第二章 入塾(ニュウジュク)  10 優梨

 もう季節はいよいよ夏真っ盛りという暑さを迎えようとしていた。

 七月の第二週である。

 夏休み入って早々に第二回の校内統一試験が開催されるものの、毎週のスケジュールにも慣れて、他の多くの生徒からは緊張感が失われつつあった。

 ただ優梨だけはそうではなかった。優梨を煩慮させる案件、すなわち千里への措置が片付いていない。


 優梨は結局有効な方法を思い付けなかった。

 解答用紙を前にすれば、向かうところ敵なしの優梨も、人間関係の修復という課題についてはあまり得意ではなかった。

 そして犯人が千里であるという証拠集め。これも正直手がかりなどなかった。千里が電気ショックのボールペンへと改造したり、生石灰を持ち込んだりした形跡をどうやって見つければ良いのか。日本の消防法に指定される危険物に現在は指定されていない生石灰は、比較的簡単に手に入りそうだ。一人の高校一年生が調査するには限界がある。

 ではどうするか。苦肉の策で罠を張ってみることにした。

 子供騙しだとは思っても、このまま手をこまねいて見ていることはできない。

 未だに千里は優梨の成績を超えることはできていない。それならばまた新たな妨害工作を考えているかもしれない。


 月曜日の予備校の日。

 優梨は鞄を手に抱えながら教室内で突然おかしな会話を切り出した。教室内には女子生徒が多くたむろしているが千里の姿はない。

「ねえ、陽花のお父さんってお酒強い?」

「へ? まあ家で晩酌してるからそれなりには飲めると思うけど。急に何?」

「お母さんはどう??」

「お母さんも、親戚で集まったときとかは結構飲んでるよ」

「お酒飲んで赤くなる?」

「いや、顔色も変わらないね。二人とも」

「じゃあ、きっと陽花も強いよね。アセトアルデヒド脱水素酵素の遺伝子を両親とも持っていれば、きっと陽花はGGタイプね」

「GGタイプ?」

「お酒飲める口ってことよ。赤堀さんはどう?」

 不意に話をふられた赤堀美樹は狼狽うろたえた。

「わ、私? うちは両親とも下戸だよ。だから私もたぶん飲めないな」

「じゃあ赤堀さんはAAだ。飲めないタイプだね」

「大城さんはどうなの??」今度は美樹が質問する。

「私なんか両親は比較的飲めると思ってたのに、こないだはじめてお酒を飲んじゃって。オレンジジュースだと思って飲んだらスクリュードライバーだったんだけど、飲んでしばらくしたら気を失いかけちゃって……」

「あれ、優梨って……」

 優梨はすかさず、人差し指を立てて陽花にアイコンタクトを送りつつ、話を続けた。

「本当危ないね。アナフィラキシーショックかもしれない。しかも私、味覚音痴だから普通にオレンジジュースだと思って勘違いして飲んでたし」

「マジで!? それは危険だね! 優梨が死んじゃったら嫌だよう」陽花の口調は急にわざとらしくなった。

「じゃあ、私と一緒だね」

 そんな会話をしながら、優梨は自分の鞄の方へと意識を集中させた。


 その週の土曜日。夏真っ盛りを迎えようとして外の気温は非常に高い日が続いていた。ここ最近、優梨はどこにでも見かけるようなシルバーのシンプルなデザインの細長い円柱状の水筒を持ってきていた。ただよく見かけるタイプの水筒で、他の人のと間違いやすいので、底面に『Y.O.』とイニシャルを彫ってある。中には烏龍茶を入れている。

 優梨は、最初の理科のテストと講義が終わり、次の数学のテストまでの十五分間の休憩のうち最後の三分間を利用してトイレに立ったをした。

 千里は行動に出るだろうか。

 すると、今度は前回とは異なり赤毛の女子生徒が、優梨の机と向かってこっそりと鞄の中を探り始めた。千里だ。

 優梨は忍ばせていたスマートフォンをカメラモードにし、鮮明に映る最大限のズームにして、千里の行動を録画した。

 あとは、時間ギリギリになって何食わぬ顔で教室に戻る。

 そして水筒のお茶を一杯飲み干す。底面には何も彫られていない。

 ウーロンハイだ。アルコール度数を強めに割られているようだ。


 やはり千里は仕掛けてきた。

 そして休憩時間がわずかだったがために彼女は赤毛のまま行動を起こした。そう、彼女の赤毛は地毛ではない。ウィッグなのだ。本物の毛色は純粋な黒であり、何か行動を起こす時はウィッグを外して黒髪にしていたのだ。

 人は目につく形質は記憶しているものである、犯人らしき姿を目撃していても、少なくても赤毛ではなかったという証言が得られれば、千里は自分が犯人ではないと言い逃れができる。彼女はその人間の心理を利用していた。

 そして彼女の行動からもう一つ分かったことがある。優梨の鞄の中に盗聴器を忍ばせていたのだ。

 盗聴器を疑った理由は一つ。電気ショックのペンにすり替えられた後の陽花との会話だ。優梨は嘘をついて、皮膚がかぶれやすいと言った。そのとき、千里は教室内にいなかった。

 そして翌週のテストで用いられた妨害工作が、消しゴムを生石灰にすり替えるという、皮膚に損傷を加える手法だ。千里が教室外にいながら、その内容を知っていたのなら、誰かから聞いたか盗聴器のどちらかだ。

