第二十五章 戦列復帰
(1)
白田さんから電話が来た次の週初。月曜日に新社屋を訪ねることにした。
久しぶりにスーツに袖を通すと、なんだかくすぐったく感じる。姿見に自分を映してみて、ふと思った。見た目には、これまでの出勤と変わらない。でも、それが続けられるかどうかはまだ分からない。辞めます宣言ぶちかまして、どの面下げてのうのうと。そう言われてもしょうがない。だけどわたしは、社長に頭を下げて復職するつもりなんかなかった。
わたしが社長に突き付けたかった要求は、三つある。
一つ目。社長なんだから、きちんと自分で決断して欲しい。人の顔色うかがってばかりじゃ、何も進まないでしょ? 逃げてばかりじゃ、じり貧になるだけでしょ?ちゃんと覚悟決めてよ!
二つ目。社員ときちんとコミュニケーションを取って欲しい。甘やかせとは言ってないよ。社長の考えを聞かせて。わたしたちの意見を聞いて。それを、みんなで共有出来るようにして欲しい。最後に決めるのは社長なんだから、それまでは言いたいことをちゃんと言わせてよ。そして、社長の意見を聞かせてよ!
三つ目。社長は、自分の人生を懸けた夢って言ったよね? でも、わたしたちにはその夢が見えないの。夢をちゃんと見せて! ビジョンをきちんと示して! そうしたら、わたしたちはそれに自分の夢を重ねられる。ようしやるぞって、逆境に負けないで旗を取りに行ける。踏ん張れるの。
この三つのうち、どれかが満たされたらそれでおっけーじゃない。三つとも満たされないと、高野森製菓の未来はないと思う。わたしは、勝ち目のない戦はしたくない。無目的に戦闘するような軍に属したくはない。だから、どうしても社長の夢をきちんと示して欲しい。
辞める立場なら、苦言や提言は最小限になるの。だって、それは自分とはもう関係なくなるんだもの。でも、社員なら別だ。自分の会社にぶーぶー文句垂れ流しながら働くのは、社員だけじゃなくて、社にとっても不幸でしょ? わたしは、そこを妥協したくなかった。今度こそ絶対に、妥協したくなかったんだ。だから、ちゃんと退職願いは書いた。それを出すかどうかは、社長の話を聞いてからにする。
「よし、と」
自室の鍵を閉めて、気合いを入れるために扉に一つ頭突きを食らわす。ごん! 羊は柵を出た。これから出陣だっ!
◇ ◇ ◇
「うわ。ほんとにここぉ?」
手元のメモを見ながら辿り着いた新社屋。それは、わたしの予想をはるかに超えたおんぼろだった。てか、これってめっちゃふるーいマンションの一室じゃん。築三十年越してるんちゃうの? しかも、どう見ても普通の住戸。社屋っぽさ、ゼロ。
でも、ここだよねえ。住戸に似合わない、ごっつい表札がぶら下がってるし。『高野森製菓 本社営業所』って。
おずおずとドアを開ける。
「ごめんくださーい」
玄関も、一般家庭のそれ。そこに靴がいくつか並んでる。リビングにつながるドアが開いて、白田さんがひょいと顔を出した。
「あ、白田さん、おはようございますー」
「来たねー。入ってー」
「はーい」
おっかなびっくり。まさか靴脱いで上がるとは思わなかったからなあ。スリッパに履き替えて、リビング、いや事務室に入ると。
「お?」
見かけは一般のマンションだったけど、部屋の中はきっちり改造してあった。
普通は和室になっているところ。その床がフローリングに張り替えられてシームレスにリビングに繋がってる。そして、襖は取っ払われてる。オフホワイトの真新しい壁紙が全面に張られていて、照明も天井直付けのシーリングタイプ。天井は低いのに、頭上から来る圧迫感がない。窓にはカーテンがなく、ブラインドが掛かっている。
「わあー」
思ってたよりもずっと広い。事務室だけなら、前の社屋のよりずっと広いんだ。
白板や事務機器、事務机がずらっと並べられてて、黒坂さんが机に向かって忙しそうに電卓を叩いてた。外見とは裏腹に、室内だけ見れば立派にオフィスだ。なるほどなあ……。
ひょいと顔を上げた黒坂さんに、声を掛けられた。
「お、ようちゃん。おひさ! ケガは?」
「だいぶよくなりましたけど、まだ完治ではないですー」
「しばらく無理せんようにな」
「……はい」
ううー。気まずいよう。でも、白田さんも黒坂さんも臨戦態勢で、のんびりしてる暇なんかないようだった。忙しそうに書類を繰り、ペンを走らせ、電話をかけ、電卓を叩いてる。前の社屋に居た時には一度も感じたことのない猥雑な活気。それが、初めて肌で感じられた。
「おはようございます!」
ばたん! 玄関扉が派手に音を立てて開いて、すぐに社長が入ってきた。わたしに気付いても、特に表情が変わるってことはなかった。平然としてる。うーん……。
「お。ようちゃん、来たか。おはよう」
「おはようございます」
ううー、気まずいよう。
「時間がないので、すぐに朝会を始めます。今、前田さんが来るからちょっと待っててね」
前田さんていうのは、初めて聞いた名前だ。きっと工場の主任さんなんだろう。はあはあと息を切らして、白衣を着た丸顔のおばさんが部屋に飛び込んできた。
「すみません! 遅れて」
「いや、大丈夫だよ」
「失礼します」
「全員揃ったので、今週の朝会を始めます」
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