第一章 入学(ニュウガク)  4 風岡

 翌日、例によって千里はラグビー部の練習が終わるまで待っていた。千里は嬉しそうな表情でさっそく風岡に報告してきた。

「影浦くんに話しかけてみた。ちょっとだけね」

「本当に話しかけたんだ」風岡は目を丸くして答える。

「だってそういう話だったでしょ」と言って、千里は少しふくれっつらになる。

「チーちゃんの行動力には感心させられるよ」

「でも五分くらいしか話してないよ」

「それでも、あのもくな影浦とよく五分も会話がもったもんだよ。で、どんなことを話したの?」

「たわいもないことよ。好きなアーティストとかタイプの芸能人とか……」

「そんなことまで話したの!? すごいね。入学式の日から話してかけてきた俺でさえそこまで聞けてなかったのに」

 風岡は意外に思った。風岡は、物静かで本ばかり読んでいる影浦は俗世間からかけ離れた存在だと思っていた。そんなこと話題にしても右から左に聞き流されるだけだと思って諦めていたのかもしれないが。「影浦、普通に教えてくれたの?」

「別に普通だったよ。訊けば教えてくれた。でも彼はなかなか面白いね。かなり奥が深そう」

「奥が深そう?」

「普段は見せることのない顔がありそうな、そんな気がする」

「何でそんなことまで分かるの?」風岡は内心非常に驚いていた。鵜飼が言ったような出席停止処分になるような一面があることを、本当に千里は短時間で見抜いたのだろうか。そしてそれは本当なのだろうか。

「何でと言われても……でも私、結構そういう勘が当たるのよ、昔っから」

 千里には、影浦の出席停止処分の件については何も情報を与えていない。もし影浦の二面性が事実なら、千里もなかなかの女子である。少し試してみようか。

「そうなんだ。じゃあ俺の誕生日当ててみて?」

「そんな、何の情報もないのにそれは無理だよ!」

 なるほど、勘が鋭いと言っても、ある程度の情報がないと、洞察力も働かないようだ。

「ははは、それもそうだね。ちなみに俺の誕生日は一月三日。一、三で、語呂合わせで『ヒサ』だから『ひさし』って名前にしたとか」

「へぇー、おもしろい! 私の誕生日に近いね! 私、一月七日だから。山羊座のO型よ」

 確かに近い。風岡は思わず少し嬉しくなる。血液型は風岡と違うようだが。

 話題を影浦に戻そう。

「ところでさ、影浦の好きなタイプの芸能人って誰だったの?」

「本人に直接訊けば良いのに。私から聞いたことは内緒にしといてね。与那覇よなはゆうだって」

「与那覇侑子、か……」真っ当な答えだと思った。沖縄出身で確か二十歳はたちのいま話題の美人女優で演技力にも定評がある。あれだけの美人ならファンも大勢いることだろうと勝手に分析する。もっとも風岡のタイプとは異なるが。ひとまず、影浦の好きな女性のタイプは至って普通だと思われたので、風岡は少しあんする。

「影浦くんって結構、美人好きなんだね」と、千里が代弁する。

「そうだな。んで、好きなアーティストは何だって?」

「あは、これはちょっと驚きだったんだけど……」

「驚きだったんだけど?」風岡はおうがえしをした。

せい飢魔Ⅱきまつだって」

「聖飢魔Ⅱ!?」

 聖飢魔Ⅱは80〜90年代に数々の名曲を生み出し人気を席巻した悪魔の構成員五名で編成されるヘヴィメタルバンドだ。その名の通り1999年12月31日23時59分で一旦活動休止しているが、ファンもとい信者の熱い声援に応え再集結し期間限定のライブ(通称:ミサ)を行っており、今でも根強い人気を誇っている。風岡もロックが好きなので、趣味が合いそうで結構なことだが、無口な影浦のイメージとはとても一致しない。

「あの、大人しそうな影浦くんがヘヴィメタ好きだとは思わなかったよね。人間見かけだけじゃ分からないね」千里はそう言うと、ちょっと不敵な笑みを浮かべた。

「てっきり、クラシックとか、せいぜいポップな曲とか聴くかと思った」

「まあ、とにかく彼にはまだいろいろ面白そうよ。奥が深いと思う。あとヒーくんが思ってるよりもっと気さくに接してくれると思うよ。ヒーくんこそ無難な会話にとどめようと思って壁を作ってるんじゃないかな?」

