(3)

 わたしは三冊目のノートをぱたんと閉じて、それを机の上に放り出した。


 確かに社長の予言通り、わたしの周りが急にばたばたと慌ただしくなってきた。社長は、不穏な電話がかかってきたことだけじゃなく、盗聴器を仕掛けられたことも含めて、敵の攻撃が始まったと認識したんだろう。

 社長にとっては、すでに戦争が始まったということ。開戦したということ。でも、巻き込まれたわたしにとってはとまどうことばかりだ。巻き込まれた……。うん、そうなんだよね。わたしは、なんのためにこの戦争の一翼を担っているのかがまるっきり分からない。


 社長を守るため? そんな義理はないよねえ。確かに社長はわたしの雇用主ではあるけど、わたしにとってはこの社が自分の全てじゃないもん。自分の身命を賭してまで社長や会社をお守りするつもりなんて、まるっきりない。自ら立てた社に命運を懸けている社長とは、そこがくっきりと違う。だから、わたしが戦争から撤退するのは簡単だ。ばかばかしい。付き合ってらんない。辞めるわ、こんなとこ。そう言うだけで済む。


 だけど。めんどくさいなーと思いながらも、わたしは辞めるつもりはさらさらなかった。なんで? うん、それはわたしがまだここで何もしていないから。それなのに、尻尾を巻いて逃げ出したくなかったからだ。


 大学で、教授の暴風雨を自分を押し殺して耐え忍んだ屈辱の日々。その間に、自分自身がすっかり磨り減ってしまったこと。わたしは、それが嫌で嫌でたまらなかった。危機的レベルの自己喪失。この前泣くほど悲しかったことは、きっとそれなんだろう。わたしは大学で、自分の課題を先送りしてきた怠け癖のツケをいっぺんに払わされたんだ。みりやぬいのように、きちんと自己主張して生き方を貫く。そういう努力をしなかったツケを、自分の心を削って払ってしまったんだ。


 だけど、今回は大学の時とは違う。だって、わたしはまだ何も分かってないもん。誰が敵か、味方か。敵の狙いは何か。どれほどの危険があるのか。形勢はどうなっているのか。そして……わたしに何が出来て、何をしなければならないのか。何も分かってないんだ。分かってない以上、それをいたずらに恐れてすたこら逃げ出すのは絶対に嫌だった。それじゃ、大学の時と何も変わらない。トカゲのしっぽみたいに自分の心をちぎって投げ捨てて、その隙に逃げ出すのはもう嫌! 絶対に嫌!


 わたしはすでに戦場にいる。戦わないと生き残れない。そう思わないといけない。戦いはまだ始まったばかり。そして、ここはまだ激戦地じゃないんだろう。だけど、そこにいるわたしは戦況がまるで掴めていない。どこが危険で、どこが安全か。自分の進路、退路がどこか。そして、自分の武器は何か。何を目指して戦うべきなのか。これから激しく動くであろう戦況を自ら判断して、自分で戦い方を決めないとならない。


 ぶるぶるぶるっ。思わず武者震いする。


「よおおおおしっ!」


 磨り減って失われた自分を取り戻すために。わたしは逃げ回るのではなく、自分を尖らせて戦おう。それは誰かのためではなく、自分自身のためだ。厳しい戦いに備えるには、現在の状況をもっと正確に把握しないと始まらない。わたしは、さっき机の上に放ったノートをもう一度開いた。そして、それを睨みながらじっくり思案する。


 まず、自分の位置付けとコンディションから見直そう。


 わたしは新兵だ。右も左も分からないまま、いつの間にか戦場に駆り出されている。わたしは、入社してから今に至るまで誰かに教えを授けられたってことがない。つまり軍隊で言えば兵站部隊の見張り役みたいなもので、わたしは特に戦う能力を求められてない。単純作業を淡々とこなしてねっていうだけ。みそっかすの新兵だ。


 そして、わたしには何も武器が支給されていない。丸腰。白田さんの事務。黒坂さんの営業。出木じーさんの機械管理。そういう武器が何もない。自分から打って出るための武器が何もないのは辛いけど、それが今のわたしなんだ。シビアな現状をきちんと受け入れるしかない。今の自分には、剣を握って敵陣に切り込むだけの武器も戦闘能力もないってこと。それだけはしっかり肝に銘じておかないとならない。


 だけど、武器がない代わりに防具は揃ってる。テレルームは、わたしだけの城だ。社長が強固な鍵を整備したから、その城壁は防御力がぐんとアップした。そして肉声ではなく、電話という『橋』を通してやり取りをする権利が認められている。跳ね橋を下ろして通すか、焼き落として遮断するか。わたしが判断して決められるっていうことだ。


