第一章 入学(ニュウガク)  3 風岡

 入学式の翌日からラグビー部の練習はあった。

 しかし、一部は勧誘部隊として駆り出されていたので、実際にグラウンドにいたのは全部員の半分くらいであって、あとは風岡と体験入部として参加している新入生数名であった。もうすでにラグビー部に入部を決めている新入生は風岡だけであった。

 風岡は経験者なので、初歩的な技術は備わっていたのだが、体験入部者もいるので、今日のところは楕円形のボールを使ったパスの練習や、タックルダミーを用いたタックルの練習などに留まった。

 風岡がスクリューパスを披露すると、先輩たちが「上手い」と絶賛してくれた。経験者なのでごく当然である。でも今は勧誘シーズンで体験入部者の目もあるので、先輩は新入生を持ち上げるのだ。おそらく本心ではないだろうが、そう言って新入生が溶け込みやすい環境を見せておかないといけないのだ。

 入部式が終わったら先輩の態度は一変して、厳格なる縦社会が築かれるのは、どこの運動部でも同じことだろう。特に強豪と呼ばれるチームはそうだ。


 練習は午後六時半頃に終わった。学校のある日は授業後におおよそ二時間半練習する。土日は午前中に練習、もしくは試合となる。

 汗を流した風岡は着替えて帰宅の準備をする。

 部室棟を出ると、一人の女子生徒が立っていた。

「お疲れ様! 風岡くん、ラグビー部はどうだった?」

 千里だった。屈託のない笑顔を見せながら話しかけてきた。

「あれ、桃原さん、何でここにいるの?」

「何でって、別に良いじゃない。まぁ、せっかくだし一緒に帰ろ」

 好みの女子生徒が部室の前で待っていて一緒に帰ろうと誘われて嬉しかったが、こんな入学早々から交際しているように見られるような真似は、若干気恥ずかしいものがあった。特にラグビー部の先輩たちに見られたら、後々になっていろいろと突っ込まれそうで怖い。

 取りあえず、気持ち足早に最寄りの駅に向かう。

「風岡くんって、どこに住んでるの?」千里は笑顔で訊いてくる。

てんちょうって分かる? 熱田神宮から少し南に行ったところで、めいじょうせんの駅なんだけど」

「あ、熱田神宮なら分かるよ。初詣で来る人めっちゃ多いところでしょ?」

「そうだよ。桃原さんは?」

「私は覚王山かくおうざん。だから実は近いんだよね」

 止社高校は地下鉄東山線の一社いっしゃ駅の付近にある。一社駅と覚王山駅との間には三駅しかなく、乗り換えなしで可能だ。

「そうなんだ? じゃあ自転車通学でも行けるよね」

「いや、自転車が壊れちゃって、地下鉄で通ってるんだ」

「そっか。じゃあ地下鉄で一緒に帰るのは今のうちだけだね」

 風岡も東山線のさかえ駅で名城線に乗り換えるから、千里が降りるという覚王山駅を通過する。

 たわいのない会話を続けていると、気付けばもう覚王山駅に着いていた。楽しい時間というものはすぐ過ぎていくものである。千里が笑顔で手を振って降車する。明日も会えるというのに、風岡は若干の寂しさを覚えた。

 成り行き上と言うのか、仲良くなれば当然と言うのか分からないが、桃原千里と携帯電話の番号を交換した。今や高校生でも携帯電話あるいはスマートフォンの所持率は軽く90%を超える。千里も今どきの女子高生らしくデコレーションされたスマートフォンを持っていた。風岡が止社高校の生徒と番号を交換したのははじめてであった。

 千種駅を通過すると、真新しい紺藍こんあいのジャケットと白のインナー、紺地にピンクのウィンドウペン柄のスカートの女子高生が二人乗ってきた。どこかの私立の女子高生だろうか。いかにもお嬢様という気品に溢れていて、うち一人は身長が高い。もう一人の女子高生は、以前どこかで見たことあるような気が一瞬したが、思い出せなかった。かなりの美人だったのでテレビで観た芸能人の空似かもしれない。まじまじとその女子高生を見るのは気が引けるので、風岡はこれ以上見ないことにした。


 学校生活も徐々にではあるが慣れてきた。少しずつクラスメイトの顔と名前を一致させ、話し相手も増えてきた。クラスの雰囲気はとても良く、明るい人が多かった。赤毛が印象的な千里も相変わらず風岡に話しかけてくる。そして、毎日一緒に帰るというわけではなかったが、部活動が終わって時間が合えば、時間にして少しではあるが一緒に帰った。

 全体的に明るいクラスだったが、一名ほど例外がいた。影浦である。影浦は相変わらず自分からは語りかけない。誰かに話しかけられたとき、あるいは先生に当てられたときに口を開くだけであった。『放課』では基本的に本を読んだりして過ごしている。彼については、未だこれといった突破口が見つけられずにいた。

