第29話
同日午後11時35分ー
礼音は学校に向かって、人通りの途絶えた道をひた走っていた。
自慢にはならないが、運動は得意ではない。
特にこうして長い距離を走る競技は、礼音が最も苦手とするものだ。
なぜ胸が苦しくなったり、脇腹が痛くなってまで走らなくてはならないのか。
どうしてもシンプルだが難しい、走るという行為を受け入れるのは容認出来ない礼音。
「ハッ、ハッ、ハッ……ハッ、ハッ……」
息を切らしながらも、礼音は走るのを止めない。
いくら真夜中とはいえ、真夏を直前に迎えた時期である。
懸命に走れば走るだけ汗が出るし、足腰が痛み始める。
それでも礼音は走り続けた。
博人というクラスメートの元へと向かうために。
同日同時刻ー
博人は順調に廊下を駆け抜け、階段を上がりかけたところで慌てて立ち止まり、サッと暗がりに逃げ込んで身を潜める。
博人の顔に緊張が走った。
誰かが来る。
同日同時刻ー
職員室の電話が音を立てて鳴り始める。
それは狛江からの電話で、礼音がいなくなったことの報告と相談をするために、緊急の電話を入れてみたのだがー
突然、電話が途切れた。
それは電話線が切れてしまったことで起きたトラブルであったが、なぜ切れてしまったのか、原因は不明。
職員室は再び静寂に包まれた。
同日午後11時40分ー
見回りを続けていた麻美は突然の尿意を覚え、慌てて近くの女子トイレへと急ぐ。
この過程で麻美は教え子の博人とニアミスをしているのであるが、まさかこんな時間帯に学校にいるなどと知る由もなく、全く気付かぬままに通り過ぎる。
女子トイレに駆け込んで忙しなく用を足す。
間一髪だった。
よもや教師が学校で漏らしたなどとなっては、威厳に関わる。
麻美はホッと息をついて洗面台に向かって手を洗う。
ふと視線を感じた麻美は顔を上げて悲鳴を上げかけた。
目の前に映し出された女の顔。
当然ながら自分の顔である。
麻美は苦笑した。
鏡に映った自分の顔に驚いていたら、いちいちキリがなくなってしまう。
それにしても…‥麻美は鏡に映った自分の顔をまじまじと眺める。
何だかやたらと怖い顔つきをしているように思えてならないのだ。
自分では意識してないが、私は見回りの際、こんな強張った顔で仕事をしているのだろうか。
「ダメでしょ麻美、誰もいないからといってこの顔つきは。
ほら、スマイルスマイル」
そう鏡の自分に呼びかけてニコリて笑った麻美であるが……
「……え?」
おかしい。
自分では笑顔を作っているつもりであるのに、鏡の中の顔はピクリとも笑っていない。
……何これ?
私、いつからこんなに笑うのが苦手になったの?
「どうしちゃったの、麻美ちゃん。
ほら、笑って〜」
そう呼びかけながら、鏡に向かって手を振るしぐさをする麻美だったがー
「…………!」
麻美は凍りついた。
間違いない。
自分は確かに手を振っているのに、鏡に映る麻美は微動だにしない。
ただ冷たい目つきでじっと鏡の外の自分を見つめている……
麻美は後ずさる。
何が何だかさっぱりわからない状況下であったが、これだけは理解した。
早く逃げなくては。
一歩後退した麻美は、鏡の中で起きる異変に気が付く。
すぐ後ろの個室トイレのドアが開き、何かが出て来た様子を映し出す。
それは人間でないのは明らかだった。
人間にしたら腕と足が見当たらないし、やけに胴体が細い。
あれはまるで蛇の姿そのものではないか。
……蛇?
麻美は心臓の鼓動が速まるのを感じながら、引きつった表情で振り返る。
大きなヘビが便器から姿を現し、じっと麻美の様子を伺っているのに出くわした。
感情など読めない冷たい目つきで、怯える麻美の様子を観察する。
それは間違いなく、自分の腹を満たすエサを見るハンターの光……
ここに来て麻美は思い出していた。
ここは確か、蛇が便器から出て来たとされる例の噂話の発信源となった女子トイレだと。
シャアアアア………
大きな口を開けて威嚇の声を上げながら、麻美の目前にまで迫る蛇。
これは現実?
こんな説明のつかない出来事が本当に起こるの?
後頭部に感じる気配に振り返る。
鏡の中の麻美が、現実の麻美にニタリと笑う。
それは見たことのない、邪悪に満ち溢れた顔……
鏡の中から両腕が飛び出し、麻美の首をつかんでがっちりと絞め上げる。
「…………!」
首にかかるものすごい力の圧迫に、悲鳴も上げられずにもがく麻美。
万力でじわじわと、しかし確実に殺しにかかる現実に、死への恐怖を実感する。
シャアアアア……
さらなる恐怖が差し迫っていることに気付かされる。
かすむ視界の中で捉えたのは、獲物を仕留めにかかる蛇の姿。
鏡に映る恐怖に震え上がる麻美の姿が楽しいのか、さらに唇の端を吊り上げて笑う鏡の麻美。
止めて。助けて。
そう声に出そうとしても、喉を潰されている状態で、口をパクパクさせるだけの麻美。
私はこのまま死ぬのか……
真夜中の女子トイレでいきなり突きつけられた死への招待状。
それを届けに来たのはあろうことか、自分自身。
これは一体、死因は何になるのかしら?
自分に殺されるということは、やはり自殺……
意識がかすむ。
もう……ダメそう…………
女子トイレに人影が飛び込んで来た。
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