第一章 入学(ニュウガク)  14 影浦

 千里の言葉を聞いた瑛は、きっきょうと不信と憎悪とが混雑した感情に襲われていた。

「勘が良いからって、なぜ交代人格の名前まで知っている!?」

 辛うじて『瑛』の人格を保っていたが、言葉尻はやや粗暴になりつつあった。

「あ、さすがに私のシックスセンスだけでは名前までは分からなかったよ。たまたま風岡くんとの会話を聞いちゃったの。熱田の近くの河川敷でね!」千里は、瑛の感情とは対照的ににこやかな笑みを浮かべている。

 熱田の近くの河川敷。それは先日の白鳥橋での一件に他ならないだろう。そう、風岡がはじめて『夕夜』と遭遇したときのことだ。もっとも、瑛はそのときの『夕夜』の記憶は共有していなかったのだが。そのときの風岡とのやり取りについて、傍観者がいたと言うのか。

「何で熱田の河川敷の一件を知っているの?」

「それは、あなたたちが金山でカラオケに行くって言った日、私も実は金山にいたの。あなたの秘密を確認しようと思ってね。そのあと六番町までいていったんだけどね」

「なぜそんなこと……」

「あなたの頭の良さに気付いたからね。あなたは凄まじいポテンシャルを秘めている。影浦くんはまさしく『爪を隠した能ある鷹』ね! 私とは比べ物にならない叡智と洞察力の持ち主だけど、それを発揮しきれていない、と思ったわけ。その潜在能力を確認したかった。まさかあんな性格の正反対の交代人格が出てくるとは想像できなかったけどね!」

「交代人格を確認して、どうするつもり?」

「決まってんじゃん。交代人格を取り込んで、私の知力を上げてもらうのよ! 頭の良い人と居ると、相乗効果で私の成績も上がる。一石二鳥じゃない!」

「桃原さん成績良いじゃないか? 何で?」

「それはさっき言った通り、天才お嬢様に超えるためよ」

「天才お嬢様?」

「私が出会った中で最強の頭脳を誇る、同い年のお嬢様。憧れでもあり宿敵ライバルでもあり……倒すべき目標でもある!」

「あともう一つ訊きたい。何で風岡くんと仲良くなったり、勉強に誘ったりしたの?」

「質問ばかりだね! 頭の良い影浦くんなら言わなくたって分かるでしょ?」

「ちゃんと答えて! 僕の唯一の親友の、人生がかかってるんだ」

 瑛はやや大袈裟な言い方をした。しかし瑛にとって風岡は、もはやかけがえのない存在。そんな大切な人物の人生に、冤罪による汚点など絶対つけるわけにはいかないという、使命感を感じていた。

「悟ってくれるかと思ったけど、まあいいわ。あなたの交代人格の『夕夜』くんは、どうやら普段は表に出てこないみたいだから、風岡くんに引き出してもらおうって思ってね! しかも、とても強くて魅力的だけど、ライオンのように肉食でなずけるのは簡単じゃなさそうだもん。風岡くんに仲良くなってもらえれば、私がその中に割り込めそうじゃない?」

「じゃあ、風岡くんを利用したわけ?」徐々に頭が痛みだす。瑛は頭を右手で押さえながら問うた。

「そう。だから風岡くんに掛け合って、三人で勉強することを提案した。でもあなたはなぜか乗ってこなかった。私という首席の人間がいるのにね。そして風岡くんも、あなたに勉強に参加させるように説得するようにお願いしたけど、それはできないって固持した。バカねぇ。三人で勉強すれば、風岡くんにも有益なことは火を見るよりも明らかなのに、男の友情という陳腐な見栄を飾って、それをしようとしなかった。だからちょっと焼きを入れてやろうと思ってね」

 瑛の中では凄まじい人格のせめぎ合いが勃発していた。ひどい頭痛が瑛を襲いっていた。

「ダメだ、夕夜。ここで出てきたら、襲っちゃうでしょ」瑛は小声で内なる豪傑を鎮めようとする。

「何独り言呟いてるの? あ! ひょっとして夕夜くん?」千里は嬉しそうに言う。

「……!」瑛は返答しようにも痛みで声にならない。

「早く出てきてちょうだい。夕夜くん! 私を襲いなさい。その代わり私に力を貸しなさい!」

「ダメだ……」

 夕夜は好色家だ。美しい女性がいると見境なく手を出す可能性がある。もし夕夜が出現して千里に性的行為を働こうとするものなら、千里に弱みを握られてしまう。つまり襲ったことを千里にリークされれば、風岡と同じ転帰を辿る可能性がある。瑛はこれ以上停学あるいは退学処分は受けたくなかった。仮に襲わなかったとしても、千里に『夕夜』の存在を知られていることだけでも状況は不利だ。瑛は夕夜の存在をバラされたくない。不本意ながら千里の要求をのまざるを得なくなってくる。

