第二章 入塾(ニュウジュク)  8 陽花

 宮田先生のところに少し遅れて、三人はアンケートを提出しに言った。まだ腹の虫がおさまらない陽花は、どんなに千里の悪言を宮田先生に言いつけてやろうかと思ったが、日比野が「それだけは止めた方が良い」と断固反対した。そのように言われて陽花の怒りと苛立ちが冷めることは決してなかったが、日比野の意見に従った。日比野の外見は地味でお世辞にも魅力的とは言えないが、自分では確証や裏付けがないと言ってはいるものの、彼の発言にはなぜか他人を納得させるような力があった。

 教職員室を辞去したあと、日比野は優梨と陽花に別れを告げて帰ろうとした。ふと、日比野がどこに住んでいるのか気になった。朴訥な日比野は滅多に自分を語ることがないので、リーダー業を共にしていながら知らなかったのだ。

「あの、日比野くんって、どこに住んでるの?」と陽花が問うた。

「そうそう、どこなのか私も知らないな」

 そう言われると優梨も気になってしまったらしい。

「あ、俺かい?」とちょっと戸惑ったように日比野は振り向くと、どこか照れくさそうに笑っていた。

「何で笑ってるの?」陽花は、ほとんど笑わない日比野が、ちょっとも面白くない質問で面映おもはゆい表情を見せている状況が飲み込めなかった。

「あ、いや……」

「そんな戸惑うことかな?」

「いや……その、日比野ひびのなんだ」

「ん??」陽花は怪訝な表情を見せる。何故に自分の名前を唱えているのか。

「いや、だから、あるじゃないか。名港線めいこうせんの日比野。金山の次の駅」

「あ、あーあー、あーあー!」優梨は子供のような返事をした。

「あ、確かにあるね! 日比野駅。中央卸売市場とか名古屋国際会議場とか近くにあるところだっけ? 日比野に住んでる日比野くんなんだ!」陽花もようやく合点がいった。

「そういうわけなんだ」

「あはは。なるほどねっ!」陽花は、日比野が照れ笑いした理由について理解したと同時に、無愛想で少し取っ付きにくかった彼にちょっと親近感を覚えた。

 そして、陽花はある可能性に気が付いた。

「ってことは、あれ? 優梨ってあつ神宮じんぐうのあたりだよね?」

「うん、名鉄だと神宮前で地下鉄だと伝馬町が最寄りになるかな」

「じゃあ、近いよね? ひょっとして?」

 同じ小学校のことを『おなしょう』と略すことがある。余談だがこれはどうやら名古屋弁らしい。

ではない。ちょっと離れているからな。実際、この予備校ではじめて大城さんに会ったから。でも中学校の学区はたぶん一緒だよね? 俺は白鳥中学校出身なんだけど、伝馬町の方から通っている人もいたから。大城さんが滄女じゃなかったらの同級生になっていたはず」

 説明するまでもないが、『おなちゅう』は同じ中学校の意である。

「あれ? 日比野くんって銅海じゃないの?」今度は優梨が尋ねた。

「俺は銅海高校だけど、銅海中学出身ではない。高校から入ったんだよ」

 銅海中学・高校は県下でもトップクラスの成績を誇る男子校の私立学園だ。滄女と同じように名門の中高一貫校ではあるが、異なるのは、一部高校からも入学できることだった。ただし、高校からの入学は、中学からの入学よりずっと定員が少なく狭き門だという噂を聞いたことがある。

「そうなんだ! でもまさかそんなにご近所だったとはね」と優梨は言った。

「俺もちょっと驚いたよ」

「それならせっかくだし三人で帰ろうか。栄までは一緒みたいだし」と優梨が提案すると、どこか日比野はバツが悪そうな態度を見せた。あまり異性と一緒に帰宅する機会がないのかもしれない。もちろんそれは陽花たちにも言えることなのだが。


「日比野くんって志望校決まってるの?」

 そう言えば、こんな定番なことも訊いたことがないな、と陽花は感じながら尋ねてみた。

「一応な。地元だしN大学の医学部を目指しているけどな。お二人さんは?」

「やっぱり、さすがは銅海だね。アタシはどこかの理系の大学に入りたいけどまだはっきり決めてはいない」と陽花が答える。

「実は私もまだはっきり決めていないんだ」優梨も同じく答えた。

「それは意外だな。二人とも優秀だし、てっきり医学部を狙ってると思い込んでいた。しかも大城さんって、俺の推測だけど親父さんはお医者さんだろう?」

「よくご存知で……」

「大城医療総合センターっていう大きな病院があるから、ひょっとしたらと思ってさ」

「ご明察です」

「だから、医学部かと思っていた。あ、勝手に予想してごめん。親が医者だから、子供も医学部志望とは限らないもんな。大城さんの成績なら、東大でも楽々合格できるだろうし」