「そ、そうか……確かに言われるとそうかもしれないな」的確な意見だと思い、風岡は納得する。

「せっかくだから、いっぱい喋ってみてよ。そして、影浦くんがどんな人か教えてちょうだい」千里はにこりと微笑む。

「えっ、教えるの?」風岡は率直に疑問に感じた。

「いーじゃん。彼面白そうだから! ひょっとして私が影浦くんのことに興味示しているってしっしてるんじゃない?」と、いつものノリで千里はからかってきた。

「ち、違うって!」

 風岡はたちまちしどろもどろになる。


 翌日、風岡は『放課』の時間、影浦に話しかけてみた。

「おう、影浦」

 風岡は、少しでも距離を縮められるよう敢えて呼び捨てで話しかけてみた。影浦は無表情で応答する。「何かな?」

「あ、あの、今さ、いろいろおすすめの曲を探しているんだけど、影浦のおすすめとか、好きでよく聴いている曲はないかな?」

「おすすめの曲? 実は昨日も、桃原さんかな? 好きな歌手を訊かれたけど。今、音楽ブームなのかな」

「あ、いやー、どうかな? 単なる偶然だと思うけどな」影浦といえども、風岡と千里の関係を勘繰られたくないためか、答えを濁した。

「僕は聖飢魔Ⅱが好きだよ。『アダムの林檎』とか『赤い玉の伝説』とか『EL.DORADO』とか『THE END OF THE CENTURY』とか……あと『地獄の皇太子は二度死ぬ』もいいね!」

 さすが、悪魔の構成員のグループである。曲目を聞いただけで聖飢魔Ⅱ以外ないだろうと思われるものもある。

「そっか。ヘヴィメタル良いよな。俺も激しい曲好きだよ。Xエックス JAPANジャパンとか」風岡は他にも好きなバンドがあるのだが、敢えてヴィジュアル系ロックバンドの名を挙げて、同調しようとした。

「X JAPANも良いよね。『BLUE BLOOD』とか『DAHLIA』とか『Stab Me In The Back』とか『X』とか」

 やはり、この男は激しい曲調が好きなのだろうか。ちょっと知っている程度のファンならば、まずこの四曲は挙がらないと思う。

「なかなか、渋いところをつくね! 俺は『WEEK END』とか『Sadistic Desire』とか、最近だと『Jade』とか」風岡は敢えて、いちばん有名どころではない曲を列挙してみた。前の二曲は疾走感のある激しいものだ。

「あ、それも好きだよ」影浦は破顔する。風岡は影浦のそんな顔をはじめて見たので、安堵する。

「そっかそっか。影浦もロック好きなんだな。俺も好きだし、気が合うかもな」

「音楽は好きだよ。集中力高まるしね」

「カラオケとかも行ったりする?」友達が少なそうな影浦に訊いて良いものか分からないが、話の流れから訊いてみた。

「カラオケは……あまりないけど、施設の仲間と行ったことはある」

 施設とは何だろうか。疑問に思いつつも、変に訊き返してはいけないような気がしたのでそっと心の中に留めておいた。掘り下げた話はもう少し親しくなってからだ。

「じゃあ、今度ゴールデンウィークに行くか! カラオケ!」

 風岡は思い切って誘ってみた。同性の人間を誘うのに、こんなに神経を使うのもおかしな話だと我ながら思う。

「うーん、シフトを見てみないとな」と言って、影浦は簡素な手帳を取り出した。

 シフトということは、影浦はアルバイトをしているのだろうか。考えをめぐらす風岡に影浦は訊き返した。

「でも、風岡くんも部活の練習あるんじゃない?」

「あ、練習って言っても休日は午前中だから。特に夕方とかは空いてるよ」

「そっか。いちおう僕は、五月五日は大丈夫みたいだけど、門限あるから遅くはなれないかな。夜九時までに帰れれば」

「そこまで遅くならないよ。あ、連絡先教えてくれるかな」

「それが、僕、携帯電話持ってないんだよね」

「持ってない?」

 風岡はビックリした。今どきの高校生はほぼ皆、携帯電話を所持していると思っていた。確かに影浦が携帯電話を操作している姿を見たことがなかったが、まさか持っていなかったとは。携帯電話を持たされていないだけでなく、おそらくは部活禁止でアルバイトをさせているが門限がしっかり設定されているところ、影浦家の教育方針はなかなか厳しいものだと思った。

