*
大学卒業五年目の話である。
福岡市にあるK大学医学部を卒業し、福岡県内の市民病院で当時まだ努力規定だった二年間の臨床研修を修了した義郎は、故郷である那覇市内の
沖縄はかつては長寿の県で知られた。高齢者の患者も数多く、内科同様に整形外科もそのニーズは高い。一方で、救急指定病院でもあり、沖縄という地域の特性上、観光客の患者も多い。マリンスポーツ中の事故で搬送される患者が多いところは、他の都道府県と一線を画す特徴かもしれない。
救急指定病院の整形外科は忙しい。特に沖縄は、七〜八月の夏休み期間および三月の春休み期間は観光客が多く、若者の外傷患者も比例して増加する。このような繁忙期は、毎日のように緊急手術が入る事もある。当直でもないのに病院に泊まる必要性があることも稀ではない。
しかし、義郎はやりがいを感じていた。忙しいながらも、元来物腰の柔らかい性格で、患者にも人気があった。よく『優しい先生』と表現されるが、義郎に言わせれば、患者が温かく接してくれるから、自分の感情も穏やかになるのだ、と思っている。沖縄の県民性は、他県民のそれと比べて、良い意味で楽天的である。大らかで
そんな義郎の穏やかさは、救急指定病院という慌ただしい病院では、貴重でありがたがられる性格であった。無論、看護師をはじめとするコメディカルにも人気があった。他の先生に頼みにくい事を笑顔で引き受けたり、質問にも丁寧に答えたりした。
病院で勤務する若手男性医師は、女性看護師の交際の格好の標的となる。概して医師と看護師の院内恋愛は珍しくない。牧志記念病院にも研修医がおり、多数の若手医師が勤務していた。その中でも義郎はひときわ人気があった。女性の看護師や理学療法士などからは『最優良物件』と影で
一ヶ月前より義郎は三歳下の
祥子は美しい女性であった。彼女も沖縄出身であり、目鼻立ちがくっきりと整った女性であった。化粧で飾らなくとも、その美しさは目を引いた。性格は至って穏和だが頭の回転が早く気が利く看護師であった。一方で、美貌を携えているにも関わらず、異性に対して極めて控えめで奥手であった。他のコメディカルの女性職員が多く義郎にアプローチを図る中、祥子はそのようなことをしたりはしなかった。よって、義郎の方からアプローチをした。病棟の飲み会で隣に座ったときに、連絡先を教えてもらった。当時はポケットベル、通称ポケベルが主流の時代であった。祥子も義郎は非常に異性に人気の医師だということを知っていたので、はじめは戸惑ったようだが、義郎の紳士的な態度に次第に惹かれ、義郎の気持ちに応えた。
実は、義郎が院内恋愛をしたのははじめてではなかった。約三ヶ月間という短い期間であったがイオリという名の女性と交際したことがあり、半年ほど前に破局した。当時手術室配属の看護師であったが、交際期間中に他病棟に配置転換された。破局に至った理由は簡単だ。性格が合わなかったのである。イオリもまた、院内で評判になるくらいの美人であった。祥子も美人であったが、祥子が自然体な美しさと形容するならば、イオリは対照的に装飾的な美しさと言えよう。もちろん地顔も綺麗であった。しかしながら化粧が上手で、自らの美しさを引き立たせるありとあらゆる
そこまでは良いのだが、致命的だったのは気性の激しさだった。非常に短気で感情的であったのだ。普段は良いのだが、少しでも自分に不都合なことが生じると激烈に怒りだすことがあった。義郎に非があろうとなかろうと関係なく、イオリの矛先は容赦なく義郎に向けられた。機嫌の良い時のイオリは、不機嫌な時とは正反対で、優しすぎるくらい優しかった。そういう時は、精神的にはもちろん、肉体的にも極めて奉仕的であり義郎を満足させた。そんな感情の落差の激しいイオリも、義郎の穏和な性格で何とか包容できると信じて辛抱してきたのだが、やはり三ヶ月で我慢の限界が訪れたのだ。ある日、イオリの一人暮らしのアパートでの出来事であった。義郎は日々の過酷な勤務によって蓄積された応力を解放させるように、イオリの裸体を求めた。イオリも笑顔で応じたのだが、あまりの疲労からか不覚にも義郎は情交の最中に寝てしまったのだ。その行為がイオリの逆鱗に触れた。まさしく怒髪衝天と呼ぶべき態度へと豹変した。無防備の義郎の首を絞めたり鈍器で殴打したりした。そのとき義郎を攻撃できるあらゆる方策をぶつけてきたと思われる。当然眠気など吹っ飛び、急いで服を着ながら身一つで逃げ出さざるを得なかった。
そんなイオリのどこで着火するか分からない程の激しい気性は、彼女の美貌や普段の優しさを帳消しにしていた。交際に疲れ果てた義郎は、苦渋の決断で「キミトハイッショニイラレナイ」と送信し、イオリへ別れを告げた。その時は、イオリが配置転換で整形外科があまり関わらない病棟へ異動となって、本当に良かったと思ったものである。
そんな経緯があったものだから、美しさだけでなく真性の優しさと穏やかさを兼備した祥子は魅力的に感じられた。交際してからプライベートではごく普通の恋人同士の関係を楽しみながら、職場では一転してわざとよそよそしく敬語でやり取りすることは、当人らにとって滑稽であった。
しかし、いくら周囲に交際を隠していても、デートを重ねていくうちに知り合いに目撃される。牧志記念病院は県内でも一、二の規模を誇る大病院だ。千人近い従業員がいた。国際通りを二人で歩くなどすれば、否が応でも職員に遇う。特に、義郎と祥子は院内でもそれぞれ美男、美女で有名であり、たとえサングラスをかけていてもお忍びにはならなかっただろう。
そして病院という組織では、かなりのスピードでそういった情報が回るのだ。もともと病院というのは女性が主体の職場だ。現在でこそ男性看護師がさほど珍しくなくなってきたが、当時は看護師といえばほとんど女性だった。以前は看護師よりも看護婦という言葉が一般的であったように。女性は職員、特に医師の男女関係の噂に敏感だ。噂は時間をかけることなく広がり、不可抗力的に知られたくない人物の耳にまでそれが入っていく。
それによって義郎が沖縄から出ざるを得なくなることなど、まだその時は露知らずであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます