第二章 羊群
(1)
「おひさー」
「元気だったかー? かのっち」
「まあ、なんとかかんとか。みりは?」
「くっだらん研修ばっかで、果てそうだべさ」
「だははー」
帰宅途中にメールがあって、急だけど大学の講座の同期三人で一杯やろうってことになった。
みり、こと
でも、みりもわたしと同じで、サイエンスの世界にさっさと見切りをつけた。講座を替えて院に進む道もあったんだろうけど、なんかやけさしたっていうか、教授と刺し違えて燃え尽きたっていうか。それまで学んできたことをすっぱり袖にして、なんと出版社に潜り込んだ。本社研修が終わったら、子供向けの科学雑誌とかを企画する子会社に出向ってことになるらしい。言いたいことはいつでも誰にでもずけずけ言うから一筋縄じゃ行かないだろうけど、みりなら弱音吐かないで踏んばるだろう。
学生時代は長くしていた髪をばっさり切って、まだ着られているって感じのスーツから元気とやる気を容赦なくはみ出させて、さあ飲むぞーって感じでみりがメニューを見回してる。あーあ、飲んでも食べても太らない体質っていいよなー。それはそうと。あいつがまだ来てないなー。
「で、例によってぬいは遅刻すか」
「うがあ、あいつ、まあた寝てるとか言わんべなー」
みりが、うんざり顔でスマホを出す。
「うーい、起きてっかあ?」
うにょうにょ声がみりのスマホから漏れてきた。寝てたな。ったく、平日だぞ。なんぼ就職浪人中だからって言っても、そのナメゴンみたいな生活態度はいかがなものかと思うけど。
「とっとと出てこーい。
スマホをバッグにしまったみりが、店員を捕まえた。
「生二つと枝豆。串盛り合わせ」
をいをい。わたしの選択肢はなし? ひょいとわたしの顔を見たみりが、にっと笑った。
「ぬいが来るまでのつなぎだよ」
まあ、いいか。
ぬい、こと
ぬいの『はい』っていう返事は、分かりましたじゃあなくって、耳には一応入れましたけど覚えてるかどうか分かりませんよーってこと。それを最後まで理解出来なかった教授は、壊れた蒸気機関車みたいに頭から湯気を吹き出し続けたけど、ぬいの態度を変えることはこれっぽっちも出来なかった。卒論のテーマも教授の押しつけをにょろんと拒んで、誰も理解出来ないものにして、それもやる気あんのかって感じで。卒ゼミにも出て来ないし、教授に相談なんてことも丸っきりなかった。まあ。ぬいは、こんな大学なんかいつでも止めたるわいって、投げやりだったんだろう。
教授がぬいを放り出さなかったのは、講座から落伍者を出すのはカッコ悪いっていう見栄のせいだよね。怒り心頭だったけど、結局はぬいの尻拭いをせざるを得なくなったと。それを見て、こっそりざま見ぃと思ってたガクセイは多かったはず。もちろんわたしもそう。そういう意味では、ぬいはヒーローだ。決してヒロインではないけどね。あんなぐだぐだなヒロインが居たらえらいこっちゃ。にしても……。
「ねえ、みり。ぬいはこれからどうするつもりなんじゃろ?」
「どうするって?」
もう串揚げをつまみにジョッキをあおっていたみりが、口に泡を乗っけてこっちを向いた。まるっきりおやぢだよ、その顔。とほほ。
「いや、大学出たけど、就活まじめにしてる風でもないしさ。親んとこからも出てるんでしょ?」
「むー、確かにね。でも、あいつぁ人の言うこたちぃとも聞かんからさあ。どうしようもないべさ」
そうなんだよなあ。でも、わたしだってぬいのことをエラそうに言える立場ではない。みりみたいに、がつがつ前へ進むガッツはないからなあ。職探しも、給料よりか余裕度重視みたいな。大学でぱりぱりに乾いてしまった自分を、一旦水に浸けてふやかして戻す時間が欲しかったっつーか。
うだうだうだ。卒業前のどつぼってた日々がまだ体のあちこちに張り付いてて、なんとなくわたしのやる気の足を引っ張ってるかなーって思う。
「ほげー」
お、やっとぬいが来た。うああ、見るからにでろでろだなあ。オンナ止めるどころか、ニンゲン止めかねないカッコだよ。よれよれのスエット上下に便所サンダル、髪はぺたぺただし。もちろんノーメーク。目やにまでたっぷり乗っけてから。化ければ十分かわいいのにさあ。
「ちょっと、ぬい。あんた、クサいぞ」
みりが鼻をつまんで呆れる
「風呂入るのかったる」
「ぐえー」
ホームレスかい。ったく、かなんわー。呆れてたわたしを尻目に、みりがメニューをひょいとかざした。
「なにはともあれ」
「ん?」
「こいつの臭いをなんとかせんと。毒を以て毒を制すじゃ」
「はあ?」
メニューを振って店員さんを呼んだみりが、キムチとギョウザを追加で頼む。臭いもので隠すってか? とほほ。
「どうせあんたは飲まんべ?」
みりがぬいに確かめた。
「飲んだら、しぬる」
だろなあ。朝から今まで何も食べないで寝てたんだろ。べたっとテーブルに潰れたぬいが、両手をだらんと垂らした。
「たるー」
「あんたがたるくなかったことなんか、一度もないべさ」
「んだ」
これだよ。
ふう……。わたしは手にしてたジョッキを下ろして、ぬいを見る。考えて見れば。わたしたちは、決して気の合うトモダチ同士ではない。講座の女子学生がわたしら三人しかいなかった上に、横暴教授に徹底抗戦するには結託した方が作戦上都合がよかった。それだけなんだよね。
でも三人タッグの恩恵を受けたのは、もしかしたらわたしだけだったかもしれない。みりの正面突破。ぬいの徹底無視。二人がどこまでも教授に不服従を貫いたことで、わたしへの直接被弾はずいぶん緩和された。講座の中でわたしが羊で教授が狼だとすれば、みりが羊飼い、ぬいが牧羊犬ってとこか。でも、わたしはわたしなりに教授の圧力をのらりくらりとかわしてきたつもりだ。
卒業の時に牧場が解体されて、わたしたちは社会に放り出された。みりもぬいも、講座のメンバーという小さな世界から放たれて、わたしと同じ羊になった。その途端に、群れる必要もなくなる。これから三人とも、それぞれのセカイで生きてく。こうやって揃って飲む機会がどれだけあるか分かんないなあ。わたしはちょっと感傷的になった。
「かのっち、なに串くわえてほけてるのん?」
みりに突っ込まれた。うう。わたしもおやぢ並みか。
「いや、わたしら、あの横暴クソハゲ教授に対抗すんのになんとなく共同戦線張ってきたけどさー。卒業したら、このまんまばらばらになんのかなーと思ってさ」
「ふん?」
ジョッキを空けて店員にお代わりを頼んだみりが、箸で皿をちんと叩いた。
「まあ、そりゃあ仕方ないべさ。いつまでも連れションやってるトシでもないべ。したけど、あのハゲクラスのは会社にも必ず一人はいるべさ。あんにゃろ、いつかぶっコロしてやるって愚痴れる相手はいた方がいいっしょ」
「うん! そうだよね」
わたしはなんとなく嬉しくなって、ジョッキのビールを一気に空けた。
「ぷはぁ!」
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