第二章 入塾(ニュウジュク)  7 陽花

 次の水曜日。

 いつものように授業後、陽花たちは千種進学ゼミに向かった。今日は英語と数学だ。

 中途入校とは言え、NHQクラスから三クラスも上のEHQに駆け上がるケースは未だかつてなかったことであり、どうやら予備校内でも噂になっているようだ。教職員の間では殊更ことさらであった。標準よりやや上の高校に通う生徒が、EHQの、それもかなりの上位で入り込むこと自体、異例中の異例だという。しかも赤みがかった髪を持ったかなりの美少女である。話題にならない方がおかしいかもしれない。もし、この予備校内に大城優梨という人物がいなかったら、これどころの騒ぎではないはずだ。

 校内の売店や休憩所で、少し前までは男子生徒が口々に優梨の才色兼備っぷりを詠嘆していたが、今では優梨と千里を比較してどちらが好みかをしきりに議論し合っているのだ。その比較対象のなかに陽花自身が入っていないことに、いささか不満がないといえば嘘になる。陽花だって美意識の高い女子高生だ。優梨の美しさは賞賛に値すべきだと思うが、千里に負けるのは何となくしゃくに障る。優梨が親友だからそういう色眼鏡で見てしまうわけで、良くないことだと分かっているのだが、何だか千里に心を許す気にはなれない。それは一昨日の月曜日の帰り際に優梨だけによろしくと言った、あの一件がそうさせているのかもしれない。あくまで憶測だというのに、これでは副リーダーは失格だなと、自虐的に思ったりもした。

 ただ、男子生徒の口から聞こえてくることで共通しているのは、あの二人、つまり優梨と千里は顔立ちが似ている、ということだ。今のところそれに異を唱えているものはどうやらいなさそうだ。中には、顔が似ていて頭も良くて、双生児(二卵性と言う者もいれば一卵性と言う者さえもいた)ではないのかという声も上がった。もし双子なら苗字の違いはどう説明するのか。一卵性に至ってはもう無茶苦茶で論外であると思うが、二人の類似性は、日比野や陽花だけの感想ではなかったようだ。ちなみに、優梨が複雑な家庭環境で育ったというにおいはまったくなく、典型的な良家のお嬢様だと陽花は認識している。

 まずはじめの英語の講義が終わった時のことであった。

 千里が優梨に声をかけてきた。

「大城さん、このブラーマグプタの公式ってやつの証明を教えてくれない?」

 千里は英語ではなく数学の公式について解説を求めてきた。ちなみに次の数学の授業の範囲ではないような気がするのだが。

 しかし、優梨もそのとき隣の席で同じく滄女生の赤堀あかほり美樹みきから質問を受けていた。優梨はその頭脳と飾らない性格ゆえ、クラスメイトからの人望も厚い。

「あ、ごめん。桃原さん、いまちょっと手が離せないんだ。急ぎなら悪いけど陽花か日比野くんに訊いてみてくれないかな?」と言って、優梨は丁重に断った。

 ところが、返ってきた千里の発言にはとげがあった。

「日比野くんはともかく、河原さんは十八位でしょ? 私よりも下位なんだから。クラスの中で私が質問できるのは大城さんか、日比野くんくらいしかいないの」

 その会話は嫌でも陽花の耳にも届いた。聞き捨てならない内容だ。真っ当かもしれないがデリカシーのない発言に、怒りがこみ上げてくるのを自覚した。と、同時に、優梨の美しく整った顔の表情筋が一瞬ピクッとゆがんだのを確認した。知り合って間もない陽花の順位をいちいち覚えていて、それで優劣を判断するあたりも鼻持ちならない。

「うん、でも赤堀さんにいま教えているから……」

 優梨も必死で怒りを抑えているようだった。

「もういいよ。日比野くんで今回は我慢しとくよ」

 そう言って教室を去っていった。なお、日比野は教室内にはいなかった。授業が終わって早々にトイレにでも行ったのか。


 今の会話の内容を聞いた者の多くは、おそらく千里に敵意を抱いたのではなかろうか。いくらルックスが見目麗しくても、男子からの批判をも買いそうな挑発的な発言だ。特にここ理系EHQは頭脳自慢の秀才の集団だ。たまたま三位だったかもしれない相手に、そのように言われる筋合いはないと考えよう。勉強のプライドが高い彼らが、挑発されて燃えないわけがなかった。

 とは言え、かくいう陽花はブラーマグプタの公式の内容は知っているが、証明までは知らない。優梨は陽花を買い被る傾向があるので、さらりと「陽花に教えてもらって」などと言ってくれるのだが、同じ滄女の上位でも優梨と陽花の学力の差は歴然だ。陽花は優梨のように、鮮やかな解説はできない。ましてや相手は三位を取った千里だ。あとで優梨にしっかり言っておかなければ。そして、ブラーマグプタの公式の証明を調べておかなければ、と焦らざるを得ない。


 週末の土曜日のテストの時も、千里は優梨に付きまとってきた。千里の用件は、水曜日と同じく、数学や理科の難問についての解説の要求することなのだが、その内容は先ほどのテストの問題ではなかった。通常、テストに出てきて解けなかった問題の解説や答え合わせを要求するのが自然だと思うのだが。そして、優梨は決して足蹴にするつもりはないのだが、休憩時間は解答用紙を回収したり出席を確認したりするなど、やるべき仕事もそれなりに多かった。それは、もちろん副リーダーである陽花や日比野も同じなのだが、千里は優梨以外の生徒には目もくれない様子にすら感じる。それよりも、何故に先生に質問しないのか、そのための予備校の先生ではないかとツッコミを入れたくなる。


