第一章 入学(ニュウガク)  2 風岡

 入学式での諸々の手続きを終えて、新しい下駄箱の位置を確認しながら、校舎の扉を出ると、部活動の勧誘が大勢待ち構えていた。ユニフォームを着た上級生たちがあちらこちらでPR合戦をしている。女子部員やマネージャーらしき人も大勢いた。チラシは、街頭のティッシュ配りのように押し付けられ、地面に散乱していた。

 風岡はすでにラグビー部への入部の意志が固まっていたので迷うことはなかったが、意志の固まっていない生徒は、あまり興味のないところであっても友達の誘いで見に行って、そのまま断り切れずに入部してしまうこともあるかもしれない。

 風岡はラグビー部のユニフォームの上級生を見つけて近寄った。実はもう学校説明会のときに、先輩らとは顔合わせ済みだ。さっそく明日からよろしくお願いします、と言って、入部希望の意志を伝えた。

 入学式には風岡の母親も来ていた。今日ばかりは親と一緒に帰宅するために探していると、影浦の姿を確認した。影浦は何部に入るのだろうか。いかにも人見知りしそうな性格はおおよそスポーツ向きではないかと思われるが、あの上背うわぜいに、痩せ形でありながら引き締まっていそうな身体は、運動部の勧誘部隊がみすみす見逃すとは思えなかった。やはりその予想通りで、その体格を見た様々なユニフォーム姿の上級生の格好の的になっていたが、何やら一生懸命に断っている様子であった。

 上級生の群れからやっとの思いで脱出できたかように、若干息を切らせながら、影浦はこちらに出てきた。

「あ、風岡くん」影浦は名前を覚えてくれていたようだ。

「おう、影浦くんはもう部活は決まったのかい?」

「いえ僕は、部活は遠慮しようかなと思います」

「何で? どこにも入らないの?」風岡は少し驚いた。入学式の日から帰宅部であることを決意している生徒も珍しいと思った。

「ええ、僕はあまりそういうのに向かないみたいで」影浦は苦笑いする。

「そっか。背も高いし体格もいいから、てっきりバスケとかバレーボールとか似合いそうだなって思ってたけどな。でもまぁ本人の意思だからね」

「そうなんです。ではそういうことで。これにて失礼します」

 影浦は軽く頭を下げて、急ぎ足で校門の外へと去っていってしまった。

 ところで影浦は一人なのか。高校生といえども、この日くらいは親同伴の生徒がほとんどだと思われる。いや、そんなことはないだろう。きっと、校門を出たところに親御さんが待っているに違いない。風岡はそんなことを考えていた。


 翌日、通常の高校生活の初日がスタートした。

 一時限目の英語の授業が始まる。まだ、生徒同士の多くは友達になっていないため、どこかよそよそしく私語を交わす者は少ない。みんな静かに先生の話を聞いていた。

 改めて教室を見回していると、例の赤毛の女子生徒が実は自分と同じ一年G組であったことに気付いて、風岡はちょっと驚いた。えっと名前は、桃井……じゃなくて桃原千里と言ったか。赤毛なのに名前はピンクかよ、と思ったので、『桃』が名前についていたことは覚えていた。もっとも生まれつきの髪色だということが分かっているので、彼女に非はない。出席番号順に後ろから前へ、列は廊下側から窓側へと座席が並んでいる。具体的には、廊下側のいちばん後ろが出席番号一番で、二番はその前方へと進む。列の一番前にいくとその次の番号の生徒は一つ窓側の最後方の席となる。いちばん最後の番号の生徒は、いちばん窓側の最前列になる。風岡の『か』と、桃原の『も』では、座席が少しばかり離れているので、入学式のガイダンスでは気付かなかったのだ。

 そんなことを考えながら桃原千里の方を見ていると、彼女は風岡の方を見てきた。彼女は口元をニコッとさせる。風岡はちょっとバツが悪そうに、軽く目で挨拶して、黒板の方を向き、先生の話の方に意識を戻した。

 一時限目が終わり休み時間となる。ちなみに、愛知県では授業と授業の間の休み時間のことを『放課』と呼ぶ。世間一般的には、一日の所定の授業が終わることを放課後と言うのだが、逆に愛知県ではあまり放課後とは言わず、『授業後』などと言うことが多い。名古屋にずっと住み続けている風岡にとって、休み時間イコール『放課』が方言であることを最近になるまで知らなかった。