 部活動も少しずつラグビー部に入部を決心する生徒が増えてきた。風岡を含めて八人が入部を決断し、あと八人くらい他の部活との間で心が揺れ動いているらしい。

 今日もラグビー部の練習は午後六時半頃に終わった。入部を決めた同級生の飼暢英かいのぶひでが部室の下級生部屋で話しかけてきた。お隣の一年H組の生徒だ。彼も中学生時代ラグビーをやっていたという。

「風岡。練習はどう?」

「どうと言われても、まだ勧誘シーズンだから練習もかなり生温なまぬるいよね。入部式を過ぎたら、かなりキツくしごかれるだろうな」

「そうだよな。今じゃまだ、中学の時の練習の方がキツかったくらいだよな」

「うちらもせいぜい今のうちに楽な思いをしておかないとな」風岡はそう言ってにんまり笑みを浮かべる。

「ところでさ、お前さ、影浦かげうらあきらしゃべってなかったか?」

 風岡は一瞬考えた。そうか、影浦の下の名前は『あきら』と言ったか。

「うん、喋ったよ。だって、出席番号が隣で席も隣だからな」

「彼には気を付けた方が良いぜ」

「えっ? どういうこと?」

「実はな、俺、奴とは同じ中学校だったんだが、素行が悪くて出席停止処分をにされていたことがあったんだ」

「まじで? 全然そういう風には見えないんだが」

 風岡はにわかに信じられなかった。あの大人しそうな影浦が中学時代に出席停止に処されていたなんて。しかし、影浦本人も「僕と仲良くなった人はきっと後悔させてしまうんだ」とか「酷い目に遭わせるかもしれないから」と発言していた。そのときは、きっと何か本人の思い違いか冗談程度にしか思っていなかった。だが、こうやって中学時代の同級生に裏付けられると、ぜんしんぴょうせいが増してくる。影浦が部活に入らないとか、かと言って習い事もしていないのは、そう言った要因もあるのだろうか。彼は確か、習い事をできるような身分ではない、と言っていたか。

 鵜飼は続ける。

「影浦は出席停止処分にもなってるから本来なら内申点とかものすごく低くなるはずなんだ。でも本当のところはかなり成績優秀らしいんだ。学力だけならもっと偏差値の高いところを狙えたという噂なんだ、内申点が低くて止社うちに落ち着いたらしい」

「確かに、あいついっぱい本を読んでるな。先生に当てられてもちゃんと答えてるし」

 事実、影浦はよく本を読んでいた。漫画本や雑誌ではなく、れっきとした小説だ。ちらっと一度だけ見えた表紙にはドフトエフスキーの文字が見えた。くたびれた感じの表紙や少し黄ばんだ中身のページから、古本か図書館で借りた本だと推察される。逆に携帯電話をいじっている姿は一度も見たことがなかった。

「そのときは、結構中学でももめたという話だな。たまたま俺のおふくろがPTA役員をやっていたから聞いた話なんだが、PTAで影浦の素行について問題になったらしい。それをフォローする勢力もあったとかで、せめったらしい。そんなことがあったもんだから、実は俺も影浦と同じ高校に進学したことが分かったとき、おふくろから影浦とは関わらないように言われたんだ」

「本当かいな。今のところ見ている限りは、問題児の片鱗へんりんもまったくうかがわせていないけどな。彼には何か秘密があるのかな」

「俺も大きな声では言えないけど。児童精神科のある病院に入院していたこともあったとか」

「えっ!?」思わず風岡は大きな声で反応した。

「シーッ! バカ! 大声出すな!」鵜飼はささやきながらも強い口調でたしなめた。

「すまん……」

「俺から聞いたって、絶対に言うなよ!?」

「わ、分かった。でも、あいつどうやら友達は欲しいらしいんだよね。本音か嘘かは分からないけど、俺は本音だと信じたい」風岡はあのときの影浦の表情を思い出す。彼の目に嘘は感じられなかった。

「だからと言って、敢えてこっちから手を差し伸べなくても」

「そうかもしれんが……」

「とにかく俺は、忠告だけはしといたからな。不用意に関わってどうなっても、知らないからな」

 鵜飼がそう言って部室を後にしかけたところに、風岡はもう一つ質問をした。

「鵜飼はどこの中学校なんだ?」

六番ろくばん中学。あつろくばんちょうのな」

 近い。風岡も熱田区だ。熱田区の白鳥しろとり中学校だ。白鳥中と六番中は通学区域が隣接する。堀川ほりかわを境にして東と西だ。

 風岡はラグビー部の練習があるので影浦と一緒に帰ることはないのだが、かなり近いところまで電車で一緒になる。最寄りの駅は異なるのだが。影浦の住所はおそらく風岡の生活圏内に充分に含まれていると想像できる。

 同時に、鵜飼も近所に住んでいることが判明した。しかし、風岡は千里と帰ることが多くなっていた。風岡が部室から出てくるのを、千里が待っているかのように居るので、断るのも悪いので千里と電車で帰るのだ。風岡は入学早々ってこともあって決まりが悪いので、なるべく皆に見つからないように同級生でもいちばん早く部室を出るか、もしくはいちばん後に出るようにしていた。千里は特に髪色が特徴的だから、噂が広まりやすいと思われる。よって、鵜飼と一緒に帰ったことはなかった。


