第二章 入塾(ニュウジュク) 11 優梨
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あのとき、当直明けの義郎は、母の祥子が近くにいないことを確認しながら口を開いた。
「あれは、まだお父さんが沖縄にいた頃だ。お母さんと知り合う前にある女性とちょっとの間だけ交際していたことがあるんだ」
「そうなんだ? でも別に不思議なことなの? 普通だと思うけど」
「普通だよ。やましいことはない。二股をかけていたわけではないからな。その人もお母さんと一緒でナースなんだけど、結構人当たりのキツい人でな」
「へぇ……お父さんとは正反対だね」
「そう。付き合ったものの、気性の激しさに、お父さんが耐えられなくなって、すぐ別れたんだ」義郎は苦笑した。
「それで、お母さんと付き合ったの?」
「まあね。お母さんとは、結構フィーリングも合ってね。こんなこと優梨に言ったら笑われるかもしれないけど、お互いAB型どうしだから馬が合ったのかもしれない。それに、ああ見えても昔は優しかったんだ。結婚して優梨や純祐が生まれてからは、昔ほど優しくなくなったけどね。あ、お母さんにはくれぐれも内緒にしておいてくれよ」
再び義郎は苦笑した。
優梨が血液型占いをあまり信じていないことを、義郎は知っていた。ちなみに優梨の家族は全員AB型である。
「……分かったよ。で、そのお母さんの前の彼女と何かあったの?」
「ああ。よくある話だけどさ、その人がお父さんのことを諦めきれなかったんだ。もちろんしっかり別れたつもりではあったけど、あの人にとってはそうではなかったかもしれない。しかも虚言癖があってだな。ここからはいささか話しにくいことなんだけど」
「話しにくいこと?」
「ああ、別れてからしばらく経って、お父さんはお母さんと付き合ったんだが、その前の彼女が妊娠したと言ってきたんだ。お父さんとの子をな」
「ええ!?」
「もちろん嘘だ。好きな人を誰かに取られるのを阻止しようとして、虚偽の妊娠をでっちあげるのは
「……そうなの?」
「でも、病院というのはひどく狭い社会だ。トーマス・フラーの名言『嘘には足がない。だがスキャンダルは翼を持っている』とはまさしくこのことで、瞬く間にこの噂は院内に広まっていった。しかも根も葉もない背びれや尾ひれをいっぱいくっつけてな」
「怖いね……何だか女子校みたい」
「ははは。病院は女社会なんだ。そして男性医師と結婚したい看護師は当時たくさんいた」
「で、ひょっとしてお父さんが名古屋に来たのって」
「うん。まあそういうことなんだ。表向きは、私の当時の上司である部長の推薦で、N大学に移ったんだけど、実際はその女性の嫌がらせやストーカー行為から逃れるためにね。お母さんを連れて覚王山に引っ越したんだ」
「ええ!? 何かそれ嫌だな……」優梨は自ずと顔を
「まあ、結果的にN大学で鍛えられて、病院を開業するところまで来られたから、結果オーライなんだけどね」
「そうかもしれないけどさ」
「でもな。どうやらその後の噂で、その前の彼女も後を追って近くに移り住んできたという話だったけど」
「ええ?」
「でも、名古屋は沖縄より都会だ。都会がゆえに人口が多く近所付き合いは希薄なところがある。引っ越して、その元彼女に会うことはなかった」
「へぇ……で、何で『桃原さん』というキーワードでお父さん反応したの?」
「あ、いや。その前の彼女の名前が『トウバルイオリ』なんだ」
「??」優梨は咄嗟には分からなかった。
「漢字で書くとこうだ」
義郎は、近くにあったメモ用紙に鉛筆で『桃原五百里』と書いて優梨に見せた。
「えええ!?」
こんな偶然があるだろうか。
偶然でないとしたら、義郎の前・交際相手の娘が千里ということになる。
そして、千里の苗字は『ももはら』ではなくて『とうばる』になる。『
確かに、沖縄では『桃原』と書いて『とうばる』と読ませる苗字が数多く存在する。父の話が出まかせとは思えない。
いや待て。何で苗字が母の旧姓と同じなのだ。まさか『
優梨の脳内は様々な仮説が飛び交っていたが、結局結論は見出せなかった。
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「あなたは覚王山に住んでいると言った。実は私も幼稚園まで覚王山に住んでいた。そう考えるとあなたとかつて出会った場所というのは、幼稚園時代と考えるしかない」
「ご明察」
「でも分からない。私は記憶力に自信はあるけど、幼稚園のクラスに『ちさと』という名前の女の子はいなかった。苗字は、ひょっとしたら変わることがあるかもしれないけど、通常名前は変わらないじゃない?」
「名前も変えたのよ」
「えっ!?」
「私の本名は『千里』と書いて『せんり』。幼稚園に『
優梨は十年も前の記憶へと
そして優梨が記憶する限り確かに顔立ちが整っていた。異議なく美少女だといえるかもしれない。そして目の前にいる桃原千里も美人だ。同一人物の成長した姿と言われて驚きはしない。ただし、髪の毛の色はとりわけ赤くなかったはず。
「覚えている。でもその髪は?」
「ああ。これね。地毛っていうのは嘘。染めて赤いの。見たことある? ハーフでもクオーターでもないのにこんなに髪の毛明るい人。まぁ、これはやさぐれてた中学生時代の名残なんだけどさ。学校ではこの赤毛が地毛だって信じさせるために、小さな頃の写真を加工して、髪の毛を赤くした写真を持ち歩いてるけどね!」
