第二章 入塾(ニュウジュク)  9 優梨

 その次から、千里は優梨に何も言ってこなかった。

 千里が理系EHQクラスに移る前のように、しばらくの間優梨は自分の勉強に専念することができた。

 しかし、あくまでもだけであった。


 千種進学ゼミでは毎週テストが行われる。優梨も陽花も土曜日にそのテストを受けているのだが、先日の千里とのいさかいから、二週間ほど経った土曜日のことであった。

 テスト一科目目の理科(優梨の場合は化学と生物)が終わり、二科目目の数学がスタートする時のことであった。

 先ほどまで使用していたシャープペンシルのノックカバーを押すと、ビリビリと電撃が走った。

「キャッ!」と、小声で叫ぶとペンをテーブルに落とした。明らかに静電気のような弱い衝撃ではない。よく見るとシャープペンシルではなく、同形のボールペンのようだ。改造ボールペンにすり替えられているようだ。慌ててペンケースから予備のシャープペンシルを探す。しかしどういうわけだかそれが見付からない。あるのは消しゴムとシャープペンの替芯だけだ。おかしい。いつも床に落としてしまったとき用にスペアのペンを入れていたはずなのに。

 優梨はすかさず試験官を呼ぼうと挙手した。千種進学ゼミのテストは、概して解答時間に対して問題が多い。時間がタイトなのだ。ゆっくりしてはいられない。

 周りの生徒は、優梨の衝撃に気付いただろうか。隣の生徒には気付かれたかもしれない。できればあまり表沙汰にしたくない。優梨は結構、体裁を気にするタイプだ。不必要に自分に対するネガティブな噂が流れるのは嫌だった。

 改造された電気ショックペンを故意に床に落として、優梨が誤って床に落としたことにした。限られた試験中に事実を説明するのも億劫だった。それよりも、慌てふためく方が、すり替えた犯人(おそらく千里だろう)の思惑どおりになるような気がした。

 すぐに替えのシャープペンを持ってきてくれたが、それでも四〜五分程度のビハインドを余儀なくされた。解答時間は長くない。数学にはめっぽう強い優梨ですら全問題を解答して、しっかり検算しようと思うと、時間を目一杯消費する。


 いつもよりスピードを増して解答した上に、思いがけない妨害工作に遭遇し焦りも伴ってしまったが、幸いにして優梨にとっての『難問』はなかった。

 解答時間の後に解説があるのだが、おそらくミスはないはずだ。得意科目の数学は大抵いつも満点だ。毎週の試験の結果そのものは、貼り出されはしないものの、担当の数学講師の宮田先生は、いつも優秀な点数を取った生徒を口頭で表彰する。その結果を聞いた犯人は、おそらく歯噛みするであろう。妨害されても、それで自分の成績を落としてはならないと、強い使命感と強靭な精神力を優梨は持っていた。


 しかし、これは手の混んだ妨害工作である。

 優梨の使用していたシャープペンシルは同じデザインのボールペンも販売されている。おそらくそのボールペンを購入し、分解して改造したのだろう。ノックカバーを押すと圧電素子に衝撃が加わり電気エネルギーが発生するメカニズムと思われる。ちょうど電子式ライターと同じ機序である。いや、むしろ電子式ライターの圧電素子を取り出して改造したのかもしれない。

 電子式ライターは簡単に手に入るし、いざその気になれば改造自体は困難ではないだろうが、わざわざ優梨の使用しているペンを調べて購入して、それに圧電素子が入るかは実際にやってみなければ分からない。妨害工作のアイディア、材料の購入、工作の労力、そして実際に電気エネルギーが流れるかの検証、最後に優梨のペンケースからシャープペンシル類をすべて抜き取り自作の改造ボールペンにすり替える手間。これだけのステップを踏んで、たった一回の電気刺激とたった五分ほどのアドバンテージを得ることに、一体何のメリットがあるのだろうか。

 もっとシンプルにペンケースを隠すとか、シャープペンシルの芯を折るとか、簡単な嫌がらせの方法はいくらでもあるだろうに。ここまでの手間を惜しまないことに、犯人の狂気を感じた。

