護施設のチャイムを鳴らすと、壮年の男性が現れた。見るからに施設長と思われるその男性が、風岡に用件を訊いてきた。

 影浦のクラスメイトで友達であり、欠席で体調を崩したと聞いて心配になって来た、ということを伝えると、意外にもあっさり中へ案内してくれた。

 木造の少し古めかしい建物であった。廊下の床がきしむ音を確認しながら中に進むと、影浦の部屋に案内してくれた。部屋の中は小綺麗に整理整頓されており、影浦が椅子に腰掛けていた。

「どうしたの? こんな夜に?」目を丸くして影浦が訊いてくる。顔つきと話し方からすれば交代人格の夕夜ではないことはすぐ分かった。

「あ、いや、今日学校休んでいたからな。心配だったんだよ。元気そうだな……あれ、んん?」

 一見元気そうに見えた影浦の身体に異変を見つけた。

「お、お前、その脚……どうした?」

 影浦の左脚が、青痣となってかなり腫脹していた。内出血だろうが、程度がかなり大きい。

「あ、昨日の夜かな? あ、夕夜が暴れた後はいつもこんなんだから慣れてるよ」

「いや、慣れてるよったって酷いぞ。折れてるかもしれん」

 そう言いながらも、疑問を感じた。昨日の夜の喧嘩は夕夜の圧倒的な勝利だった。相手から一撃も喰らうこともなく一方的に打ち負かしていたように見えたが。

「折れてないって。歩けるもん」影浦はそう言って立って見せた。

「痛くないのか? でもヒビとか入ってるかもしれん。病院行こう。整形外科まだこの時間やってるかな」

 そう言って、風岡は少し強引に影浦の手を引っ張った。影浦は片足跳びで廊下を歩く。

「あの、すみません。影浦くん、脚が腫れているので病院に連れて行きますね」と、施設長に一方的に言い、自転車の後ろに乗せた。本来は二人乗り禁止だが、そんなこと言っていられない。近くに整形外科があることは知っている。自分がラグビーの練習で負傷した場合にも診てもらっていた。今は午後七時半。確か午後八時くらいまで患者がいたような気がする。児童養護施設なら窓口負担はかからないだろう。

「痛くないから良いのに……」影浦はそう呟いたが、風岡は「いや、仮に骨折なら放っとくと変な治り方するぞ」と言って、自転車を漕いだ。


 漕ぎ始めて数分して大通りを進んでいると、女性の声が聞こえた。

「影浦くん!」

 聞いたことのない声であったが、明らかに影浦と呼んでいたので、風岡は自転車を停めた。

「影浦くん!」もう一度呼ばれて、その声の方向を向くと、一人の若くて美しい女性が立っていた。いや、若いと言っても風岡たちよりは年上に見える。化粧やファッションにしっかりとお金をかけていそうだが、どこか気品を感じさせる。小柄で細身だが栗色の髪は綺麗に後ろに束ねられ、大きく美しい澄んだ瞳は謎めいた印象を抱かせる女性だ。

「あ、先生!」と、影浦は呼びかけに応じる。

「先生!?」風岡は驚いて目を見開いた。

 こんな若くてオシャレな先生と呼ばれる存在を、風岡はとっに列挙できなかった。中学校の先生か。いや、普通こんなに明るい色に髪を染めているだろうか。習い事の先生か。いや影浦は習い事などしていないはずだ。見た目からすれば大学生家庭教師の先生の可能性もあるだろうが、影浦が家庭教師を雇っているのも同じ理由で否定的である。

「あ、風岡くん。僕が診てもらっている心療科のだち先生だよ」

「心療科?」

「精神科と言った方が分かりやすいかな」

 風岡は驚く。まさか二十歳代そこそこに見える女性が医師だったとは。良い意味でそんなオーラはじんも感じられなかったから、人間とは見かけでは判断できないものだ。

「足達です。はじめまして」と鈴を鳴らすような声で風岡に挨拶すると、その女性は影浦に問いかけた。「あなたの学校の友達?」

「そうです。風岡くんが僕の怪我した脚を病院で診てもらえって」

「怪我? ひょっとしてまた夕夜くんが」

「そうなんです。僕はいつものことだからいいって言ったんですけど……」

「ちょっと見せてごらん」足達医師はその場で影浦のジャージのズボンの裾をまくった。街灯に照らしながら、腫れた左脚をめつすがめつ眺めた。そして症状を訊きながら診断を下すように話した。

「レントゲンを撮ったわけじゃないし、整形外科は畑違いだからはっきり断定はできないけど、たぶん単なる打撲だと思うわ」

「ですよね! ほら」影浦は同調した後、風岡の方を向いた。

「そっか、先生が言うなら間違いないんだな。病院行くのは大丈夫そうだな」

「だから断定はできないって! 専門家ではないからね」と、足達医師は一言断った。

「ところで、何で先生はこんなところを歩いてるんですか?」影浦が足達医師に尋ねる。

「あ、私? 私は、今日は大城おおしろ医療総合センターの出勤日だったんだけど、その帰りだわ」

「大城医療総合センター? 大城病院じゃなくて?」風岡は思い出したように足達医師に訊いた。

「大城病院は昔の名前なんだけど、増築して今は大城医療総合センターって名前を変えたのよ。でも何年も前の話よ」

「そっか」

「ん? 君はその病院にお世話にでもなったのかな?」

「あ、いえ。昔、小学校に大城という女子が同級生にいて、めちゃめちゃ優秀で神童と呼ばれていて、親父さんが大城病院の院長先生って言ってましたから」

「へー、じゃあセンター長の娘さんがその子なのかな。やっぱり血は争えないのね。院長先生もかなりの腕の先生だって有名よ」

「そうなんですね」風岡はうなずいた。

「あ、君たちお二人さん。良かったら晩ごはんでもどう? ごちそうしてあげる。今から整形外科行くくらいなら時間あるんでしょ?」

「あ、でも施設の門限が……」影浦は遠慮しがち言った。

「そんなの、私が施設長に電話しといてあげるから! 大丈夫!」

「俺も、家で晩飯が……」頭を掻きながら風岡も言った。

「育ち盛りの男なら、晩ごはんの後でも晩ごはんもう一食くらい食べられるでしょ!」

「えー!?」足達医師の強引な発言に面食らった。

「ま、半分は冗談なんだけど半分は本気。影浦くんの友人として、心療科の医師の立場からアドバイスがあるから、付き合ってくれると彼のためになるんだけどな」

 そう言った足達医師の視線はまっすぐ風岡の目に向けられていた。

 

 なお、影浦の脚が痣になって大袈裟に腫れるという謎については、翌年、高校二年生の夏に思わぬ形で明らかになる。

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