第30話

同日午後11時45分ー


足音が遠ざかってゆく。

慌てて暗がりに隠れてやり過ごし、聞き耳を立てて状況を伺っていた博人。

ヒョイと頭を出し、誰と接触しかけたか確認。


あれは……麻美先生かな。


担任とこんな時間帯に出くわすというのもおかしな話である。

おそらくは今夜が宿直とかいう担当なのだろう、それで現在見回り中ということか。

大方の予想をつけて、博人は考える。


さて、どうしようか。

麻美先生ならば、万一の事態に備えて状況を話しておいても……ダメか。

この話は相当柔軟な考え方が要求される。

悪い人じゃないんだけど、麻美が100%僕の話を理解してもらえるか……


小刻みに聞こえていた足音が不意に乱れたのはそんな考えに頭を巡らしている時だった。


あれ、どうしたんだ?


気になって様子を覗いて見る博人。

麻美が慌てた様子で廊下を走って、どこかに飛び込んで姿を消した。


あの辺には確か……トイレがあるのだっけ。

理由がわかればこちらも安心する。

そして安心したら、何だか自分も尿意を覚えてトイレに行きたくなり始めた。


これからという時に……博人は我慢出来ないものか、しばらく尿意をおさえるようにつとめたが、突き上げるように繰り返し襲って来る尿意はおさまりそうにない。


博人はモジモジしながら廊下に誰もいないのを確かめ、トイレ目指してダッシュ。


ここで女子トイレから出て来た麻美と出くわしたらどんな言い訳をしようか、そんな考えに頭を回転させながら、無人の廊下を駆け抜ける。


男子トイレがぐんぐんと近づいて来る。

まだ麻美の姿が現れないのを確認し、スパートをかけてトイレに駆け込む。


間に合った!

博人は急いで用を済ませてホッと一安心。

無事に尿意を済ますとホッとするのは、男も女も一緒だ。


さて、戻るかな……

この先で何が起こるのか予想はしにくいが、あらゆる事態に備えて行動出来るようにしておかないと……


洗面台で手を洗っていると、どこからか視線を感じた博人。

辺りをキョロキョロ伺っても、誰の姿も見えない。


気のせいかな。

誰もいない場所で視線を感じるようなことはよくある話だし。

そんな結論に傾きかけた時、またどこからか感じる視線。


博人は急いで周囲に目を配り、ある一点で視点が止まる。

洗面台前にかけられた鏡の中の自分の姿。

自分が映り込むのは当たり前だが、博人は違和感を覚える。

何かおかしい。


まさかと思いつつ、首を傾げてみる。

鏡に映る博人は……首を傾げない。

…………マジか。


鏡の博人がニタリと笑って大きく口を割る。

見たことのない邪悪な笑みに、博人の頭が警戒信号を発する。


鏡の中で動きが起きる。

腕を上げて肘を折り曲げ、大きく後ろに構える。

博人は思う。

あれはまるで人を殴る時の動作……

瞬時に頭を下げるのと、鏡の中から腕が出て来たのは、紙一重だった。


「…………!」


見上げた博人は驚愕の表情。

まさかとは思ったが、本当に鏡の中から腕が出て来た!

おそらくは博人の首をつかむためだったのだろう、空をつかまされた指がくねくねと無念そうに動く。


危なかった……

立ち上がろうと腰を上げると、憤怒の表情を浮かべて睨みつけて来る自分の姿。


これが本当に自分なのか?

博人はジリジリと後ずさり、一気に走り出して男子トイレから脱出。

冗談じゃないぞ、何だ今のは!

今になって恐怖が込み上げて来て、全身に鳥肌が立つ感覚。


あんなのは二度とごめんだ、もう絶対にあそこのトイレは使わない。

そう思いながら走っていた博人の足が急にブレーキをかけて止まる。


振り返って逃げ出して来たトイレに目を向ける。

さっきの変なのが追いかけて来る様子はなさそうだ。

それは良いが、気になるのは麻美の方の心配だった。


男子トイレも女子トイレも、同じ場所に並んでつくられているのが学校の主流である。

自分よりも前に入った筈の麻美が、今になっても出て来る気配がない。

それは男と女の違いから、トイレに要する時間も差はあるだろうが、いくら何でもかかり過ぎではないか?


博人の脳裏によぎる、今しがた自分の身に起きた異変。

……麻美が出て来ないのは、そういう理由か?


もしもそうであるなら、放っておけない。

急いでトイレに駆け戻ろうとして、再びブレーキがかかる足。


……自分が行ったところでどうなる?

相手は幽霊か妖怪かはわからないが、間違いなく人間でない何かだぞ。

僕が行って助けられるのか?


だからと言ってこのまま素知らぬ顔で逃げるのか?

それが一番手っ取り早い方法だが、そうは出来ないだろ?