 そしてそこまでの労力を費やしているのなら、きっと簡単に尻尾を掴ませるような証拠を残してはいないだろう。


 その後、電撃の走った右手の親指を気にしていると、陽花が近寄ってきた。教室内には千里はいないようだ。

「優梨、親指がどうかしたの?」

 陽花にも、今は妨害工作については隠しておこうと思った。陽花は優梨よりも感情的である。このことを今打ち明けたら、千里を捕まえて殴り掛かってしまうかもしれない。

「ううん。取り替えてもらったペンのゴムが皮膚に合わなかったのかな? 私、皮膚がかぶれやすいんだよね」

「それは、いかんね。私のシャーペン、金属製だけど、良かったら貸すよ」

「ありがとう」

 適当に嘘をついて誤魔化した陽花に、少々の罪悪感を感じながら、ありがたくシャープペンシルを受け取った。


 七月を迎え、優梨は十六歳になった。

 電気ショックボールペンの妨害工作のあった翌週のテストでは、あらかじめ予備のペンケースを用意しておいた。

 先週の数学の試験結果は、優梨の自己採点のとおり百点満点を獲得した。宮田先生から口頭で成績を表彰されたとき、犯人であると思われる千里はどういう気持ちだっただろうか。千里は九十点であったそうで同じく優秀者として表彰されていたが、たぶん悔しかったに違いない。表情こそ変えてはいなかったが。

 もし彼女が、私に点数で勝つことが目的なら、また同じく妨害工作をしてくると思われる。他人を蹴落として勝つとは、いかにも卑怯な手だが、優梨自身が満点を獲得するうちはことはできない。勝つためには最低でも優梨が九十九点以下を取ることが条件なので、そう言う意味ではこういった卑劣な工作も必要なのかもしれない。


 休憩時間にトイレに立つフリをして、遠くから何気なく様子を伺ってみる。ある女子生徒が優梨の机の前を横切った。その横切るときに何か不審な動作があった。

 しかしあくまでわずかな時間の出来事である。かなりさり気ない動きであった。そして横切った後、ペンケースの位置がわずかに変化した。

 まさか、ペンケースごと取り替えたのだろうか。もう一つ気になったのは、その女子生徒が千里っぽくなかったことだ。いや、背格好は似ているのだが、いちばんの特徴である赤い髪ではなく、黒髪であったことだ。

 とりあえず机に戻ってみる。その女子生徒は姿をくらませたのか、教室内にはいない。ペンケースを改めると、同じ商品ではあるが真新しい。やはりペンケースを取り替えたのだ。中身はどうだ。シャープペンシル類は予備のも含めてすべて揃っている。ノックカバーを押してもビリビリとした衝撃はない。芯を折られたりもしていない。今回はペンに工作はされていないようだが、わざわざこれらも調べて同じものを買ったのだろうか。犯人の執念を感じる。

 では何が違うのか。よく覗いてみると、消しゴムが微妙に違う。色は白いのだが触ってみると硬い。するとそのとき、指に熱を感じた。不意に優梨の頭にさまざまな可能性がよぎる。そして、すぐにトイレに駆け込んで指を時間いっぱいまで洗浄した。幸い対処が早かったからか、指には火傷やけどを負ってはいなさそうだ。

 正体はおそらく酸化カルシウムだ。いわゆる生石灰のことだが、水分と反応して高熱を発生し、消石灰へと変化する性質を持つ。アルカリで腐蝕性を有し、手で触れると皮膚の水分とも反応し熱を出し、ひどければ熱傷を負うこともある。

 アルカリ性とは言ってもちょうかいせいを有するような水酸化ナトリウムなどではベタベタに濡れてしまう。比較的簡単に手に入れられる点からも考えて、おそらく生石灰で間違いないだろう。


 優梨はもう看過できなかった。

 先週の電気ショックだけであれば見て見ぬ振りをしようと思った。一瞬ビリビリと衝撃が走るだけで、後遺症はない。しかし今回は、消しゴムとすり替えられていたものが生石灰だと気付かず水洗せずに放置すると、化学熱傷のため皮膚の発赤、疼痛、水疱形成などを来す可能性だってある。

 これは傷害罪に値する行為と言っても過言ではないだろう。利き手の指の損傷で、ペンが握れなくなったらどうするつもりか。優梨は決意した。

「犯人をあぶり出してやる」

 そう小声で呟いていた。


 ただ、優梨の中では確信を持っていた。誰が犯人であるのかということを。

 桃原千里に決まっている。しかし確信は持っていても証拠はない。

 優梨の腹の虫の状況からすれば、いますぐ千里を捕まえて、詰問きつもんしても良いくらいであった。

 ところが、優梨にはそれを踏みとどまらせる理由があった。


 先日、陽花、日比野と三人で、電車で帰った日、日比野と優梨が先に栄で下車して、乗り換えて地下鉄名城線で帰宅する時の会話だ。二人は栄駅から四駅先の金山駅まで一緒になるのだ。

