第二章 入塾(ニュウジュク)  13 千里

 千里は焦りを感じていた。

 論理を組み立てて解き進める問題は、千里の得意な数学など理数系科目に通ずるものであり、論理パズルに関しても得意なはんちゅうであった。しかし、この問題は明らかに難問であるのは間違いなさそうだ。

「無理よ……こんな問題……」

 思わず小声で呟いていた。どうやら理系EHQのギャラリーたちも同意見のようだ。

 ただ、ギャラリーなんてどうでも良かった。大城優梨がどう感じているかだ。彼女は何やらペンを取って、白紙に書き始めている。相手は、愛知県で最も優秀かもしれない高校一年生なのだ。ノーアイディアで終わることは到底考えられない。


 千里は、小学校一年生の頃母親の五百里いおりが離婚して以来、シングルマザーの一人娘として育てられてきた。千里も、幼少の頃より聡慧そうけいな少女としてもてはやされてきた。しかし母親はさかしい人間だったかというと決してそうではないと思う。あの母親から千里のような優秀な子が生まれるわけないのだ。父親なんてもってのほかだ。だからきっと本当の父親は……

 一方の優梨は遺伝子的にも環境的にも申し分ない。サラブレッドなのだ。そして英才教育に多額の費用が費やされ、なるべくしてなった天才少女なのだ。それだけならまだ許せる。優梨は容姿にも恵まれているのだ。しかもこれまたちょっとどころではない。ファッション雑誌やドラマや映画などで出てきても、まったく遜色のないレベルなのだ。

 優梨には実際幼稚園の年長のとき、シンデレラ役を奪われている。もちろん優梨の意志ではないかもしれない。しかし幼稚園教諭たちをそのように惑わす力を持っていたのは間違いなかった。そして、見事当時の優梨はその大役を演じきった。そして千里は魔女役に降格となった。頭脳で優梨に勝てないだけでなく、見た目の美しさでも敗北を喫したのだ。

 千里の母は、プライドだけは高かった。

 優梨に主役の座を奪われたことを話すと、狂ったように怒りはじめた。もともとヒステリー持ちの母親だが、このときの興奮の度合いは、他の如何なるときよりも凌駕していたと言えよう。

 それから事あるごとに、優梨を引き合いに出すようになった。なぜか母親が優梨をかなり強く意識していることが分かった。

 小学校に入学するときに優梨は引っ越して、地元の小学校ではなくどこか違う小学校へ通うようになった。どこの小学校かまでは千里は分からなかった。

 違う小学校に入学しても千里は成績が良かった。それでも、優梨に対するコンプレックスはずっと続いていた。

 それはテストで満点を取っても、優梨も百点を取るに違いないとか、作文で先生に褒められても、優梨ならもっと文学的な文章を書いていただろうとか、母親が素直に讃えてくれることはなかった。

 千里にとってはしょうけいの的でもあり嫉妬そのものでもあった。優梨に追いつくこと、優梨を超えることが人生の目標であり母に認められる唯一の手段であった。


 成績が良くても決して充足感の得られない日々が続いた。目標である優梨に勝負すら挑めないのだから。公立中学校に入学した千里は、そんな満たされない気持ちからやさぐれてしまい、非行に走ったこともあった。髪の毛を赤く染めたりもした。夜遅くまでで歩いて補導されることもしばしばあった。母はますます千里に愛想を尽かした。成績の良さだけは健在であったが、非行が祟って内申点は低かった。千里はもっと高いレベルの高校に入学するだけの力は充分に持っていたが、内申の悪さが邪魔をして、偏差値が中の上程度の止社高校に落ち着いた。


 しかし、高校入学した矢先の出来事であった。ついに標的ターゲットを確認したのである。『千種進学ゼミ』という名古屋でも有数の予備校だ。何とその広告に、大城優梨が写っているではないか。最後に会ったのは幼稚園の年長のときだ。成長して顔つきは数段美しくなっているが、あのときの優梨の面影を残していた。もちろん、まさかという気持ちではあったが、千種進学ゼミに赴いてみると、掲示板に入塾試験成績優秀者の欄の首席を飾っていた。頭脳明晰っぷりも幼稚園のときと変わらず健在のようだ。在籍高校も滄洋女子高校。選ばれた女子しか入学を許されない愛知県でも名門中の名門だ。

 優梨は、順風満帆に歩みを進めている。もちろん詳細は知らない。彼女も彼女なりに努力をしているのだろう。しかし与えられる選択肢の多さが違いすぎる。途中で道を外れかけてしまった自分とは雲泥の差だと千里は思った。