 その『放課』の時間に、千里は風岡のもとに歩み寄ってきた。

「昨日はありがと。同じクラスだったんだね」

「桃原……さんだっけ? そうみたいだね。今日になるまで全然気付かんかったよ」と、風岡は苦笑する。

「風岡くんは、部活はどこにするか考えてるの?」

 風岡は、千里が自分の名前を覚えていてくれたことが、ちょっと嬉しかった。

「俺はラグビー部だよ。もう入部を決めてるし、今日からさっそく練習に出ようと思ってる」

「そうなんだ。スポーツマンだね。私はまだ決まってないなぁ」千里が嬉しそうに言う。

「候補はあるの?」

「そうだね。ESS、あ、英語研究部のことね。それか、弁論部か。ひょっとしたら入らずに予備校に入っちゃうか……私こう見えて、結構勉強熱心だから」

「こう見えて、って全然遊び人には見えないけどな」

「風岡くんは、勉強は得意?」

「お、俺? 俺は残念ながら勉強は得意とは言えないな。でも、社会科は得意だよ。日本史とか地理とか」

「じゃ、今度勉強教えてね」千里は屈託のない笑顔でお願いしてきた。

「だから、得意ではないって」

「いーの、いーの! 私は、社会科はダメなんだから」と風岡の肩を軽く叩きながら、「ヨロシクねー」と言って、自分の席に戻っていった。

 風岡は、はじめて会話を交わした昨日と打って変わって、親しげに話してくる千里の態度に若干の違和感を感じつつも、嬉しく思った。

 もともと自分は友達ができやすい方だと思っている風岡も、誰一人知り合いのいない集団では誰かに話し合うきっかけは戸惑うところである。高校生になると、特にそうかもしれない。それが、向こうから話しかけてもらえるのはありがたいものだ。話すきっかけさえできれば、あとはそれなりに仲良くなれる自信はある。

 しかも、桃原千里という女子はなかなか可愛らしかった。大きな澄んだ瞳でにこやかに笑う顔が印象的である。赤毛は非常に特徴的だが、それはそれで似合っていた。チャームポイントだと言える。声も明るく、昨日の印象とは異なり快闊かいかつな性格のようであった。昨日は、彼女にとってみれば初対面で、しかも教師にただされていたこともあって、きっと緊張していたのだと思う。単純なもので、風岡にとって千里はいわゆるタイプの女子に変わりつつあった。


 『放課』が終わり、次の『放課』がやってくる。

 次は、影浦に話しかけてみようと思った。いかにも引っ込み思案で人見知りと言う感じの影浦には、なかなか向こうから話しかけてくることを期待できない。でも、相手はすぐ後ろの席にいるので、振り向いて話しかけるまでだ。

「やあ、影浦くん」

「あ。か、風岡くん。どうしたかな?」影浦は本を読んでいたようだ。慌てたように本を閉じ、呼びかけに応じた。

「昨日、部活入らないって言ってたけど、習い事とか塾とか、忙しいのかい?」

「いいや、習い事もしていないよ。僕はそんなことができる身分じゃないから」

「そ、そうなのか。身分なんてあるのかな」

「うちは、裕福な環境じゃないから贅沢は言えないんだよ」

「あまり、突っ込んではいけないことなのかな」

「……うん」

「そっか……何かごめんな」

「いや、こうやって僕に話しかけてくれて嬉しいんだ。嬉しいんだよ!? 今までそういう人ってあまりいなかったから。でも、僕と仲良くなった人はきっと後悔させてしまうんだ。僕に幻滅することになる」

「どういうこと? えっと、例えば影浦と一緒にいると、運気が下がるとか、呪われるとか? って、まぁ冗談だけど」

「その程度で済むのなら、むしろ良いくらいですよ。もっと酷い目に遭わせるかもしれないから」

「えっ?」

「そういうことだから。本当にごめんね。本音を言うと、僕も誰かと仲良くなりたいんだけどね……」

 影浦が申し訳なさそうにそう言うと、チャイムが鳴ってしまった。

 風岡は、どこかしらミステリアスな雰囲気の影浦のことがやっぱり気になっていた。詮索せんさくするつもりはないのだが、何かしらの原因で心の扉を閉ざしてしまっているのなら悲しいことだ。「本音を言うと、僕も誰かと仲良くなりたいんだけどね……」という影浦の発言が気になっていたからだ。出席番号が隣であることも何かの縁だし、影浦が困っているのなら協力したい、と風岡は感じていた。

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