(3)

 しんと静まり返ったテレルーム。待機を解除して、ヘッドセットを付ける。


『クレ担日誌』


 わたしが大学ノートにこさえたメモ代わりの日誌を開いて、そこに今日の日付けと一文を書く。


『受信なし』


 わたしがここに来て二か月とちょっと。その間にクレームの電話を受けたのは、まだ十数件だけだ。一日一件あるかないか。ほとんどはパッケージ不良で、謝罪してお客さまに代品を多めに送っておしまい。たちの悪いクレーマーとか居たら嫌だなあと思ったけど、考えてみれば、こんな零細企業からゼニこを踏んだくれるはずなんかないもんね。手間かかる分だけ、足が出ちゃう。それに、わたしは基本的に取次ぎをするだけで、最終判断をする立場にないもん。そういう意味でもわたしは気楽だ。暇すぎるってのを除けばね。


 考えてみれば。わたしが忙しいってのは会社の一大事。製品に何か重大なモンダイがあったってことだもんね。食品の場合、それは社の致命傷になりうる。わたしが暇で仕事がないってことが、本来あるべき姿なわけで、それを嘆いたところでどうにもならない。


「暇潰しのネタを考えないとなー」


 本でも読むか。眠くならないように、サスペンスものとかさ。あ、そういや、わたしみたいなシチュの推理小説がどっかにあったよなー。


 記憶の糸を手繰る。わたしは国語とか歴史とか、そういう文系科目が苦手で理系に進んだわけじゃない。なんつーか、ぱっきり割り切れないものがうようよしてるセカイがどうにも苦手だったわけ。純文学とか恋愛小説系とか、想像しろー、行間読めーみたいなのは全然だめで、逆に宝探しみたいにキーがあちこちに伏せ込まれてて、それを見つけ出して結論まで一気に踏み込んでく推理小説みたいのは肌に合う。ホームズとかポアロとか、ああ言うのにはすっごいはまったんだよね。


 そうそう、思い出した。ホームズの赤毛組合だ。金庫破りを狙う犯人グループが、銀行の金庫室まで地下道を掘ろうとして、どかちんやってる部屋の真上の住人に作業を勘付かれないよう、そいつを外出させる口実を考える。連中が考え付いたのが、赤毛の人しか入れない架空の団体をこさえてその住人を引っ張り込み、カネを払って現場から離れた場所で意味のない作業をさせることだった。

 まあ、わたしをここに引っ張り出したところで、何か世の中を驚かすような陰謀が進んでるなんてことはないんだろうけどさ。なーんとなく、イメージがだぶっちゃう。


「まぢに、社長に掛け合わないといかんなー。これじゃ、なんぼなんでも暇過ぎ。のんびりも程度問題だよねー」


 ヘッドセットを外して、ラジオ体操を第一から第四までやる。一日中座ってて休憩時間に甘いもの食べ放題だと、あっと言う間にぶくぶくに膨れ上がるだろうなあ。太りやすい体質なんだから、ちっとは用心しないとね。エアロバイクでも持ち込んで、それ漕ぎながらやる? でも、電話して来たお客さんにはあはあ息切らしながら応対したら、そりゃあやばいでしょ。テレクラじゃないんだしぃ。


 一人きりでぽつんと部屋にいると、いろんな妄想やら思い付きが、わたしの口からふわふわと泡のように舞い上がる。それが誰もいない部屋の中でぱちん、ぱちんと弾けて。無音に戻る。ふわわわわ。あー、暇だー。かなん。


 そうこうしているうちになんとかかんとか長い長い午後を泳ぎきって、退社時間に辿り着いた。ぼよんと流れて来るウエストミンスターチャイムの音を聞き流しながら、わたしは電話を待機に変える。録音されているメッセージを聞いて、確認。


『お客さまセンターの受付時間は、平日の午前9時から午後5時までとなっております。お手数ですが、改めてお掛け直しくださいませ。本日は、お電話ありがとうございました』


 よし、と。


 我ながら色気のない声だなーと思いながら、ヘッドセットを外す。やれやれ……とりあえず、今日も終わった。日誌は書き直さないで済んだね。テレルームの鍵を閉めて、事務室の白田さんに声を掛けた。


「お先ですー。鍵お願いしますねー」

「はい。お疲れさまー」

「あれ? 黒坂さんは?」

「ひと足先に帰ったよ」

「そか。じゃあ、また明日ですー」

「はあい」


 わたしはテレルームの鍵を白田さんに渡して、社屋を出た。


 社屋を振り返ってふと思う。まるでわたしは、高野森たかのもり製菓って会社の牧場で飼われてる羊みたいだなあと。広くて、のびのびしてて、自由で。でも一頭っきり。しかも草を食むしかすることがないみたいな。狼が出たら大騒ぎなんだろうけど。そんなことなんか起きそうにない、のどかな一日。


 わたし、何野かのようは、テレルームのある二階を見上げて小さく、一つ、鳴いた。


「めぇー」


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