第七章 カウンターアタック

(1)

 午前中は、出て行けおじさんの連呼。午後はオバさんの露骨な情事。敵の攻撃というにはあまりに低レベルなアクションがあって。それでもわたしは、反攻の機会を探らないとならない。武器を持ってないからってトーチカに篭り切ってしまうと、じり貧に陥るのが目に見えてる。今のうちにきっちり押し返しておかないと、本当に身動きが取れなくなる。


 三冊目のノートの数ページに真っ黒になるまで暗号を書き散らしているうちに、退勤時間になった。わたしはゆっくりと席から立って留守電の設定を確かめ、三冊目のノートをバッグに入れてきっちりファスナーを締めた。残りは残業だなあ。


「ふうっ!」


 覚悟を決めて、スーツの胸ポケットカードキーを出す。

 がしゃん! わたしと向こうの世界を隔てていた扉が開いた。ここから先は、もう激戦場なんだってことを肝に銘じなければならない。さあ、トーチカを出よう。


 かつ、かつ、かつ、かつ、かつっ。きちんと足音を立てて階段を下りて。


「白田さーん」


 声を掛けてから事務室のドアをばたんと開けた。ちらっとわたしを見た白田さんは、わずかだけど落胆の表情を浮かべた。事務室に入ってすぐ、わたしは五感を全開にして短時間にいろんなことを確認した。


 まず匂い。白田さんは普段から化粧が薄いし、匂いものを好まない。事務室には芳香剤みたいなものは置かないし、香水なんかもつけてないと思う。それは好みの問題っていうより、白田さんが食いしん坊だからだろう。お昼ご飯やおやつにはとてもこだわるし、味だけでなくて香りや見栄えもしっかり評価する。だから五感で味わうのを阻害する要素は、すっごい嫌うんだよね。トイレの中でご飯食べるみたいのって、論外でしょ! そういうところは、わたしも同じ感覚だ。だから白田さんとは好みが合ったんだ。


 情事の時の汗の匂いや体臭は、狭い事務室から排除しにくいと思う。どうしても、換気するか他の香りでごまかさないと短時間では消えないはず。でも、わたしがテレルームに逃げ帰っていた二時間の間に、窓を開ける音は一度も聞こえなかった。普段と違う芳香剤とかが匂っているということもない。あまりに、いつもと同じだった。おかしくない? そして白田さんの机の上。スマホが乗ってる。それは、少なくともわたしがここに来てから初めて見た光景だった。


 白田さんがスマホを持ってて、それを使ってることは前から知ってる。でも、白田さんは頑固なくらいそれをわたしの前で……ううん、誰の前でも見せなかった。もちろん、それで会話したりメールやラインしてる姿も見たことがない。事務室に一人でいる時にスマホを操作するのは、造作ないことだと思う。誰も見てないし、誰かが勤務態度をチェックしてるわけでもない。わたしだってテレルームでやりたい放題だったんだから。そうしなかったのは、社会人として示しがつかないから。けじめとして。白田さんは、わたしや社長に理由を聞かれたらそう説明すると思う。


 でも、今回のことを考慮に入れると意味が変わってくる。白田さんが御影のスパイだとすれば、社長の行動をおおっぴらに外部に連絡している姿をわたしや黒坂さんに見られるのは、とってもまずいんだ。勤務時間外ならともかく、勤務時間内に社の公用電話を使わないで外に電話をかける必要性はほとんどないから。家族とかに何かあった緊急時だけだよね。だから、もし白田さんがスマホを操作してるのを見たら、わたしたちは必ず突っ込みを入れるでしょ。ねえ、白田さん、急用? 何かあったの? 誰に連絡してるの? ……って。職場でスマホを使うリスクを重々理解してたから、白田さんは徹底してその存在をわたしたちから遠ざけていた。勤務時間内には私用の通信機器を使わないよって、きっちり印象付けるために。

 そして白田さんは、異常なくらいきちょうめんできれい好き。めんどくさがりですぐにお店を広げちゃうわたしとは、正反対だ。机の上がその性格を象徴してて、仕事に必要な最小限のものしかそこに置かない。広げない。なのに、仕事には必要がないはずのスマホが、わたしの目につくようにして置かれてる!


 それ以外に書類や什器に乱れはなかった。もちろん、白田さんの着衣や髪、化粧なんかにも、一戦交えた跡なんかかけらも見られない。拍子抜けするくらいいつも通りだ。そりゃそうだよね。あの時、わたしが騒いで強制的に踏み込んだら。もしそう出来ないよう鍵をかけてあったにしても、人を呼ばれたら。取り繕う必要がある時点で、白田さんの全面敗退だ。だから証拠を残すようなヘマは絶対にしないだろう。だとすれば……。


 まあ、いい。それは帰路で考えよう。帰りの挨拶だけさらっとしてこう。


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