 何だろう。この異常とも言える優梨への執着心は。優梨と仲良くしたいのか邪魔したいのか分からないが、何らかの目的を持ってアプローチを図っていることは確かだ。

 優梨は、表向きでは「分かった、後でね」と言うのだが、本心はきっと気持ち良いものではないだろう。そして、そのような態度をされた千里は、あからさまに不快な表情を見せつけてくる。


 そのような、千里への優梨への執着が二週間ほど続いた。ひっきりなしに続く千里への質問攻めに時間があれば付き合うこともあったが、さすがの優梨も疲労の表情が出てきた。無理もない。千里はあらかじめ課題を用意してきた先生のように、次から次へと難問の解答を要求してくるのだ。千里の固執は、幸い千種進学ゼミに居る時のみに限定されており電話やメールでそれを要求することはなかったので、日常生活に支障を来すことはなかったのだが、一方で予備校に通うことが億劫になってくるのは、至極当然なことであった。

 そして、優梨がとうとう腹に据えかねたのだ。


 優梨たちが、理系EHQの生徒たちが講義の内容で分かりにくかったところや理解に悩んでいるところなどを記したアンケート用紙を回収して担任の宮田先生のところまで届けに行く時のことだった。こういったアンケート用紙を二週間に一度提出してもらい、講義内容の改善へと繋げる。その回収係をリーダーたちにお願いしていたのだ。

「あの、大城さん! 正多面体が五種類しかないことはどうやって示すの?」

「桃原さん……私たちがこうやって休憩時間を割いてアンケート回収して、宮田先生のところに行くの、見て分かるでしょ? 前々から感じていたけど、あなたのその質問攻めはあなたの疑問点を解決するのが目的じゃない。本当に分からないことがあれば先生に質問しに行けば済むことなんだから。あなたは、最初から勉強してきて知っている内容を、私にただ試しているだけのような気がする。それって何なの? 私だって千種進学ゼミに月謝払って入校している身なんだから、自分が必要とする知識や思考力を享受する権利があるの。やりたい勉強をする権利もあるの。あなたの質問攻めにかまけている暇なんてないの。それに私はリーダーでクラスをまとめなきゃいけないのに。そんなに付きまとうくらいなら、作業の一つくらい手伝ってよ! それが嫌ならもう付きまとわないで!」

 隣にいた陽花は、普段温厚な優梨の、ここまでいきり立った発言を聞いたことはおそらくなかっただろう。その口調に呼応するかのように、千里もまた声を荒げた。

「何その言い方! 私は大城さんに憧れて、ようやく念願の理系EHQクラスに入れてもらえて、お近付きになりたかっただけなのに! 河原さんとか赤堀さんとか滄女の子ばっかり依怙えこひいしちゃってさ! 公立高校の私はお呼びでないっての! トップの成績を誇るリーダーたる人間が、残念だよ!」

 陽花も、堪忍袋の緒が切れた。

「あのね! アタシが依怙贔屓ですって? アタシはもう三年以上の付き合いだし、他の滄女生だってそうよ! 仲良くて当然じゃない? それでもあんたに、少ない休憩時間を割いてくれていて、それに対して感謝の気持ちは、これぽっちもないの!?」

「河原さん。三下のあなたは黙ってくれないかな?」

「このーっ!」陽花は激昂した。

「やめるんだ!」同じく隣にいた日比野が、咄嗟に陽花の腕を掴んで止めた。

「日比野くん、離して! この女だけには一言強く言ってやらないと、ダメなんだから!」

「桃原さん、今すぐ陽花に謝って。陽花も今は感情的だけど、謝れば今なら許してくれると思うから」優梨は静かな口調ではあるが、その視線は鋭かった。

「何で私が謝らなきゃいけないの? あなたたちが私にふっかけてきたんじゃないの?」

「えっ?」

「何言ってるの?」優梨と陽花が口々に驚きとも呆れともとれる声をあげる。

「じゃあ、私、忙しいからこれで帰るね」と言い放ち、千里は去っていった。

 発言が支離滅裂である。優梨を妨害し、EHQクラスのアンビアンスを乱しているのは明らかに千里でありそこに異論はないと思われる。しかし、千里は自分の非をいささかも感じていない。

 しかも自分から優梨に質問をしておいて、「忙しいからこれで帰る」とはどういうつもりなのだろうか。

 日比野が、低く落ち着いた声で話しかけてきた。

「大城さん、河原さん、彼女にあの言い方は逆効果だと思う。ちょっとの反論で逆上して、とんでもないことをしでかす可能性があるから」

「とんでもないこと?」と陽花は怪訝な顔を見せる。「もう既に、アタシたちに嫌がらせしたり暴言吐いたりしてるじゃない?」

 日比野は少し俯きながら、首をゆっくり振った。

「違うの!?」陽花が頓狂な声をあげる。

「それくらいで済んだら良いくらいだよ。確証はないけど、俺の所感が正しければ、もっと悲しい結末を生むかもしれない」

「何それ?」

「あ、いや、俺も君たちに偉そうに高説できるほど、確証は何もないけどな。いわゆる勘というやつだから。ただそんな気がしたんだ。気分を害したのならすまない」

「別に日比野くんが謝ることじゃないと思う」と、しばらく黙っていた優梨がそっと口を開いた。

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