第一章 牧場の羊
(1)
「ふわああああ……」
眠いー。
もう、何杯コーヒーを飲んだか分かんない。いくらお砂糖なしのブラックで飲んでるったって、こうがぶ飲みしたんじゃコーヒーで太っちゃうんじゃないかって思っちゃう。いや、太ることはなくても、肌が黒くなっちゃうかも。黒羊? うけけ。
自虐的に笑ってはみたものの、眠気が取れるわけじゃなし。わたしはヘッドセットを外して席を立ち、窓に近付いた。ブラインドの隙間から外を見る。薄曇り。もうすぐ梅雨だろうけど、家並みばかりのところじゃ、あまり季節の移り変わりを実感することもない。
「退屈だなー」
ふわわわわ。口に手を当てずに大欠伸をしたら、よだれが床にぽとり。慌ててティッシュで拭き取って、ゴミ箱に放り込む。とほほ。
「ふう」
席に戻って、机の上の冊子を開く。
『想定問答集』
なにやら物騒なタイトルだけど、中身は大したことはない。お客さんからかかってきたクレームの電話にこうやって応対しなさいってのが、ケース別にだらっと列挙されてるだけ。数ページしかない。そりゃそうだよね。こんな小さな会社に、クレーム処理の高度なノウハウなんてあるわきゃないもん。それにしても……。
「アンバラだよなー」
誰もいない部屋で、一人呟いてみる。
「ちょっと早まったかなあ」
いくら就職氷河期でも、もうちょっとまじめに仕事の内容を精査した方がよかったんだろなー。ぎすぎすした大学生活でがっつりストレスが溜まっていたとはいえ、職の決め方が衝動的過ぎたかもしれない。でも、看板に偽りありだよね。わたしがここに入社して、テレルームは二階って言われて、現場見て絶句したもん。なんじゃこりゃって。
事務机が一つ。ちょい時代遅れの電話機が一つ。カールコードの付いた受話器で受け答えするのは面倒だろうって勝手に気を回してくれたのか、ヘッドセットが本体に付いてた。それも、改造っぽいいい加減さで。でも、それだけなんだよね。ほっとんどがらんどうの部屋。わたしゃ、入社当日に辞めようかと真剣に悩んだよ。
わたしが踏み止まった理由。それは若社長の一言だった。
「まだうちの社も過渡期でね。いろいろ試行錯誤して方向性探ってるんだ。悪いけど、協力してくれる?」
わたしを、ひよっこ新入社員としてこき使ってやるって感じじゃなかったんよね。実にフランクでストレート。大学の時にずうっとささくれた世界にいたわたしにとっては、そういうおうようさ、いい加減さがまるでオアシスみたいに感じられたんだ。
まあ、いいや。とりあえずやってみて、だめだったらまた次を考えよう。そう割り切ることにしたの。
ただねー。業務量が多過ぎたら悲惨だけど、なーんもないのもとことんしんどい。駄菓子に毛の生えたようなお菓子を売ってるこの会社じゃ、そうそうクレームなんて付きようがないもん。お菓子にクリーム入ってないから、付かないって? うー、自分のおやぢぎゃぐで頭が痛くなる。
それにしてもさー。一日中ぼけーっと電話の前で座ってるだけなんて、暇通り越して拷問だよ。でも社長の言い方はそれだけやっとけって感じでもなかったし、そのうちまた別の展開もあるんだろうと開き直るしかないよね。
わたしはヒールを脱いで、両足を事務机の上にどんと投げ出した。だあれも見てないから、こーんなことだって出来ちゃうんだよー。今度は裸エプロンで仕事してみよか。風邪引くだけか。ちぇ。
「ふわわわわ……」
◇ ◇ ◇
「ようちゃん?」
テレルームのドアがノックされて、声がした。
「はあい!」
「おやつにしよ」
「わあい! すぐ行きますぅ」
電話の設定を待機に変えて、一階に下りる。社長以外若い人が誰もいないこの社では、あらふぉーのおばちゃんとはいえ、白田さんは若い方だ。決して美魔女とかではないけど、おばちゃんによくありがちな無神経な感じがしなくて、どこか上品でふんわりしてる。
会社の事務関係を一手にこなすばりばりのキャリアだけど、人柄はとってもいい。温和で、決してきついことを言わない。もっとも、それを言う相手がいないってこともあるんだろうけど。あーあ、おばちゃんキャラ絶賛爆裂中のうちのハハと取り替えたいよなー。
「ようちゃん、慣れた?」
「うーん、びみょーですねー」
「だよねー」
白田さんも、普段は一階の事務室に一人きり。たまにアルバイトの女の子が来るみたいだけど、寂しい仕事環境ってことではわたしんとこと変わらない。わたしと違うのは、仕事量だよね。ほとんど一人で事務をこなす白田さんは、本当に忙しそうだ。それでも休憩の時間には、しっかりお茶の時間を取る。それが貴重なコミュニケーションの時間になってる。わたしが入社するまでは寂しかっただろうなあ。
「黒坂さんは、今日は外回りですか?」
「今日は、じゃなくて、今日も、よ。ここにいたってつまんないでしょ」
「はははのは」
黒坂さんは、ベテランの営業さんだ。うちの社に来る前は、大手不動産屋さんの営業部長をやってたって聞いてる。そんな大物が、どうしてうちみたいなちんけな社のどさ回りをやってんのか、よく分かんない。でも、黒坂さんも癖の強い人じゃない。よく笑う、明るいおっさんだ。
白田さんが、生クリームたっぷりのロールケーキを大きめに切って持って来た。わたしはコーヒーを煎れる。
「白田さんも砂糖なしでしたよね?」
「うん。ありがと」
どれどれ、ごちそうになろう。まむまむ。おおっ! おいっしーっ!
「白田さん、こいつぁ張り込みましたねー」
「うふふ、分かる? お取り寄せで、シェ・ヤマグチのをね」
「くぅ、ぜいたくぅ」
天国じゃ。大学ン時は、煎餅一枚確保するのも大変だったからなー。わたし自身もどびんぼーだったし。
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