「そうなんだ。ご、ごめんね。いつか欲しいと思ってるんだけどね。だから、時間と待ち合わせ場所言ってくれれば、そこに行きますから。できれば定期券の範囲内がありがたいけど」

「分かった」

 風岡は影浦がどの辺りに住んでいるかを訊いた。もちろん鵜飼から訊いているので、初耳ではなかったが、六番町ろくばんちょうと訊いて、「近いね」と言って驚いたフリをした。結局、金山かなやま駅が双方にとって近く、カラオケなども充実しているということで、そこが待ち合わせ場所となった。

 しかし、鵜飼の言っていた出席停止処分となるような非行の形跡はまったくなかった。家の厳しさといい、ますます疑問に思うばかりであった。


 五月五日の午後三時、金山総合駅の名鉄改札前で待ち合わせをした。

 ラグビー部の午前練習後、先輩に捕まってしまい危うく待ち合わせに遅れそうになった。影浦は携帯電話を持っていないから何としても遅刻してはならない。もともと風岡は時間にはルーズではないが、影浦に対しては特に遅刻するのは失礼に値するような気がした。別に大事な商談でも大好きな女子との初デートでもなく、クラスメイトとの、しかも男子との待ち合わせなのだが、どうも気が急いて仕方がなかった。

 結局到着してみれば約束の三分前であった。影浦はすでに到着していた。影浦は、着古した感じのジーンズとシャツを身につけていた。その証拠かどうかは分からないが、ジーンズの裾丈が脚の長さに合っていない。相当お気に入りで身長が伸びても穿き続けているのだろうか。

「ごめん、影浦。待ったか?」

「いやいや、僕もさっき来たばかりだから」

 たぶん風岡に配慮してそう言っているのだろう。証拠はないが何となくそんな気がした。

「じゃあ、どっか歌いに行くか」

「いいよ。でも僕そんなにお金持ってないから安いところがいいかな」

 カラオケはどこも満室であったが、一つ少し離れたところに安くてしかもそこまで待たないところがあった。

 風岡と影浦はカラオケルームに入る。影浦はどんな歌を歌うのだろうと思っていたが、最初の曲を風岡に譲ってきた。そういうところはやはり積極的ではない男だ。

「じゃあ適当に入れるよ」

 そう言って、電子目次本を向ける。風岡もカラオケ自体はさほど自信はない。声域も決して広いわけではないので、高音揃いのX JAPANはいかにも不適であるのだが、比較的音域の高くない『WEEK END』をいくつかキーを下げて歌った。影浦は電子目次本を慣れない手つきでいじっている。聖飢魔ⅡはX JAPANと同等かそれ以上に高いではないかと思うのだが、影浦は高音でシャウトをしたりするのだろうか。

 しかし、影浦の選択した曲は『福山ふくやま雅治まさはる』の楽曲であった。しかも、お世辞にも上手とは言えなかったし、途中メロディーを忘れてしまって抜けてしまうこともあった。もちろんそれに対して口に出してけなしたりはしなかった。よほど気心の知れた仲間ならまだしも、影浦に対してはまだ口が裂けても言えなかった。それ以前に、風岡自身も歌は上手くないのだから。


 影浦に気を遣っているわけではないつもりだが、なるべく影浦に快適に歌ってもらいたいと心のどこかで思ったのだろうか。影浦の飲み物がなくなり次第、風岡は自分の飲み物のおかわりも兼ねてドリンクバーのコーナーに取りに行ったりした。偶然なのか二人ともジンジャーエールを飲んでいた。

