最終章 進軍!
(1)
九月中旬。
朝晩はめっきり涼しくなってきたけど、日中はまだまだ残暑が厳しくて、エアコンの効きの悪い事務室の中は蒸し風呂状態だ。でもそんなことにはお構いなく、仕事は朝からてんこ盛り。出社早々に、デスクに肘を突いてぼけっとしていた社長をどやし倒す。
「ちょっと、社長! 村井さんの企画はどこまで行ってるんですか? いつから
「んー」
だめだ。今日は朝から全開であっち行ってるわ。午後にすべ。白田さんが分厚い書類の束をばさっと閉じて、外出の支度をしていたわたしを呼び止めた。
「ようちゃん、これからテナント行くの?」
「はい! 昨日から新しい店員さん入ってるから、抜き打ちで様子見てきます。評価表も回収しなきゃ。それと、エルストアの高口店回ってきます」
「ああ、そうか。高口店は新規よね。うまく行ってるかなあ」
「昨日スパイを潜り込ませたんですけど、今のところは感触いいっすよ?」
「おおー、スパイ! 誰?」
「姉ですー。がきんちょ付き」
「あはははっ。お菓子で釣った?」
「いひ。身内ならタダで使えますからー」
「じゃあ、お昼は外になるのね?」
「二時に帰社の予定ですー」
「ああ、俺も三か所回るから、三時くらいになる」
黒坂さんが、書き込んでいた書類をばちっとファイルに綴じ込んでから、おもむろに立ち上がった。
「どこ?」
「エルストア園崎店、緑町店、それとラルース」
「ええーっ? ラルースって、あの出来たばっかのおしゃれなとこでしょ? うちみたいな零細が入れるんすか?」
「ふっふっふ。俺の腕を甘く見るな」
ラルースかあ。あそこはめっちゃグレード高いぞー。それにしてもさすが黒坂さんだなあ。突破力がはんぱないわ。あの交渉術をなんとか盗まないとなあ。
「てか、黒坂さん。今日はめっちゃ機嫌いいっすね?」
鼻歌を歌いながら書類をカバンに詰めていた黒坂さんは、わたしを見てにやっと笑った。
「そりゃそうさ。今日は普段の十割増しだ!」
「へ?」
「杉浦から、嬉しいお中元が来たんだ」
「杉浦さんて、あの支店長さんですか?」
「そう。ようちゃんの件でへこんでたから、心配すんなってこっちの事情を話しといたのさ。もう全部片が付いてたしな」
「へー」
「そしたらな。お礼だって言って、取って置きの情報を寄越したんだよ」
そっか。黒坂さんも、まだ御影不動産での人脈を大事にしてる。パイプはちゃんと維持してるんだ。すげー。
「抜き打ちの内部査察が入って、俺の大嫌いなろくでなしが広報室付きの無役に降格になったそうだ。そいつが諸悪の根源だからな。ざまあみろ!」
おおお! ろくでなしとざまあみろを全力で強調した黒坂さん。温厚な黒坂さんでも、ここまで噴火することがあるのかあ。噴火しちゃったわたしは、なんとなく安心する。
「ひどかったんですか?」
「本社のスタッフでもないくせに、受け持ち区域だからって勝手にしゃしゃり出て来やがって、大ぼらこくわ、変な噂はばら撒くわ。鈴庫の件を思い切りこじらしたんだよ」
「ちょ! それって」
「穂蓉堂の移転交渉のことで、管理の連中が大ポカやらかしたのはそいつのせいさ」
「げーっ!」
じゃあ、そいつが今回のどたばたの、そもそもの原因じゃん!