 後者を除外しようと、念のために鞄を調べたら、中敷きの下に仕掛けられていたのだ。だから、今回敢えて盗聴器に茶番を仕込んで、千里をあぶり出す手法をとった。


 すり替えられた水筒のウーロンハイを飲んで、千里はどう思っただろうか。なぜ、酩酊めいてい状態にならないのだ、とでも思っているかもしれない。

 そう、優梨が下戸だとかアルコールでアナフィラキシーショックに陥るとか、すべてたらである。おそらく酒豪と言って良いほど、アルコールへの耐性が強い。もちろん未成年の飲酒は禁じられているが、たまに父の洋酒を内緒で失敬していたりする。そのとき顔色はまったくと言って変化しない。そして両親も酒に強い。間違いなくアセトアルデヒド脱水素酵素の遺伝子多型で言えば、『GG』と呼ばれる、最も酒に強いタイプだ。両親が沖縄出身であり、もともと酒豪の多い土地柄でもあるのだ。

 数学の問題を難なく解き終えたあと、千里が教室を出ないうちに、机に駆け寄った。そして案の定、彼女は鞄を持って外へ出ようとしていた。

「それを持って外に出てくれる?」

 優梨は、千里の鞄を持つ腕に手をかけながら、炯眼けいがんを射た。

 千里は悔しそうに口元を歪ませながら、優梨を睨み返した。


 優梨と千里はひとの少ない階段の踊場へと向かった。

「私が何をやったって言うの?」あくまでも千里は知らないと、シラを切った。

「あなたはお酒入りの水筒にすり替えた。底面にイニシャルが彫ってある水筒をあなたが持っているのが証拠よ」そして優梨は、ギリギリの理性を振り絞って冷静な対応で詰問した。

「それが何で私なの? 誰かが故意に私の鞄に入れたかもしれないじゃない」

「失礼ながらあなたの犯行の一部始終をビデオカメラに収めています」

 優梨は冷静な対応に徹するあまり、今度は敬語になってしまっていた。千里は顔をしかめる。

「その、大城さんの今持っている水筒の中身がアルコールである証拠はあるの?」

 何と往生際の悪い。だが、優梨にはそれも想定の範囲内であった。

 優梨は別の小さな袋を忍ばせていた。中から出てきたのはビーカーと試験管二本、水の入ったペットボトルと白い粉末の入った袋とマドラーだ。

「何?」千里は怪訝な表情を見せる。

「試験管の中で雪を降らす方法って知ってる?」

「何? 知らないって!」千里は苛立たしげに話す。

「塩化ナトリウムが30度の水100ミリリットルの最大限溶解できる量、つまり溶解度は36.09グラム。この粉末は36グラムの食塩、そしてこの水は100ミリリットルの蒸留水。これで飽和食塩水を作ります。それを試験管二本に取り分け、一方にあなたが今持っている水筒のお茶、他方に私が持っているアルコールが入っているであろう水筒のお茶を入れる。そのとき、アルコールの方では試験管内で雪が降る。つまり、この方法でアルコールか否かを簡単に判断できる」

「……」

「原理は簡単。塩化ナトリウムは水の中でエントロピーの増大が起こるため、解離してナトリウムイオンと塩化物イオンに別れる。正に荷電しているナトリウムイオンは水の中の酸素原子と、負に荷電している塩化物イオンは水素原子と親和性が高い。これを水和と言い、溶解という現象が成立する。一方で、エタノールは極性分子で、分子内でヒドロキシ基が優勢であるため、同じく極性分子である水には非常に良く溶解する。塩化ナトリウムよりも水との親和性が高いので、水に溶け切れなくなった塩化ナトリウムがせきしゅつして雪のように見える」優梨は早口で説明した。

「これを今ここでやるっていうこと?」

「そう。それでも桃原さんが納得いかないなら、私がこの強いウーロンハイを飲んで、呼気を吹きかけてアルコール検知器に判定させるのも手だわ。でも、当然未成年だし、こんなことをやってるとバレたら、私もあなたも終わりだわ。バレないのを覚悟で試してみる価値はあるかしら?」

 千里は目を閉じた。そして五秒ほど経過した後、ぼそりと言った。

「降参です……」

 ようやくその言葉を言わしめた。

 賭けだった。飽和食塩水にウーロンハイを入れてもおそらく食塩は析出しない。優梨は実験によって確かめたわけではないが、ウーロンハイは無論純粋なアルコールではない。大部分はノンアルコールで構成されているはずだ。理論的には、飽和食塩水に加えたところで、食塩から水分子を引き剥がすことはできない。析出するのは無水アルコールのときだろう。

 優梨は、持ち前の化学の蘊蓄うんちくをよどみなく羅列して、できるだけ信憑性を持たせることによって、千里を諦めさせようとした。もし本当に実験を要求してきたら、実験失敗に終わり、千里を白状させるところまで到達できなかったかもしれない。

「何でなの!? 何で、私の試験の妨害をするの?」

「……」千里は口をつぐんだままだ。

「盗聴器まで仕掛けてさ。もし本当に私がアルコールでアナフィラキシーショックを起こしてたらどうするつもりだったの!? あなたの質問を断ったことは、命を狙われるほどの恨みなの?」

「そんなことない。大城さんは私の憧れであり、目標なんだから」

「じゃあ何で?」

「私は大城さんを超えなきゃいけない。それが使命であり生き甲斐なの」

「何よそれ?」

「どんなことでもいい。一番を取りなさいと言われて育てられてきた。一番じゃなきゃいけない。二番じゃ意味がないって。私は頭が良かった。我ながら機転も利くし、勘も鋭いと思う。もちろんあなたほどじゃないけどね。実は大城さんと私、全然初対面じゃないの。気付いてた??」

「……」優梨の目はじっと千里を見据えていた。

「ひょっとしてそれも勘付かれていたかな。私はその時と名前が違うのによく分かったね」

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