「なあ、大城さん、唐突だけど精神科疾患について造詣ぞうけいは深い?」

 日比野は至って真剣な面持ちで尋ねてきた。

「いや、うちはお父さんが医者だけど、私はまだ医学部に決めているわけじゃないし。ましてやお父さんの専門とは畑違いの精神科についてはどんな病気があるかすらよく知らないわ」

「そっか……」日比野はちょっと意外そうな顔つきになる。

「それがどうかしたの?」

「桃原さんだけどな。あの子には感情的に接してはいけない」

「えっ?」優梨は思わず疑問形になってしまった。

「イライラする気持ちは分かる。実は俺も、大城さんが手が離せないからって桃原さんから質問を受けたことがあったけどな。そのときにも感じた。あの子は、常に孤独との恐怖を感じながら生きているんだと思う。周りの人間を振り回して困らせて疲れさせるのも、見捨てられる不安の裏返しなんだと思う。わざと邪険な態度を取って相手を試していると思うんだ。だからこそ冷静に対応しなければならないと思う。あの子をフォローするつもりはないが、まずは受け入れ、感情的に否定したりしない方が、桃原さんのためになると、そんな気がするんだ」

「何でそんなこと言えるの?」優梨は若干苛立ちながら訊いた。

「何でそんなこと言えるの、と訊かれると困るけどな。でも何となくだが、性格が悪いとかじゃなくて、何かしらの病気が隠れているような気配を感じる。だからこそあの子をムキに否定してしまっていはいけない。思うところがあっても受け入れなきゃいけないんだ。桃原さんを助けるために」

「でも私たちにそんな義理ないと思うわ。私たちだって、予備校の講義を享受する権利がある!」

「義理がないと言われればそれまでだ。それはそれで良いと思う。大城さんの考えを尊重しよう。でも俺たちはリーダー、副リーダーだ。まがりなりにもな。クラスを取りまとめて、講義についていけない生徒を見つけて、少しでも志望校に通るための架け橋にならなきゃいけないんだ。そしてその大役に足るだけの優秀な能力を買われたのが、大城さんであり、そんなリーダーをサポートするのが河原さんであり、俺だ。それを忘れないで欲しい」

「そんなこと……」

「こんなこと言っても困らせるだけだと思うけど、俺は理系EHQクラスの副リーダーという役に誇りを持っているし、任務を全うする責務があると思っている。大城さんは大城さんの考えで動けば良い。でも周囲からはリーダーと言う役職がどのように思われているか。俺みたいな考えの奴もいるかもしれないから、それだけは頭の片隅に入れといた方が良いと思う」

「……」

「あくまでも俺からの忠告であって命令ではないから勘違いしないでな。俺は大城さんや河原さんに、考えを押し付けていい立場ではないからな。よく考えておいてくれ」

 そのような会話を続けているうちに電車は金山駅に到着した。この電車は名城線左回りだ。名港線、つまり名古屋港駅方面には向かわないので、「じゃあな」と手を挙げて、日比野は電車を降りていった。


 そのとき日比野と言う男のリーダー職への向き合い方に、優梨は考えさせられた。日比野は、淡々と言われたことをこなしているだけでは決してなく、そこまで深く考えていたのだ。寡黙で人付き合いの苦手そうなイメージを持っていただけに非常に驚いた。最初に出会ったときとの印象とは大いに異なる。

 優梨も普段は温厚で明朗だが、理不尽な被害を被ったり要求を押し付けられたりすれば、怒ることはある。そのときは自分でも信じられないくらい冷静さが吹っ飛び、感情が表に出てしまう。そこはまだ、所詮は高校一年生で、理性が大人になりきれていないのだろう。

 今回の一連の妨害工作も、感情論だけで言えば、充分怒りを爆発させて然るケースだ。しかし、日比野の発言が踏みとどまらせている。引金トリガーの安全装置になっているのだ。

 感情的に千里を犯人に決めつけるのではなく、ちゃんとした証拠を提示してからだ。できれば、エスカレートしてこれ以上の被害が出る前に、何とかしたい。


 事前に生石灰の罠に気付いた優梨は、問題なくテストに望むことができたが、テスト後の解説では終始、作戦を考えていた。千里の犯行を暴いた上で、最小限の被害かつ最大限の平和的解決を図るかだ。