 しかしながら、ドリンクコーナーのジンジャーエールが無くなってしまっていた。スイッチを押してもコップに注がれない。

 他のドリンクにしようかと思っていたところ、身長の高い女子高校生らしき見知らぬ女性が、同じくコップを二つ持って待っていた。彼女は見かねたように声をかけてきた。

「あのー、ドリンク無くなっちゃったんですよね? アタシ、店員さん呼んできます」

 その女性はフットワークが軽く店員を呼びに向かうと、すぐに店員が駆けつけドリンクを補充してくれた。

「あ、どうもすみません。店員さんを呼んでくれてありがとうございます」と、風岡は頭を下げる。

 女子高校生も「いえいえ、どういたしまして」と快闊に返答した。

 たったそれだけの会話だったが、風岡は少し嬉しい気分になる。女子高校生にしてはオシャレで、ハキハキしていそうだ。そしてなかなか美人だと思う。正直風岡の好みだった。千里も明朗快闊の美少女だが、同じ美人でも顔は似ていない。そんなことを考えながら影浦のいる部屋に向かう。店内は賑わっているようだ。どこかですごく歌の上手な女性がいるようで、部屋に戻る途中で美声が聴こえてきた。


 その後も影浦は、J-POPのよく知られたヒット曲を歌っていたが、聖飢魔Ⅱは歌わなかった。それを歌って欲しいと風岡は強く願っていたわけではないが、訊いてみた。

「聖飢魔Ⅱが好きって言ってたけど歌わないの?」

「いやー、閣下の声は高過ぎて僕には無理だよ!」

 至極真っ当な回答であった。影浦は続けた。

「風岡くんは歌上手いね」

 影浦の耳には、音にエコーかけたり音程を自動修正したりしてくれる機能でもあるのだろうか。風岡は十五年間生きてきて歌が上手いと褒められたことは一度もなかった。

「ありがとう。でも俺は残念ながら音痴だよ」慌てて修正した。

「久しぶりのカラオケ楽しかった。できたら、お金貯めて『ミサ』に行きたいんだよね」

 ここで言う『ミサ』とは、聖飢魔Ⅱのライブコンサートのことを指す。聖飢魔Ⅱは解散後も期間限定で再集結してツアーを行っているのだ。文脈から風岡はそう判断する。

「おー、いいね! 俺も興味ある! チケット余ってたら俺も誘ってな!」

 半分は社交辞令であったが、半分は本気だった。生の閣下のシャウトを聴いてみたいと思って、影浦に頼んでみた。

「もちろんいいよ! そのときは声かけるから」そう言って笑顔で承諾してくれた。


 影浦は不思議で仕方なかった。非常に穏やかな好青年ではないか。確かに自らぐいぐいと引っ張るタイプではないが、優しく誠実で相手に対しても気遣いのできる男だと思った。ましてや、不良青年の要素などまったく含んでおらず、内面も外見も模範生と呼んでも良いくらいであった。それとも中学校の非行を反省し180度人間が入れ替わったのか。

 疑問を抱きながらも金山で別れた。風岡は地下鉄名城線の左回りで新瑞橋あらたまばし方面、影浦は地下鉄名港線めいこうせん名古屋なごやこう方面に乗車した。影浦は鵜飼の言っていたとおり、六番町駅が最寄りらしい。金山駅から二駅なのですぐである。

 風岡も金山からは三駅目の伝馬町駅で降りるので近い。あまり考えを巡らす間もなく、いつの間にか伝馬町駅に到着し、気付いたらもう家の前にいた。

 帰宅すると午後七時。高校生としては健全な時間だ。母親は夕食を支度していたが、料理が出来上がるまでの間に、借りたCDの返却を命じられた。そう言えば、影浦とカラオケに行くにあたって、予習するように聖飢魔ⅡのCDを何枚かレンタルしていたのだ。そして、その返却期限が今日までだった。

 帰ってきたままの格好で自転車にまたがると、伝馬町からは西方面にあるレンタルビデオ店に向かった。聖飢魔Ⅱの『空のしずく』を口ずさんでいた。聖飢魔Ⅱの楽曲は、それまで『ろうにんぎょうやかた』しか知らなかった。しかし、他にも名曲が非常に数多くあることに驚きとともに喜びを感じた。風岡もロックが好きだが、これほどまでの名曲になぜ今まで気付かなかったのだろう。そしてミサに行きたい(ファンもとい信者の間では参拝と呼ぶようだ)と思った。影浦には素直に感謝している。