 わたしのコンディション。とりあえずはニュートラル。良くも悪くもない。肉体的には健康面の不安はないけど、大学時代に蓄積した精神疲労やメンタルダメージからはまだ完全に回復し切れていない。少なからず手傷を負っている以上、無理は出来ない。無策のままで激戦地に飛び込んでいかないよう、ぎりぎりまで自制する必要があるんだろう。


 ってとこか。とりま、自己解析終わり、と。次は、指揮系統の確認だ。


 現時点で、わたしの上官は社長ただ一人。今のわたしの職務は、社長の業務命令に基づいて行われてる。つまり、わたしが現時点で確実に信用できる人物は、社内では社長だけということだ。


 もちろん、社長がわたしを嵌めたり、捨て駒にしようとしている可能性がないわけじゃない。

 この会社はうんとこさ小さい。だからこそ社長は最初から実績のあるベテランを雇用し、彼らに一人前以上の業務をこなさせている。当然一人でもそのパーツが欠けると、すぐに業務が滞ってしまう。社にとって死活問題になる。その中で、わたしのポジションだけは閑職なんだ。わたしは社にいてもいなくても構わない。だからわたしにわざと危ない橋を渡らせて、へまこいたらクビにするっていう可能性がある。わたしを、体良く捨て駒にしようとしてるんじゃないの? それなら、わたしがここに入れ込む理由は何もなくなる。


 だけど……視点を変えてみよう。社長は、業務を滞らせないようにするために、いつもベテランさんのご機嫌を伺わないとならない。その言動や行動に何か問題があっても、簡単に首をすげかえるっていうわけにはいかないんだ。白田さんが、社長の機嫌を損ねたらうんぬんって言ってたけど、白田さんのこなしてる業務量を考えたらそんなこと簡単に出来るわけないんだよね。あれは、白田さんの謙遜に過ぎない。

 社長は、会社の立ち上げ直後からエンジン全開でぶっ飛ばすために最初から最強のパーツを揃えたって言った。その分、全体を調整して操縦するのがすんごい難しくなってるんだろう。


 でもわたしのポジションは、あってもなくても何の支障もないテレオペだ。今の時点では、わたしは社の運営に何の重責も負ってない。しかも、わたしは社内の誰とも直接の利害関係を持ってない。社長は、そういう人間を手駒にしたかったんじゃないかと思う。ベテランの間に挟まれて身動き出来ない社長が、自分の手足の代わりに動ける遊兵を確保する。それがわたしだったんじゃないかな。


 そのポジションをバイトにしなかったのは、たぶんバイトの身分じゃ誰にも頭が上がんないからだよね。雇用しているのが社長であっても、バイトは社員の誰にも逆らえない。裏返せば、バイトが社員の誰かの傘下に取り込まれた時点で、社長はそいつを制御出来なくなる。敵になってしまうかもしれないんだ。だから社長は、わたしを使い捨てのパーツとして見ているわけじゃないんだと思う。


 まず社長がわたしの正当な指揮官であることを、当座、認めよう。そこがぐらついたら、わたしは本当に身動きが取れなくなる。戦う前に白旗を上げないとならない。当座、と言ったのは、社長がミッションの中身をきちんとわたしに説明していないからだ。社長がまだわたしを信用していないからそういう形になるのか、それとも社長に口に出せない目論見があるからか、それは分からないけど。でも社長からの筋の通った指令が来ない限り、わたしの社長への信頼は限定的なものになる。それはしょうがないよね。


 上官はとりま社長でいいけど。わたしはみそっかすだから、部下はいない。そして、同じ部隊の同僚もいないんだ。

 もちろん、社員としての立場は白田さんたちと変わらない。だけど白田さんたちは、同じ軍ながら別部隊になる。わたしが援軍要請しても、はいそうですかと受けられる立場にはないんだ。別部隊の、しかも上級将校。わたしの立場はひっじょーに微妙だ。みりに突っ込まれたみたいに、みそっかすのわたしが上級将校と同じ扱いなのは、本当は白田さんたちにとっておもしろくないんじゃないかと思う。それなのに、わたしに文句も嫌みも出ないのはなぜか。


 んー。わたしの立場が弱いことを、わたしを屈服させるための切り札にしようとしてる。それしか思い浮かばない。でも、その手のアクションは今のところまだ何もない。わたしの単なる思い過ごしならいいんだけど……。


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