第7話

「ただいま」


そう言ってはみたものの、返事がないことはわかっている。


この時間、母の狛江はパートの仕事で近くの工場に出勤している。

母子家庭であるから、家には誰もいない。

人間は。


礼音は持ち歩いている鍵でドアを開け、中に入る。

しんと静まり返った屋内、礼音が動くのに合わせて空気が動き、目に見えないホコリを巻き上げる。


自分の部屋にランドセルを置き、キッチンに向かう。

おやつは家計の事情もあり、週に一度だけ。

昨日おやつを食べたばかりだから、次にありつけるのは来週とわかっている。


戸棚からコップを取り出し、手にしたまま冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、いっぱいまで注ぐ。


ゴクゴクと音を鳴らして麦茶を飲み干し、フウと息をつく。

麦茶を冷蔵庫に戻し、空にしたコップをきちんとゆすいで布巾で拭き取り、戸棚へと戻す。


礼音に父はいない。

もちろん、自分が存在している以上、生物学的にはいるのだろうが、生まれる前に蒸発してしまったらしい。


狛江からそう聞いたわけではない。

そのテの話に敏感な近所のオバさん連中が、実に楽しげに話しているのを聞いてしまったのだ。


当時の礼音はよく意味がわからず、狛江に蒸発とは何かと、不覚にもたずねてしまったことがある。


それを聞いた狛江の顔は驚き、一瞬の怒気を浮かべ、悲哀に沈んだ。

狛江を見つめていた礼音は子供ながらに理解した。

これは二度と聞いてはならないことなんだ、と。


蒸発の理由を知りたくなかったわけではないが、知ったところでどうにかなるわけではない。

正直な話、まるで自分とは接点を持たなかった人間だ。

今さら戻ってこられたところで、なれなれしくパパと呼ぶ気にはなれない。

はっきり言って、赤の他人に等しい。


狛江はずっと女手一つで礼音を育ててきた。

男手のない生活は何かと苦労がある筈だが、文句も言わずに黙々と働いて母子家庭を支えてくれている。


きっと言いたいことはいくつもあるだろうに、娘の礼音にぶつけたりはしない。

全てを己の内にしまい込み、ただただ娘の成長に目を細める狛江の姿。


そんな母であるからこそ、礼音は余計な心配をかけさせたくなかった。

そう、間違っても自分の秘密を打ち明けることなどもってのほか……


リビングに向かい、テレビをつけてワイドショーにチャンネルを合わせる。

連日のように寧々とケイの事件を大々的に報道している。


見慣れた町の風景が画面に映り、レポーターが神妙な声で事件のあらましを懲りもせずに繰り返している。

どのチャンネルでも似通った報道を繰り返すばかりで、新鮮味に欠けることは否めない。


「……事件はまるで進展する様子もなく、こう着状態に陥ってしまっています。

寧々ちゃん、ケイちゃん、無事にご家族の元に帰ってきてくれるのを、ただ祈るばかりです」


そしてその模様をぜひ当局で独占放送させてくれ、と言いたいところか。


時刻を確かめると3時を過ぎたところ。

狛江のパートは4時に終わりであるから、もう少しで帰ってくる。


礼音はテレビを消し、足早に玄関先に向かい、靴をつっかけて外へと出る。

きちんとドアに鍵をかけ、人目を気にしながら秘密の場所へ。


そこは家から数分ほどで行き来が出来る、雑木林に囲まれた小さな神社。

礼音はよくは知らないが、かなり古い歴史を持つ由緒ある神社らしく、町の指定文化財にもなっている。


礼音は1人きりで過ごしている時、寂しさを覚えると、この神社へと足を運んでは時間を潰していた。


年始の初詣やら夏祭りなどのイベント時には、それなりの賑わいを見せるのであるが、平日の昼間となると、訪れる人の姿は皆無に等しい。


そんな場所で礼音は1人、時を過ごす。

境内をぶらついたり、本を読んだり、大きな声で叫んでみたり、思い切り泣いてみたり……そして礼音は友達と出会う。


鳥居をくぐり、境内へと入る。

もう数えきれないほど訪れている場所であるから、勝手知ったもの。

自分の部屋みたいに、どこに何があるかもおてのもの。


この神社、他の神社とは違い、実に変わったモノを祀っている。

それは本殿へと続く石畳の両脇に置かれた石像を見れば一目瞭然。


大概の神社であれば、2匹の狛犬が向かい合っている石像を見ることが多い筈だが、この神社に狛犬はいない。


蛇。

狛犬の代わりに、とぐろを巻いた大きな蛇が頭を持ち上げて、訪れた参拝者を見下ろす姿の石像がここでは見られた。


初めてこの神社を訪れてこの石像を見た礼音は、さすがに驚いて足を止めてしまい、しばらく境内に足を踏み入れることが出来ずにいた。


それは見れば見るほど異様な代物。

参拝者を迎えるというよりも、訪れた者を威嚇しているかのよう。


この神社で神様として祀られているのは「蛇」。

その名も「蛇丸神社」。


なぜ蛇を祀るようになったのか。

古い言い伝えによると、大昔この辺一帯では、大きな蛇が時々姿を現しては、住民を次々と襲って捕食してゆき、恐れられていた。


住民らは初めの頃こそ大蛇に蜂起し、武器を手に取り戦いを挑んだそうだが、狂ったように仲間を喰らい尽くしてゆく姿に恐れをなしてしまい、大量の酒や食糧を献上して三日三晩総出で命乞いをし、ようやく許しをえたそうな。


何だか武勇伝とは程遠いが、これをきっかけに独自の蛇信仰文化が築かれた経緯である。


石像だけではない。

神社のシンボルマークにも蛇が使われているし、本殿を支える柱は蛇の姿に彫り込まれているし、本殿奥に祀られているのは大蛇の仏像。


狛犬ならぬ狛蛇は、せいぜい威嚇程度にとどまっていたが、こちらの仏像はとぐろを巻いて頭を持ち上げているのであるが、大きな牙を剥き出して睨みつけ、今にも襲いかかってきそうな迫力。


大概の子供は異様さに怖れをなし、神社から逃げ出しそうなものだが、礼音は違った。


蛇を信仰している神社に興味を覚え、境内や本殿を探検しまくった。

蛇の神様が住んでいるかと思うだけで、心臓の鼓動が早まる感覚。


礼音は祈った。

蛇の神様に向かって。


「蛇の神様。

本当にいらっしゃるなら、私の前に姿を現してください。

そして願わくは私と…………お友達になってください」








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