 レンタルビデオ店でCDを返却した。また新たに借りようとCDを物色したが、聖飢魔Ⅱの他のCDが残念ながら置いておらず、結局何も借りずに再び自宅へと向かった。白鳥橋しらとりばしを走行中に複数の男の怒鳴り声が聞こえた。

 自ずとブレーキを踏む。どうやら下の方からだった。堀川ほりかわの河川敷から、不良どうしのけんと思われる、罵声の応酬が聞き取られた。

 橋の欄干らんかんに手をかけて、その声のする方を見てみる。そして、風岡は目を疑った。

 声を荒げている男の一人は、紛れもなく影浦のようであった。あの服装の色、模様は先ほどまで見ていたものそのものであり、若干短い裾丈もそれを裏付けている。顔の造形も背格好も影浦だ。しかしながらその表情は、金剛力士像にもけんするほどのふんの形相であった。そして声色も大きく低く非常に威圧的であった。

 あの男は影浦であるとの確信と、影浦であるはずがないという疑念が、風岡の頭の中で、五分五分で鬩ぎ合っていた。そうこうしているうちに、両者の殴り合いが始まってしまった。

 取りあえず、自転車に乗って近くまで行く。喧嘩を止めることよりも、影浦か否かを確認したかった。影浦ならば身を投げ出しても止めなければならないと思った。しかし、今ここで見た影浦は、先ほどの穏やかな気性とは正反対だった。風岡は混乱していた。

 河川敷の上に自転車を停め、鍵もかけずに下へと降りた。いつの間にか、そこに立っている男は、一人だけになっていた。他の男たちはうめき声をあげながら、その場にひれ伏していた。影浦と思われる男はけんしわを寄せているが、それはもとからの表情と言わんばかりで平然としていた。どこかを痛がっている様子などなかった。

「おい、大丈夫か!?」ひとまず、倒れている者が何者か分からないが、声をかけて確認しようとしたが、それとほぼ同時に影浦と思しき男は、威嚇するような声をあげた。

「おい!! 何だてめぇは!」

 極めて脅迫的な口調で呼びかけながら、一気に風岡との距離を縮めてきた。風岡が振り向くと、鋭い左フックが風岡の鼻をかすめた。風岡は必死に後退すると、長い左脚から繰り出される、横蹴り、縦蹴り、後ろ蹴りが風岡の顔面のすぐ横で空を切る。空気との摩擦音が聞こえそうなほど素早い動きだ。運動神経は良いが喧嘩慣れしていない風岡は、防戦一方で避けることしかできない。いや、避けられるだけでも評価されるほどか。この男は空手やテコンドーや日本拳法などの武術を会得しているのだろうか。かなりの身体能力だ。もしこれが身体に当たっていたら、一撃でダウンしてしまうのは必至だろう。それは橋の欄干から堤防に降り立つまでの短時間に、複数人のいかにも不良青年たちを全員なぎ倒していた事実からも裏付けられる。