やっぱりそうだったのか。しかし、この特徴的な髪色は、作戦を実行するための布石だったというのか。
「……それで、何で今になって、私を追っかけてきたの?」
「今になってじゃない。私はずっと追いかけていた。幼稚園のお遊戯で、あなたに主役のシンデレラの役を奪われてからね」
「奪われた?」
ここからは記憶が不確かだ。シンデレラをお遊戯でやったことは何となく覚えているが、奪った覚えはない。
「そう、奪ったのよ。もともと私が主役に立候補したのに、突然幼稚園の先生が、あなたに交代させた。あなたの方が、顔立ちが良くて記憶力も良い。あなたの方が主役に相応しいって言ってね」
「奪っただなんて言いがかりよ」優梨は思わず語気を強めた。
「いいの。もうその件については私気にしてないから。むしろ私のお母さんが怒っちゃってね」
「え?」
「私のお母さんはさっきも言ったとおり一番にこだわる人。だから私から一番を奪った女から、一番を奪い返せってね。そうしたら最上級の賛辞と
「じゃあ、今まで、お母さんから愛されてこなかったの?」
「愛されてきたよ。多くの人よりも高い点数を取った時はね」
「……」
「だから、あなたを頭脳で打ち負かす!」
「私を
「お母さんに褒めてもらえるのなら
「じゃあ、私がわざと間違った答えを書いて低い点数を取っても嬉しい?」
「それはそれでいいさ。欲しいのはあなたよりも上位であるという既成事実のみ」
「はぁ! 何それ!? そんなことのために私巻き込まれてきたの? 今まで悩んできたのに、呆れてしまうわ。本当にバカみたい! だったら正々堂々勝負しましょうよ。悪いけど、私はいつだって真剣勝負だし手を抜かないわ。そしてそんな姑息な手を使わずに実力で勝ってみなさいよ! そして偽りのない真の寵愛とやらを受けてみたらどうよ!」
「偽りのない真の寵愛……」千里はその言葉を
「そうよ。正々堂々の勝負をして勝つからこそ、意味があるんじゃないの?」
「……テストで百点以外取らないあなたにどうやって勝てば良いのよ。今度の統一模試で仮に私が全科目百点満点を取ったとしても、あなたに並ぶことしかできない」
「バカ言わないで! 私、全科目百点なんて取れないわよ」
「こうしましょ!」妙案を思い付いたような様子で千里は声を上げた。「あなたと一対一の対決をするってのはどう?」
「対決? どうやって?」
「宮田先生にあなたでも難儀するような超難問を出題してもらって、それを解くの? 宮田先生は数学の講師。私も大城さんも得意科目で戦うっていうのはどう?」
「妨害工作はなしで?」
「と、当然だよ!」
「私は構わないけど、宮田先生がどう言うか分からないわ」
千里は優梨の発言に触発されたのか。敢えて優梨の得意分野での勝負を挑むとは。正直なところ意図は分からないが、千里の頭脳も非常に高いし優梨といえども侮れない。一般的な滄女生にはなさそうな計算高さも窺える。
「大城さんリーダーなんだから頼めない? それに……」そう言うと千里は階段の下を見下ろしつつ続ける。「二名ほど傍聴者がいるみたいだから」
「え?」
階段の一部吹き抜けになっている隙間から、よく見る生徒の姿を確認した。陽花と日比野だ。
「何やってるの?」優梨はその傍聴者たちに声をかけると、声はエコーを伴って響いた。
「何やってるの、って数学のテスト終わってもう解説の時間なのに、全然戻ってこないんだもん。宮田先生が心配して、アタシたちに見てくるようにお願いされたんだってば」
そう言われれば、本来なら数学の試験の解説の時間であった。休憩時間はとっくに終わっている。特にクラス担任の宮田先生が解説しているのなら心配して当然だ。
今度は日比野が口を開く。
「取りあえず、二人とも大きく取り乱していなさそうで良かったけど、対決するとかどうとか聞こえてきたぞ」
「そう。宮田先生に難問を出してもらうようにお願いして、どちらが解けるか、早く解けるか勝負するの。名案でしょ!」
「名案かどうかは分からん。宮田先生次第だろう」
「そこは、リーダー、副リーダー全員揃ってるんだから何とかしてよ。生徒と先生の架け橋になるのが、リーダー業務でしょ?」
何て調子のいい人なのだろう、と優梨は思わざるを得なかった。しかしながら、確かにリーダーは架橋的役割を担っていて生徒の意見を伝える役目があり、そして優梨自身に断る理由はなかった。受けて立ってやろう、頼んでみようという気に変化しつつあった。
「いいわよ。宮田先生に頼んでみるわ。それでもし引き受けてくれたら受けて立ちましょう。その代わり正々堂々勝負してあなたが負けたら、これから大人しくしていて。嫌がらせはしないこと。あなたが勝ったら、学年一位の私に勝ったという最強の称号を認めてあげる。何ならそのようにあなたのお母さんに証言してあげる。どう? ローリスク、ハイリターン。あなたは勝って得るところは大きいけど、負けても失うものはない勝負に出られる。その代わり私は手加減もしないし、あなたは妨害工作もしないことね」
「分かった」
「いい? 陽花も日比野くんも。
「うん。取りあえずみんな教室に戻ろうよ」
「そ、それもそうだね」
四人は一斉に静かに教室に戻るべく歩みを進めた。
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