「夕夜くん、カモ〜ォン!」千里は瑛の手を握ってきた。

「ダ、ダメだ……ゆ、ゆぅゃ……」

 次の瞬間だった。

「ちょっとこっちに来い!!」瑛の声色は急に猛々しく、そして低く変化した。そこにはもう、瑛はいなくなっていた。つまり夕夜だ。

「あなたが夕夜!」千里は目を輝かす。

「さっさと来いっ!」夕夜は千里の白くてしなやかな腕を強引に引っ張る。

「もっと、丁寧に扱ってよー。まぁ私、こういうのも嫌いじゃないけど?」

 千里はどこか挑発するような目線だが、それを無視するかのように夕夜は公園の多目的トイレに向かった。

 トイレは意外にも良く清掃されていて、さほど悪臭は感じられなかった。

「こんなところで私を襲うつもり? レイプにはあつらえ向きね!」

「ぬかせ! 一つだけ答えろ。地下鉄駅の動画を撮影したのは、風岡が殴った先輩だろう?」

 千里は少しの間、黙りこくったあと、口を開いた。

「そうなの。ラグビーの西本先輩に撮ってもらったの。風岡くんに言うことを聞かせるためにね。本当は、あの動画をちらつかせて脅して、影浦くんを勉強に参加させるように説得させるつもりだった」

「このくそったれ女! 風岡の野郎を、お前の奴隷にでもさせるつもりだったか?」

「奴隷だなんて人聞き悪いなー! ペットよ。暇なときは遊んでもらう。心が寂しいときは話し相手になってもらう。身体が寂しいときはれてもらう。そして、夕夜くんを引き出して欲しいときは呼んでもらう」

「この野郎!」

「でも西本先輩、バカだね! この動画を脅しに使う予定が、勝手にネットにバラまいちゃうんだから。頭の悪い男はこれだから嫌ね! ま、おかげで動画を撮影し、ネットで公開したことが誰かバレれば、西本先輩も失墜する。このネタで揺すれば、西本先輩も私のペットにできるけど……あの男は、せいぜい私のセフレ止まりね」

「西本はどこだ!?」

「あら? 私知らないよ。今日もラグビー部の練習じゃないの?」

「嘘つけ! おそらくこの公園で張って、動画でも撮影してるんだろ!?」

「さすが私の見込んだ男。西本と違って頭がいいわ。その通り、公園のどっかでまた出歯亀やってんじゃない?」

「焼きを入れてやる!」

「お好きにどうぞ。でもあなたは私をトイレに引き込んだ。それだけで立派に襲ったことを捏造できるわ。バラされて風岡くんみたいになりたくなければ、私の言いなりになりなさい」

「捏造だなんて、回りくどい! 俺の手で事実にしてやろうか」

「嬉しいな。それは私と、名実ともに契約を結んでくれるということね。助かるわ」千里は制服のボタンを外し始めた。

 その瞬間、夕夜の目にも留まらぬ程のスピードで放たれた左ストレートが千里の右顔面をかすめた。トイレのタイルが、衝撃で一部砕けた。

「どうだ! お望み通り襲ってやったぜ。誰がてめぇのようなバイの汚れた裸なんか見るかよ! 契約を結ばなければバラすだ!? 上等じゃねえか! 俺の使命は、てめぇのつまらねぇ自己満の策に付き合わされた風岡の野郎を、冤罪から救うだけだ。てめぇに付き合ってやるほど、俺は暇じゃねえ!」

 はじめは茫然自失としていた千里だが、徐々に怒りの表情に変わっていった。

「許さない! よくも私を侮辱してくれたわね! 襲われたことをリークしてやるし、西本に動画を流させてやる。あんたもバカね! 私に従っていれば良いものを。あんたも風岡と同じ目に、いや、もっと痛い目に遭わせてやる!」

「フン! 瑛の野郎も用意周到だぜ!」そう言って夕夜はポケットから携帯電話を取り出した。千里は意味が分からない表情だ。

「鵜飼か!? しっかり録ってくれたんだろうな!?」

『しっかり録音している。しかし、お前は本当に影浦なのか?』狭い閉鎖空間のためか受話器越しでも鵜飼の声はよく響いた。

「あん? 俺以外に誰がいる?」

 千里は驚いたように目を丸くして尋ねてきた。「どういうことよ!?」

「てめぇが動画やらなんやらで、証拠をバラまくというのなら、こちらも同じ手を使わせてもらった。電話越しの証人を用意した。録音機能つきでな」夕夜は真顔で返答した。

「卑怯者っ!」

「笑わせんな。てめぇのこと棚に上げておいて、どの口が言うんだ!? もしバラされたくなければ、今すぐ風岡に襲われた事実を否定してこい!」

 そう言い放って多目的トイレを乱暴に開く。

「おい! 西本とやら! 近くに居るんだろ!? 出てこい!」

 返答はない。夕夜は痺れを切らす。

「オラ!! さっさと出てこい、この女の共犯者レツめ! さっさと動画ぁ消して、風岡の野郎に詫び入れてこいや!」ひとのない公園の中、夕夜は荒々しい口調で怒鳴ると静かに一人の男が登場した。それを見た夕夜は目を丸くした。

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