「それに、白田さんがそいつの直撃食らったからね」
「え?」
「そいつは杉浦の前の河野支店長だったんだよ。女性社員を勝手に格付けして、白田さんを役立たずのババア呼ばわりしたのさ。仕事も干し、待遇も差別し、査定もぼろっくそ」
「!」
「ひでえ話だ。えこひいきなんて生易しいもんじゃなかったからな」
うげえ。まるでクソハゲ教授の会社版やん。一方的な抑圧で潰されて辞めた。それなのに、ここでもっていうのは白田さんも同じだったってことか。それで、わたしより先にぷっつんしたんだ。でも白田さんは、やれやれって顔をしてる。もう過去のことだって割り切ったんだろう。
「そいつの口先三寸に踊らされて煮え湯を飲まされた管理の連中が、黙ってるはずないよ」
「そうですよねー」
「それで、管理とぶつかって辞めた俺の後釜にそいつを持ってきたんだ。形の上では十人抜きの大抜擢だけど、実質は懲罰さ。かき回したおまえがちゃんと責任取って、鈴庫の後始末をしろ、ってね」
「へー」
「でも、そいつは地位を手に入れた満足感にどっぷりで、管理の嫌味なんざちっとも堪えなかった」
あだだ。なんじゃそりゃー。
「それ、最悪ですね」
「大手だからまともな人事をするとは限らないよ。動かすのも動かされるのも人間だ。いろいろある」
黒坂さんが、ちらっと社長を見た。
「案の定、そいつは偉そうに指図するだけで、自分は何も仕事をせん。そんなのは俺の仕事じゃない。おまえらがやれってなもんさ」
「うっわ、ひどいなー」
「でも、うちの社長が直接乗り込んで、担当者との間で無事穂蓉堂の移転交渉をまとめただろ?」
「はい」
「その最終決着の時に、担当者が部長をハズしたんだよ。何もしないくせして、そういう時だけ偉そうにしゃしゃり出てくんなってね」
「ひええっ! だ、大丈夫なんですか? 部長にそんなこと言って」
「もちろん、馬鹿正直にそうは言わないさ。部長の手を煩わせるまでもありませんと、スケジュールをぼかしたんだ。何でも丸投げするそいつの怠け癖を、逆手に取ったんだよ」
ごくっ。大手でも……そういうのがあるんだあ。
「契約がまとまって、めでたく本社内で鈴庫の件の円満解決がアナウンスされた。でも当事者であるはずの部長は、それを知らんかったんだ」
うくくくくっ。なるほどなあ。
「マンションはすでに建っていて、全戸分譲済み。全体としては穂蓉堂の件はもう瑣末なことなんだよ。だから、担当者の判断は決して間違っていない」
「そうか。確かにそうですよね」
「でも、本来陣頭指揮してるはずの部長が決着を知らない。そらあとんだ赤っ恥さ。恥をかかされたことに激怒して、担当者を呼び付けた。その場に」
「はい」
「くっくっくっくっく」
これ以上おもしろいもんはないぞーって感じで、黒坂さんが目を細めて笑った。
「担当者の隣に、最高執行責任者、つまり御影不動産の社長がいたんだよ」
ぎゃはははははっ! 全員でばか笑いする。おかし過ぎ。そのまんまギャグやんかー。
「つーかーでばしばしやり合ううちじゃあるまいし、上司である執行役員に面と向かってこの馬鹿野郎ぶっ殺してやる、じゃなあ」
「よく首が飛びませんでしたね?」
「そこは、組織だからね」
黒坂さんは笑顔を引っ込めて、またちらっと社長を見た。
「人事ってのはね、任命された方だけじゃない。任命した方にも責任があるんだよ。だから、俺はどんなに札束積まれても人事だけは絶対やりたくない」
ああ、そうかあ。社長のお父さんも言ってたな。人を使うのは難しいって。
「人を雇うってのは、そいつと心中するくらいの覚悟が要るんだ。だからこの前社長が言ったんだよ。ここが合わないと思ったら遠慮せずに出ろってね。出てけってのは、どうしても言いたくないのさ」
「あ!」
「出木さんの時のような嫌な思いは、もうしたくないんだよ」
うん。そうだよね……。
「さて、と」
黒坂さんが、カバンをひょいと小脇に抱えた。おっと。わたしものんびり油売ってる場合じゃないね。本格的に暑くなる前に回らなきゃ!
「それじゃ、行ってきまーす!」
「気をつけてねー」
「はあい」
「俺も出るわ」
「お疲れ様ー」
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