 とにかく、攻撃をやめさせなければならない。風岡の上半身に飛んできた蹴りを、右前腕で受け止めた。骨に重い衝撃が走った。激痛であったが、風岡は言った。

「お前、影浦なのか?」

 影浦は脚を下ろして、低い声で答えた。

「俺はユウヤだ」

「ユウヤ? 影浦……じゃないのか? 影浦あきら

「瑛の野郎か? あのバカめが! いつも俺がケツを拭く役回りだ!」

「瑛じゃないのか? 瑛の……兄弟? いや双子?」

 表情こそ違えど顔の造形は一卵性双生児並みに瓜二うりふたつだが、内面がまるで正反対であった。ここまで性格の異なる双子は存在するのだろうか。

「兄弟なんかじゃねぇ。影浦そのものだ!」

「え?」

 何を言っているのか風岡は理解できなかった。

「影浦瑛そのものだって言ってんだよ、オラ! まだ分かんねぇのか。瑛と俺は同一の人間なんだよ!」

「ひょっとして……」

 風岡は依然として混乱していたが、それでも整理を試みた。そして一つの可能性に辿り着いた。

「お前、二重人格か!?」

「だから、そういうことだよ。やっと分かったか、バカ野郎。今は解離性ナンタラっていうめんどくせぇ名前の病気らしいがな」

「解離性ナンタラ……」

「おい!」影浦の夕夜の人格の男は大きく低い声ですごんだ。そして、左手で風岡の胸ぐらをつかみ持ち上げた。風岡の大きな身体は、辛うじてつま先のみが接地していた。

「何だ……」と答えるも、風岡は苦しさで声がほとんど出せなかった。

「俺の存在を他人にバラしやがったらぶっ殺す!」

「わ……分かった……だから下ろせ」

 そう言うと、夕夜と名乗る男は風岡を掴んでいた手を離した。そうするや否や、なぜかその男の方が地面にくずおれてしまった。

 頽れた男は痛そうな表情をして右手で頭を抱えていた。そしてその表情は、紛れもなく影浦瑛そのものだった。

「あれ、風岡くん? ここは外? 何でここにいるの?」

「影浦なのか?」

「そうだよ。あ、ひょっとして夕夜がまた? あ、いててて……」と言って、影浦は頭を右手でさする。

 風岡は目の前で起きた現象について、にわかには信じ難かった。目の前にいる人間の人格が変化したのだ。まるで、憑依ひょうい状態から解き放たれたかのようだった。無論、風岡は人に霊が取り憑かれる姿も見たことはなかったが。とにかく、それほどまでに明白な変化だった。

「お前、どういうことだ一体!?」風岡はそう訊かざるを得ない状態だったが、影浦は目の前の状況に困惑する。

「ひ、人が倒れている! 夕夜が!? また?」

 影浦は自分が打ち負かしたはずの相手を見て頓狂とんきょうな声を上げた。倒れた相手は呻き声を上げている。

「声は出てるみたいだから、生きてるようだ。こいつらはお前がやったんだよ。俺はたまたま見てしまったんだ。で、止めに入ろうとした。そしたらものすごい剣幕で俺を攻撃した。覚えてないのか?」

「ぼ、僕はやってない! 夕夜なんだって!」

「夕夜というのがさっきまでの男か。夕夜のやったことは記憶していないのか」

「い、一部覚えていることもあるんだけど、夕夜が喧嘩しているときは、まったく記憶がないんだ」

「本当にか。そんなことがあるんだな。ま、取りあえず、この倒れてる男たちが何者か分からんが……」と、風岡は言って倒れている男たちの肩を叩く。「おい、大丈夫か?」

「う……な、何だお前は?」男の一人は言った。

「何でもいいだろ。さっさと立てよ。帰れるか?」

「何とか。あ、影浦ぁ……! ぉぼえてろ!」そう捨て台詞ぜりふを吐き、去っていった。どこかで見覚えのあるような顔のような気がしたが、おそらく気のせいだろう。風岡に不良の知り合いなどいない。

「あのチンピラどもは何なんだ?」

「よくは知らないけど、悪い奴らだ。施設に危害を加える奴ら」

「施設って何なんだ?」

「そっか、まだ話してなかったね。実は僕は、児童養護施設にいるんだ」

「児童養護施設? あの、両親が亡くなっている場合に子供が保護されるところか」

「そう。この近くに『しろとり学園』ってのがあって、そこに住まわせてもらってるんだ」

 風岡はようやく納得がいった。影浦が部活に入らない理由が。入らないのではなく入れないのだ。彼らは経済的な理由で贅沢はできない。同じ理由で携帯電話を所持していない。以前、カラオケの日時を決めるときに口走った『シフト』とは、やはりアルバイトのことだろう。門限とは、その児童養護施設の門限なのだ。

「影浦は、ご両親が亡くなられてるのか?」

「分からない」

「分からない?」一体どういうことだろうか。

「ちゃんと話すと長くなるけど……」と前置きして、影浦は近くにあるベンチを指差した。座って話をしようとの合図だろう。二人はそのベンチに腰掛ける。こんな夜の河川敷のベンチで、カップルならまだしも、男二人っきりで話をするのも奇妙な感じがした。