素手のままではとてもどうにもならない、何か武器になるものはないか。

焦燥に駆られながら頭を働かし、博人は考える。

一刻を争う事態、すぐにでもよい案を捻り出す必要が……


そうして考えていた博人の目があるものに釘付けになり、次には行動に移していた。

あれを使えばどうにか………




同日同時刻ー


女子トイレに飛び込んで来た人影の姿を見て、麻美は驚かされる。


「博……人……君…?」


博人はものすごい勢いで女子トイレに現れ、麻美のおかれた危機的状況を瞬時に理解した。

手にしていた消火器を両手で振り上げて、力を込めて鏡を叩き割る。


鏡が砕け散る音、散乱する破片。

麻美の首から腕が離れ、力なく崩れ落ちる担任を気遣う。


「先生!

しっかりして下さい、大丈夫ですか?」


手にしていた消火器を投げ出し、麻美の元へ。


「……え…ええ、何とか……」


自分の首に手を当て、苦しそうにあえぐ麻美。


「早く逃げましょう、先生。

よくわからないけど、何かやばいですよ。

立てますか?」


「ええ…ありがと……でも博人君、どうして学校に……?」


博人の手を借りて立ち上がった麻美は、不思議そうに見つめて質問。


「理由は後で。

早くここから離れる方が先決ですよ。

走れます……」


質問しかけていた声を止め、博人は目を奪われる。


個室トイレから姿を現す大きな蛇。

突然の博人の襲撃に一時身を潜めていたが、落ち着いた時を見計らって再び姿を現した。


シャアアアア……


聞き覚えある威嚇の声に、博人も麻美も身体を強張らせる。

一難去ったと思いきやすぐに次の一難、全く飽きのない展開だ。


「……先生、走りますよ。

いいですね?」


「博人君、先に行って。

情けないけど、足に力が入らないの。

今の私だと足手まといにしかならないわ」


「そんなの聞かされたらますます置いて行けませんよ。

日頃からお世話になっている人を無下に扱ったらいけないと、亡くなったおばあちゃんが言ってましたから」


「時と場合によるわよ、そんなの。

君は私の生徒よ、子供なら黙って大人の言うことを聞きなさい」


「出来ません。

僕は確かに先生の生徒だし、子供です。

大人と比べられたら一回りも二回りも劣るのは事実です。

でも」


博人は床にあった消火器を構え、蛇から守るように麻美の前に立つ。


「男です」


蛇が博人に向かって威嚇の声を上げる。


「ダメ、博人君、止めなさい、そんな真似……」


「先生、立って。

こんな場所で人生終えたいですか?

まだやり残していること、たくさんあるのではないですか?

生きたければ死に物狂いにならなくては。

他人の目なんか気にしなくていい、カッコ悪かろうが醜かろうが、最後の最後まであきらめずに生きるんです。

さあ、立って下さい。

少しずつでいいから廊下に向かって」


博人に促され、頼りない足取りながらも1人で廊下へと後退する。


「博人君も早く……!」


「先生、もっと離れて。

出来ればトイレのドアを開けておいてもらえると逃げやすいんですが」



博人は話しかけながら、消火器の安全栓を引き抜き、ホースを蛇に構える。

こんなもので蛇を仕留められるとは思っていない、あくまでも逃げるための時間稼ぎ。

それさえ出来れば……


「博人君、ドアを開けたわ!」


博人は頷いて見せ、タイミングを見計らう。

蛇が試すように博人に頭を近づけて来る。

なるべく引きつけてから……もう少し、もう少し……今だ!


博人はレバーを思いきりおいて、蛇に向けて消火剤を噴射。


「シャアアアア……!」


見事に蛇の頭に直撃し、驚いた蛇は長い胴体を仰け反らせる。


「やった!

先生、走って!」


消火器を投げ、全力でトイレから脱出する2人。


「シャアアアア!」


後方から不意を突かれて怒る蛇の威嚇する声。

すごいスピードで博人の背後に迫る蛇であったが、間一髪廊下に出た博人が、ドアを力任せに乱暴に蹴り閉める。


頭からドアに激突し、無念の声が聞こえて来た。


「先生!」


廊下で不安な顔で待っていた麻美、博人の姿に声を上げる。


「博人君!

よかった、無事だったのね!

すごいわ、あんな大きな蛇をやっつけちゃうなんて」


麻美の言葉には耳を貸さず、手を取って走り出しす博人。


有無を言わさず引っ張られ、麻美は危うく転びそうになる。


「ちょっと、博人君⁉

どうしたの?

何をそんなに慌てているの⁉」


「先生、走って!」


後方で女子トイレのドアが破られ、コケにされた蛇が姿を現し、怒りの声を上げて追いかけて来た。


「シャアアアア!

シャアアアアアアア!!!!」


状況を把握した麻美、博人の手を振りほどいて、1人で走り始める。


若い2人が全力で走っているというのに、みるみる2人との距離を狭めて来る。

あれだけの図体をあのスピードで移動出来るとは。

そのことに2人は驚愕した。

死に物狂いで逃げ切らなくては、間違いなく今日が命日だ。


逃げる博人にある考えが閃く。

このまま進めば確かこの先は……


「先生!

今日は宿直でしょ?

だったら各部屋の鍵とか持ち歩いてますよね?」


「え?

ええ、持ってるけど……どうするつもりなの?」


「あいつを退治します」


博人の言葉に、驚いて声も出ない麻美だった……


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