 千里は母に懇願した。母は、今更予備校なんて行かせられないと、最初は乗り気ではなかったが、大城優梨が在籍していると伝えると、急に入塾を許可してくれた。そこから千里は水を得た魚のように勉強に取り憑かれた。授業態度も至って真面目で、予習、復習も欠かさなかった。元来千里も頭脳明晰であるので、すぐに校内でも成績で名を轟かせるレベルまで躍り出た。それもこれもすべて優梨に近付くためであった。そしていつしか彼女を乗り越えて、母の愛情を受けるためであった。

 そして念願の理系EHQクラスに入ることができた。優梨は千里の顔を見ただけでは幼稚園のときのクラスメイトであることを思い出せなかったようだ。無理もない。髪は赤いし、名前も当時とは変わってしまっている。

 幼稚園のときの名前は『とうせん』である。『伊藤』は離婚した父の苗字である。今は『桃原ももはらさと』と名乗っている。しかし、これは戸籍上の読み方ではない。戸籍上は『桃原とうばるせん』だ。母、五百里が、桃原とうばる姓が母の故郷沖縄のご当地苗字であり、一方の名古屋では馴染みがなくあまりにも難読であるため、『桃原ももはら』と読ませることにしたのだ。同時に『せん』もあまり馴染みがなく、よく間違われる読み方であるので、ついでに『さと』と読ませるようにしたのだ。病院でも仮名『ももはらちさと』という呼び名で呼ばせているようだ。

 理系EHQクラスに入ってどんなに優梨に近付くことができても、追い越すことはできなかった。彼女は鉄壁の首位を守っている。

 止社高校に優梨に勝てるくらいの頭脳の持ち主はもちろんいない。しかし一人、それに匹敵するほどの潜在能力を持っていそうな人物がいた。しかも同じクラスメイトの中に。彼の名は影浦といい、解離性同一性障害という精神疾患患者であった。そして、その荒々しい交代人格に類稀な明晰な頭脳と洞察力を秘めているようだった。千里は生来、人を少し見たり話したりしただけで、その人物の知能レベル、性格などを推し量る能力に長けていた。

 その交代人格の利発さ、知識の深さを自分と共有できれば、と千里は考えた。しかし交代人格の猛々しさゆえ、千里に従ってくれるかがネックであった。そのためには、影浦と仲良くしている風岡という人物がキーパーソンになるのだ。風岡に掛け合って、影浦のサブパーソナリティーとのネゴシエーターになってもらわなければならないのだ。

 予想どおり、影浦は中間考査で素晴らしい成績を上げた。優梨に勝つために影浦の力が必要だと感じた。

 当初は優梨の力を借りようかと思ったが、優梨は同じ滄女の生徒の相手していることが多く、新参者の千里にはあまり見向きしてくれなかった。そこで影浦に本格的に頼ってみようとした。

 しかしながら、風岡は男の友情という綺麗事を掲げてそれを拒否したのだ。よって風岡に制裁を加えた。共犯の西本を利用して、影浦をこちらに引き込もうとしたが、影浦の方がうわだった。残念ながら影浦の力を借りることは叶わなかったが、西本の親の力で、一連の件は不問に付された。


 千里は作戦を変更した。優梨も影浦も協力しないのならば、優梨自身を妨害してやろうと思った。

 電気ショックボールペンに生石灰。まったくもって子供騙し的な嫌がらせだが、時間がタイトな毎週の定期試験ではそれでも少なからず効果的だと思われる。実際、傍から確認すると電気ショックボールペンのときは五分ほどのタイムロスを喰らわせることができたようだ。しかしそれでも優梨は百点満点を獲得していたが。

 そして今日のアルコールの混入。しかしこれが裏目に出てしまった。鞄に盗聴器まで仕掛けて得た情報は、優梨による偽りの情報であり陽動作戦だったのだ。


 しかしこの度、優梨と直接対決する機会が設けられた。しかも一対一。宮田先生の監督のもと、他の理系EHQのクラスメイトをオーディエンスに見守られての、文句なしの正面対決なのだ。

 絶対に負けるわけにはいかない。絶対に負けるわけにはいかない。

 千里は心の中で反復した。

 優梨より一問でも一点でも多く獲得することだけを原動力に、千里の頭脳を稼働させている。立ちはだかるは聞いたこともない超難問の論理パズル。

 千里は食らいついた。紙面上で様々な問いを三人の神に投げかけて、名前を特定する方法を模索していった。

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