「僕は養子なんだ。影浦っていうのは生みの親の名前ではないんだ」

「養子?」養子縁組しておきながら、なぜ児童養護施設にいるのか、ますます分からなくなる。「養子ってことは、生みのご両親が亡くなられたのか?」

「ごめん。それも分からない……」

 この男は分からないことだらけだと思った。ついでになぜ影浦が謝るのかも分からなかった。影浦は続ける。

「僕の生みの両親は僕が一歳のときに離婚したと聞いているんだ。その後母親に引き取られたから父親の顔も行方も知らない。そして母親は僕が四歳のときに男を作って僕を手放したから母親もどうなっているのか知らない」

 母親のことを語るとき、影浦『瑛』らしからぬトゲのある口調になった。

「な、何か大変だな」風岡は無難なリアクションをせざるを得なかった。

「端的に言うと、そこで解離性同一性障害という病気が発症したんだ」

「解離性同一性障害?」先ほど夕夜が言っていた『解離性ナンタラ』のことだろう。

「そう解離性同一性障害。多重人格のことだよ。もともとのホスト人格と後から誕生した交代人格というのがいるんだ。僕は交代人格が一人だから、二重人格だけど、れっきとした精神疾患だよ。心療科の先生にも診てもらってる」

「交代人格ってのがさっきの夕夜なんだな」

「そう。なかなか荒れてる奴でしょ?」影浦は苦笑いしながら言った。

「なかなかじゃないよ。かなりだな」風岡も思わず苦笑いする。

「これでも良くなった方なんだけどね。夕夜とコミュニケーション取れることになったから」

「話すこともできるのか」

「いつもではないけど、夕夜と話ができることもある」

「すごいな……」自分の中に、違う人間が住み着いていて、その人物と対話ができる。風岡は想像がつかなかった。

「あの、僕こんなんだけどさ、ドン引きしてない?」影浦は少し寂しげな顔で問いかける。

「めちゃめちゃビックリはしたけど引いてはいない。お前は精神疾患だと言ったけど、俺からすれば個性だ」

「個性?」

「そんなもんだろ。身長が高いとか、髪の色が明るいとかと同じだと俺は勝手に思ってる。別にお前が悪いとか間違ってるとかじゃない」風岡は、髪の毛が明るいのを例に出したとき、ちらっと千里が脳裏を横切った。

「そう言ってくれるとありがたいよ」影浦は胸を撫で下ろしたようだ。

「取りあえず、これからもよろしくな」と言って、風岡は右手を差し出した。

「本当にありがとう。そう言ってくれて助かります」影浦は頭を軽く下げながら右手を出して、握手を交わした。

「何だよ。えらい他人行儀だな。男どうしだし、もっと気楽にやろうぜ」風岡は笑いながら言う。

「そ、そうだね」影浦も微笑んだ。

「おおっと! いけね! 俺、CD返しに行っただけだったのに」気付くと腕時計の表示は午後九時前になっていた。

「あ、僕も、門限近い!」と影浦も慌てる。「ごめんね! じゃあまたね!」そう言って影浦は手を振って急ぎ足で去っていった。

 ちょうどそのとき、堤防の上からか誰か人の気配がしたが、姿は見当たらなかった。不思議に思いつつも風岡は気にせず、自転車へと戻った。


 風岡は悟った。影浦『夕夜』は自分に攻撃を仕掛けてきたとき本気を出していない。相手の不良たちを非常に短時間で打ち負かすくらい喧嘩慣れしているのだ。それなのに喧嘩慣れしていないはずの風岡は夕夜の攻撃をかわすことができた。よくよく思い出すと、影浦はシャドウボクシングの要領で風岡の身体に当たりそうで当たらないようにパンチや蹴りを繰り出していたのだ。夕夜は見境なく攻撃をしているわけではなくて、ちゃんと負傷させる者とそうでない者を分けているように思われた。影浦の凶暴なはずの交代人格『夕夜』に情を感じた。

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