「いや、そんなことないよ……」と優梨は謙遜する。陽花からすれば、優梨の頭脳ならハーバードでもMITでも入れそうな気がするが。

「ところで、大城医療総合センターってことは、親父さんが院長先生なのか?」

「そうよ。日比野くんもなかなか勘が良いよね」

「そんなことはないと思うけど……いや、あの『大城』って苗字って、名古屋じゃそこまでじゃないと思うんだよね。沖縄に多い苗字だって聞いたことがあるけど。沖縄って『〜城』っていう名前多いってね」

「よく知ってるね。私の父は沖縄出身だわ」

「そうなんだ!」陽花は初耳だった。父親の出身地の話題をしたことがなかったと言えばそれまでだが、友達歴四年目で親友とも言える陽花より、真剣に今はじめて喋ったような日比野の方が、優梨のことを見抜いている。じくたる思いであるとともに、優梨の言うように彼の洞察力に舌を巻いた。

「親父さんの出身大学が名古屋の方なのか」

「ううん。父はK大出身なんだ。それまで父は沖縄か福岡だけで、名古屋は医師になってしばらく経ってから、はじめて来たみたい。名古屋で私が生まれて小学校に入るまではN大学で勤めてたんだけどね。そのときは伝馬町じゃなくて、千種区の覚王山かくおうざんとか池下いけしたあたりに住んでたんだけどね」

「そうなんだ。親父さんは何科の先生なの?」

「以前は整形外科。今は救急科よ」

「それはすごいな。確かに大城医療総合センターって、救急車もよく受け入れているみたいだし、ヘリポートもあるんだっけ?」

「よく知ってるなぁ」優梨が感心する。

「まぁ、俺も地元民だから」と、日比野は再び照れ笑いする。

「日比野くんは医者になったら何科に進もうとしているの?」今度は陽花が質問する。

「いや、まだそこまでしっかり決めてはいないけどな。でも、強いて言うなら精神科とかは興味ある」

 意外に思った。今でこそよく話してくれているが、どちらかと言うと寡黙で無表情な日比野だ。精神科と言えば、特に患者としっかり話をして信頼関係を構築しなければならないイメージなのだが。ちょっと想像がつかない。

「へぇー、すごいね。はじめから精神科志望って少数派じゃない? どっちかと言うとやっぱり内科、外科が多数派だと思うけど。昔っから精神科志望なの?」陽花が目を丸くして質問した。

「いや、精神科について興味を持ったのは本当にごく最近だよ」

「何で精神科なの?」

「そんな大したことじゃない。たまたまの友達と電話した時にな、最近、同級生で精神疾患の診断を受けていて、友人代表で精神科の先生から指示を仰いでいるって、言っていたんだ。どういう病気かはプライバシーに関わるって口を割らなかったけど。それでこの間図書館に行って、精神疾患の一般向けの本を読んだら、興味が湧いたんだ」と、日比野は言った後、苦笑いしながら「ここ二週間くらいの話だけどな」と付け加えた。

「そんな最近かい!」陽花は思わずツッコミを入れた。

「だから、大したことじゃないって言っただろ? 心変わりするかもしれんしな」

 そうこうしているうちに、栄駅に近付いていた。ここで優梨と日比野は降りて、名城線に乗り換えることになる。

「そうなんだ。じゃあ大学受験に向けてお互い頑張らないとね。日比野くん、優梨の次に優秀だから、浪人することなく夢は叶うだろうけど」

「いや、そんなこと分からないよ。受験は水物だからな」

「あはっ。そうだよね。まぁ取りあえずは、アタシがEHQクラスにいられるうちは、よろしくね」

「ありがとう。こちらこそよろしくな」

「じゃあねー、陽花また明日ね」

 優梨と日比野は陽花に手を振って栄駅で下車した。


 二人が下車した後に気付いたのだが、以前優梨が住んでいたという覚王山について、最近どこかで耳にした記憶があった。確か、千里の出身中学は覚王山中学校ではなかったか。これは偶然なのか必然なのか。きっと偶然以外の何ものでもないのだろうが、陽花はどういうわけか気になってしまった。気になっていたら、陽花が乗り換えるはずの伏見駅を乗り過ごしそうになった。

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