 風岡もタイミングを見計らって部室を出ると、例によって千里が待っていた。

「お疲れ様ぁ。風岡くん!」相変わらず屈託のない笑みで風岡をねぎらうと、汗拭き用のタオルを差し出してくれた。「一緒に帰ろ!」

「ありがとう」風岡は喜びながらも、周囲の目を気にする。これでは二人の関係が噂されるのも時間の問題かと思った。壊れたという自転車はどうなったのだろう。修理もしくは新しく購入して、自転車通学しないのだろうか。

 そんなことを考えつつも、一方では先ほど鵜飼から言われた内容が頭の中を駆け巡っていた。

「ところで桃原さん」

「あ、そろそろ、桃原さんじゃなくて下の名前で読んで欲しいな」

「下の名前? 千里さん?」

「いやいや! 千里さんなんてよそよそしいから! チーちゃんって呼んで」

「チ、チーちゃん!?」

「そ! 中学時代はみんなそう呼んでたんだから!」

「そうか……」

「だから私は風岡くんのこと、ヒーくんって呼んで良い?」

「ヒ、ヒーくん!?」風岡は驚いて、すっとんきょうな声を出す。

「千里がチーちゃんなら、ひさしでヒーくんでしょ?」

 確かにそうかもしれないが、風岡は今までそんな呼ばれ方をしたことはなかった。大抵苗字か名前そのままで呼ばれる。ニックネームを強いて言うなら、『かざくん』と呼ぶ人がせいぜい一人か二人か居たくらいか。

 いきなりの称呼の変更に風岡は戸惑った。他の皆が全員そう呼んでいるのなら良いのだが、まだ千里のことを『チーちゃん』と呼ぶ者はクラスにはいない。慣れていないせいもあるかもしれないが、ちょっと恥ずかしい。風岡はそういうところに照れを感じる男だ。

「で、何だった?」いきなり千里は話題を元に戻した。

「ええっと……」一瞬、風岡は何を話そうとしていたのか忘れかけていた。「あ、そうそう! チ……チーちゃん、うちのクラスの影浦瑛という人について何か知ってる?」

 風岡は質問してみて、すぐに愚問だと感じた。千里の家がある覚王山は千種区であり、影浦が住んでいると思われる熱田区とは遠く離れている。まだ学校が始まって一ヶ月も経過していないのに、千里が影浦の情報を握っているとはとても思えなかった。ちなみに、影浦と千里が会話している光景を見たことはない。

「影浦くんって、風岡くんの後ろに座ってる物静かな人?」

「そうそう」と、影浦は答えながら、この反応ではやはり何か知っている様子はないのだろうと残念に思った。

「残念ながら、私は彼のことは全然知らないけど……」

「ごめん、チーちゃんが知ってるわけないよね」

「いや、知らないんだけど、彼は、影浦くんは、かなりの教養の持ち主だと思う」

「かなりの教養の持ち主! そこまで言っちゃう?」

「そこまで言っちゃう、って?」

「いや、その、俺も影浦を見ていて、いつも読書しているし、先生の質問にも答えているから、頭が良さそうだなって思ってるんだけどね」

「でも、ヒーくん、影浦くんとよく喋ってるじゃん。喋ってみてどうなのよ」

「よく、は喋ってないと思うけど。何かあいつ、話しかけられればちょっとは喋るんだけど、自分からは話しかけて来ないんだよね、誰にも。自分から心の扉を閉ざしちゃってるみたいだから。何か理由でもあるのかなと思って」

 風岡はさすがに、先ほど鵜飼の口から聞いた、素行が問題でかつて出席停止に処されていたらしい、ということは黙っておいた。他人の悪い噂を、深く検証もせずに第三者にやみたらに流すべきではないと思っている。

「そっか。私は影浦くんと喋ったことはないから、今度喋りかけてみようか?」

「えっ?」突然の千里の提案に風岡は驚く。

「ヤーダ! ヒーくん、今ちょっとジェラシー感じたでしょ!?」

「えええ!? そ、そんなことないって!」

「顔に出てるわよ! もう可愛いな! そーゆーところ、私好きよ」と、言って千里は風岡の頬を細くてしなやかな指で突っつく。風岡はますます動揺を隠せなくなる。

「ちょ、ちょ?」

「大丈夫。ちょっとからかっただけだからさ。さわりのない程度に、影浦くんに話しかけてみるからさ」そう言うと、いつの間にか覚王山駅に到着していたのか、笑顔で千里は手を振って電車を降りていった。まったく、千里と一緒に居ると、彼女のペースに振り回されている自分に気付く。決して嫌なわけではないのだが、同じ学校関係者が見ているかもしれない中では、どうしても戸惑いを隠せずにはいられなかった。

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