第一章 入学(ニュウガク)  12 影浦

 六時限目の生物基礎の授業は、あまり頭に入ってこなかった。

 ぼかした言い方をしたが、確実に千里は影浦瑛に交代人格がいることに気付いている。瑛はそう感じていた。

 なぜに千里は瑛に交代人格が存在することを知っているのか。いちばん可能性があるのは、風岡が足達医師の言いつけを忘れてうっかり口を滑らしてしまったことか。しかし、かけがえのないたった一人の親友の風岡を疑うだけの勇気は瑛にはなかった。何よりも卓越した洞察力を有する夕夜も、風岡はシロだと言い切っていたのだから。では誰なのか。一人だけ同じ中学校出身の同級生がいたか。たしか鵜飼という名前だったか。ラグビー部だから、風岡と話をしていて話題に出たことがあったか。しかし、鵜飼と影浦は中学のときにクラスが一緒になっていない。ましてや話したこともない。影浦が出席停止処分を処されたことを、鵜飼は知ってはいるかもしれないが、交代人格の存在までも知っているのだろうか。そして、鵜飼と千里が話している姿は見たことがない。

 どこから情報が漏れたのか。瑛はできることなら、自分が解離性同一性障害であることを隠しておきたかった。矛盾しているようにも聞こえるが、瑛は夕夜のことを嫌ってはいない。むしろ、これまで内向的で優柔不断でどちらかと言えば弱気な瑛を、幾度となく救ってきたのだ。しかしながら、何と言っても夕夜は非常に気性が激しい。何も知らない第三者が夕夜の人格をはじめての当たりにしたとき、それ以降好意を持って影浦に近付く者は誰一人いなかった。しかも、瑛の優しくて穏やかな気質とのギャップに驚愕し、幻滅し、多重人格という得体の知れない存在に対して腫れ物を触るような接し方をされてきた。よって、これまで友達と胸を張って言える存在は誰一人としていなかった。しろとり学園の入所者の児童ですら一線を引いているきらいがあった。夕夜という存在を受容してくれたのは、足達医師やしろとり学園の施設長などを除けば、風岡がはじめてにして唯一である。

 瑛は千里に、自分が解離性同一性障害であることをもちろん打ち明けていない。好意的に見れば、千里が夕夜の人格を受け入れようとしているかもしれないが、状況が好意的に捉えるための一切の要素を除外することを余儀なくさせていた。なぜなら、どのようにして夕夜の存在を知ったのかが分からないのと、唯一無二の友人である風岡がおとしいれられていて、その黒幕が他ならぬ千里であるような気がするからだ。瑛は、千里を不気味に思わざるを得なかった。

 そんなことを考えていたから、六時限目の授業中にいきなり教諭から当てられても、瑛は答えられなかった。授業の内容はゲノムの話だ。有性生殖の講義において登場する、体細胞分裂や減数分裂の違いについて質問されたが、瑛にしては珍しく上の空であったため答えに詰まってしまった。教諭からは「しっかり勉強してくるように」ときゅうを据えられたが、瑛の心情の変化を千里は察知しているのだろうか。


 授業後、瑛はまず教室を出てH組の教室に入った。鵜飼と話をするためである。他のクラスに誰が在籍しているのか、瑛は内気であるがゆえほとんど把握していなかったが、鵜飼だけは中学校でも見たことのある数少ない生徒であり、しかも風岡と同じラグビー部であることから、お隣のH組にいることは知っていたのだ。

 クラスを見渡す。G組と同じ並べ方で座席が配列されているのなら、鵜飼は五十音順でも早いはずなので、廊下側になるだろう。瑛はH組に入り、教室の廊下側を見渡す。クラス内の女子生徒の何人かが瑛の方に注目する。瑛はめったに他の教室を覗くことはなく、ましてや交流も持たないので、思いがけず見慣れない高身長の男子生徒の到来で目を輝かせていた。

 しかし、肝心の鵜飼は見当たらない。

「鵜飼くんはいますか?」

 瑛は、しびれを切らしたように、近くにいる男子生徒に尋ねた。

「鵜飼って、ノブのことか? あいつ授業終わってちょうどさっき向こうに行ったぞ。鞄はそのままだから帰ってはないと思うよ」

「ありがとうございます」

 尋ねられた男子生徒は、同級生であるはずの自分に敬語を使われたからなのか、怪訝な顔をしていたが、瑛は意に介さず指し示された方向に廊下を走った。

 トイレ付近を横切ったときに、ちょうどトイレから鵜飼が出てきた。危うく出会い頭衝突しそうであった。

「あ! 鵜飼くん!」

「え? 何何? えっと、か、影浦か?」

 鵜飼は突然の、しかも存在は知っているが話したことのない男子生徒に話しかけられたためか、ひどく狼狽する。

「あの、最近、僕のことについてG組の桃原さんと喋りましたか?」

「え、喋ってないけど」

 何の意味か分からないという顔で鵜飼は首を振る。しかし、もし喋っていた場合、何か後ろめたいことがあるなら正直にそう答えるだろうか、と瑛は思案する。

「それ、本当ですか?」瑛は焦っていたからなのか、さいしんのこもった口調で問うた。

「本当だ! 信じてくれよ。ひょっとして風岡の件を心配しているんだろう!? 俺も心配してるんだよ! 風岡の停学に関して何も絡んでないし、もちろんお前に関することなど誰にも話していない」