 優梨にしては珍しく講義の内容は耳に入っておらず、また帰宅時の陽花との会話も上の空だった。


 帰宅すると父、義郎がいた。義郎が夕方の早い時間に家に居ることはあまりない。

「ただいま、お父さん。今日は早いね」

「ああ、今日は当直明けだからな」

 優梨の病院は24時間365日の救急体制を整えており、ゆえに当直も存在する。義郎自身も院長でありながらそのローテーションに参加し、他のドクターとほぼ同等のルーティンワークをこなしている。これは大城病院が設立された十二年前、まだ優梨は当時四歳であったが、そのときから継続していることらしい。義郎いわく「初心を忘れず」という自分へのいましめなのだとか。設立当時は覚王山に住んでいたので、職場のある港区からは遠かった。六歳になって、優梨が小学校入学、ちなみに三歳年下の弟のじゅんすけの幼稚園入園を機に、港区から比較的近い熱田区に引っ越したという。

 昨晩は当直で病院に泊まったため、今日は早く帰宅したのだ。

「どうだ? 千種進学ゼミは?」

 義郎は唐突に訊いてきた。いま優梨にとってのいちばんの懸案事項であるため、思わずビクッと身体を震わせ狼狽した。

「えっと、まあ順調だよ」

「その割に顔がっているな。何かあったんだな」

 父は優梨の表情の変化を見逃さなかった。

「鋭いね。お父さん」

「だって、お前の父親だからな。大丈夫そうなのか?」

「うん、大丈夫、そんなに大したことじゃないから」

「そうか」と、言って深入りしてこなかった。「そういえば千種進学ゼミの広告の出来は見事だな。やっぱりプロのカメラマンを雇っているのかな」

 義郎は唐突に話題を変えてきた。

「何? 突然」

「あれ、だってお前が前面に載っているじゃないか?」

「はい?」

「見ていないのか」

 そう言うと、義郎は手元にあったタブレット端末を操作し、検索エンジンから千種進学ゼミのトップページの広告画像を表示させた。そこには、とある講義風景を写した生徒の写真がアップされていた。そしてその中央のいちばん大きく写っているのは、紛れもなく優梨であった。そう言えばごく最初の講義中あたりでカメラマンが来ていたような気がしたが、講義内容に集中しており気に留めていなかった。

「何これ? 私じゃん!」

「おい、知らなかったのか?」

「知らないよ! なんでお父さんが知ってるの?」

「だって、予備校から電話かかってきたんだ。ご息女の写真を広告に使わせて欲しいって。別に断る理由がなかったから良いですよって言ったけど」

「ええ!?」

「お前には話はいってなかったのか?」

「いってないよー!」

 優梨はそんな広告の存在を知らなかった。優梨をはじめとして電車で通塾する多くの生徒は、千種駅の歩道橋からひと続きになっている千種進学ゼミの二階から建物内に入る。よって予備校の正門は通らず、また幸か不幸か建物内の比較的近くに普段使う教室や教職員室があった。

 おそらく予備校内のどこかにその広告があると思うのだが、入塾して今に至るまで、その広告を目にする機会がなかった。そして話題に出なかったということで、たぶん陽花や日比野もその広告の存在を知らない。

 ふと優梨はある可能性を思い付いた。

「あの、お父さん? この広告っていつから掲示されてるの?」

「かなり早い時期だよ。許可を求める電話が四月の上旬で、四月の中旬にはその広告が掲示されていたような気がする」

 千里の入塾理由を、今年の広告を見て希望した、と宮田先生が口走っていた。もしそれが、優梨の写真を見て、自分に接触を図るために入塾したのなら、最初から目当ては優梨自身だったということになる。

「じゃあ、桃原さん、それを見て……」

 優梨は独り言のように呟いたキーワードを、義郎は聞き逃さなかった。

「優梨、今、何て言った?」

「え? 今?」

「そうだよ。桃原ももはらさんって言った?」

「言ったけど、お父さん、知ってるの?」

「いや、何でもないが」と言う義郎の姿は明らかに狼狽していた。

「嘘! 絶対何か知ってるでしょ!?」優梨は語気を少し強める。

「……その子、本当に桃原ももはらさんって言うのか?」

「どういうこと? 私は桃原さんって聞いてるけど」

「その子は、この辺の子か? 出身は」

「名古屋って聞いた。えっと、覚王山かな? あっ!」

 そう言って、優梨自身の口走ったフレーズに偶然を感じた。覚王山と言えば、自分自身も小学校の入学まで住んでいた場所ではないか。

「お父さん、何か関わりがあるのね? 実は、予備校でいま問題になってるのは、その子に関することなの。差し障りのない範囲で良いから教えて」

 義郎は渋い顔を見せて、他の家族がいないことを確認してゆっくりと話し始めた。

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