 鵜飼の目は、明らかに瑛を警戒しているような狼狽えっぷりに見えた。しかし、たぶん鵜飼の発言は本当のような気がした。

「分かりました。疑ったような言い方してごめんなさい……」

 瑛は謝ると、ちょっと緊張が解けたのか、おそるおそる鵜飼は訊いてきた。

「風岡はどうしたんだ?」

「分からない……でも間違いなく、風岡くんは誰かに陥れられていると思います」

「そっか。影浦、助けるのか?」

「うん、潔白を証明しないと。風岡くんがそんなことするはずないから」

「どうやって潔白を証明するんだ?」

「とりあえず、まず桃原さんに事情を聞いてみます。ただ……桃原さんはとても怪しい。何か企んでいるのは間違いないし、第六感のようなものを持っているような気がする」

「そっか……風岡は桃原さんに仕組まれていると考えてるんだな」

「はい」瑛は言下に答えて、頷いた。

「分かった。俺も何か情報収集できたら、影浦に教えるよ」

「ありがとう」瑛は鵜飼に頭を下げて礼を言った。


 G組に戻ると、瑛を待っていたかのように千里が立っていた。

「何やってたの?」少々苛立たしげに千里は言う。

「トイレだよ」不審に思われようが構わないと若干開き直りながら嘘をついた。

「じゃ、帰ろ」

 千里はそう言って瑛に身支度を催促したが、瑛は疑問を口にした。

「なぜ、僕に二面性があることを知っている?」

 そうすると、千里は魅惑的な上目遣いを向けながら、人差し指を立てて瑛の口に軽く当ててきた。シー、と静かにさせるときのポーズだ。

「あ、それはあなた、みんなに隠しておきたいことじゃなかったっけ?」と、ニヤリと笑いながら千里は囁く。瑛はやきもきしながら、その指を離した。

「じゃ、風岡くんとの間に何があったの?」

「焦らないの。できれば、他の生徒に聞かれたくないって。さっきも言ったでしょ?」

「そんなに聞かれちゃまずい内容なの?」

「風岡くんの名誉のためにね。影浦くん、友達なんだから察してよ。こんなところじゃ、あなたの裏の一面も落ち着いて出て来れないでしょ?」

 瑛は苛々しながらも、やむなく千里に従った。

 今日は幸い、瑛はアルバイトの日ではなかったが、千里はどうなのだろうか。

「桃原さん、部活は?」

「大丈夫、部活はやってないし、予備校も今日はお休みだから」千里はぶっきらぼうに答えると、校門を出て駅とは反対方向に歩みを進めていく。予備校に通っていることは瑛は初耳だった。

「どこに行くの?」

「地下鉄乗ったら他の生徒がいるから話せないでしょ。誰もいなさそうなところに行くからついてきて」

 瑛は千里に言われるがままについていく。途中、ポケットの中から振動を感じた。珍しいなと思って携帯電話を取り出しこっそりディスプレイを見た。二通あって、どうやら一通はどうやら電話帳に登録されていないアドレスからのメールのようだった。迷惑メールだろうか。幸い、千里は気に留めた様子もなく先を急ぐように歩いていった。こっそりとメールの内容を理解して、何食わぬ顔で千里の後を追った。

 ついていった先は公園であった。どこにでもあるような公園である。滑り台や鉄棒といった基本的な遊具以外には、比較的新しそうな多目的トイレがあるくらいで、特記すべき特徴はない。自分たち以外、止社高校の生徒はいない。それどころか、たまたまかもしれないが誰もいなかった。

「で、風岡くんとの間に何があったのか? 教えてくれるんだよね」

 到着するや否や、瑛は口を開いた。

「まあ、立ち話もなんだし、あそこのベンチにでも座ろう」

 千里は、木陰にあるベンチを指差した。

 ベンチに腰掛けるや否や、千里は瑛の手の上に手を重ねてくる。瑛は反射的に手を引いた。

「な、何?」瑛の声には、心の動揺が反映していた。

「風岡くんはね、私に『勉強を教えてくれ』って言ったのよ」

「別に普通じゃないかな、それ。だって、桃原さんと風岡くんは仲良いんじゃない」

「でも、私には風岡くんと二人で勉強するのはあまりメリットがない。風岡くんは成績下位だからね。だから条件として、総合成績第四位の影浦くんも交えて欲しいと言ったの」

「それは、いくら何でも風岡くんに気の毒じゃない?」

「そうかな。私だって頭良くなりたいから」

 瑛は不快感をあらわにした。風岡がいくら勉強が苦手だとしても、彼なりのプライドがあるだろう。三人で勉強したら、風岡は社交辞令で誘われているのを自覚せざるを得ないだろう。

「何で、頭良くなりたいの? もう既に、桃原さんより点数の良い生徒はいないじゃないか」

「分かってないね。止社うちで一位取ったって全然意味ないじゃない。もっと世の中、頭の良い人がいるんだから」

「ではなぜ、僕に声をかけるの? 僕は桃原さんより下なのに」そこまで聞いて、ある一つの可能性に辿り着いた。そして、その予想通りの回答を寄越した。

「交代人格の『夕夜』くん。彼にはすさまじい頭脳のスペックを感じるわ。彼の力を以てすれば、あの天才お嬢様に勝てるかもしれない」

「何で『夕夜』のことを知っている!?」

 千里は、交代人格の存在だけでなく、その名前まで知っていた。

「私はね、短時間で、人の性格や心情を汲み取るのが得意なの! 勘がめちゃめちゃいいの! あなたに潜んでいる夕夜くん! 私が今まで経験したことないくらい頭脳明晰で魅力的なの。私のパートナーに相応しい」

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