第11話 修行 あつかましい願い
「あつかましいお願いをします。上司がここへ来るまで、あなたの修行に加えていただきたいのです」
かぐやは、胸の鼓動が早くなるのがわかった。
とんでもない申し出だ。入門もしていない、素性のしれない女を、しかも昨夜は突然襲いかかってきた女を修行の輪に加えるはずがなかった。
「いいですよ」
こともなげに伊波が言った。
かぐやは耳を疑った。
近くで佐知の声がした。
「あら、よかったじゃない」伊波との会話の途中で彼女が来ていたのはわかっていた。なぜ、昨夜のようにかみついてこないのかはわからなかったが。
「あなたは、怒らないのですか?」
佐知が笑った。
「あなた、昨日もいったけど、本当に馬鹿ね。師夫が認めると言ったのに、弟子が反対するなんてありえないでしょ」
「それより、あなたのその服、なんとかならないの?まるで裸じゃない」
「そんなことは・・・」
かぐやは体に密着するボディスーツを着ていたから、体の線が嫌でも強調されている。しかし、動きやすいという以外に、この服装をする意図はなかった。
「師夫が目のやり場に困るでしょ。いやらしい女。色仕掛けのつもり?」
「そんなことを言われても、あとはワンピースしか」
「佐知は、厳しいなぁ」
伊波は
「これを着て」
佐知が投げたのは、伊波と佐知が身につけている灰色の道着であった。上衣の襟は4センチほどあって首を滑らかに覆う。ボタンはなく、前に5つずつ、丈夫なひもが左右についていて、一方が丸く、もう一方が結び目になっていてはめ込むことができる。袖はほぼ5分袖になっていて、腕の動きを邪魔しない。下衣はゆったりしたズボンであるが、足首に向けて細くなっており、紐でさらに絞り込むことができるようになっている。日本でよく見る柔道着や空手着よりも、中国の武術服によく似ていた。
着てみると、かぐやの体にぴったりだった。
伊波は正面、東の方向を向くと、両手を広げて顔の前へ持ち上げた。
「始めましょう。わが流派は、
かぐやは訓練所アスラムで、腹式呼吸、調息法、
今は、どうだろうか?かぐやは、伊波の言葉に素直に従おうとしていた。伊波の拳にすべてを否定された時に、自分の拳は死んだのだから。
かつて、世間知らずのお嬢様だった中園有紗は十八歳で死に、特殊工作員かぐやとして生まれ変わった。そして、圧倒的な力と技を手に入れたはずのかぐやも、二十五歳で死んでしまった。・・・今度は、どう変わったらいいのだろう?
苦しいのは、まだ任務が終わっていないことだった。恩を受けた、新しい命をくれた一条や中瀬に報いなければならない。かぐやの中に、使命感だけはかつてのように強く残っている。
だが、武術家としての自信が粉々に砕け散ってしまった今、任務を全うできる自信は失われてしまった。
わたしは、どうしたらいい?かぐやは、自分がとんでもなく薄っぺらな存在に過ぎなかったことを思い知った。頼るべきものは、まがいものの殺人拳であり、盲目的に従ってきた本土政府のための命令だけだったのだ。
「気が乱れていますね」
伊波にはすべて感じ取られてしまう。彼の力量は人を超えている。
「申し訳ありません」
「かまいません。迷い、戸惑う、悩む、うつろう、そのこと自体が修行なのです。何も考えないことを無の境地とはいいません。その境地は、はるかかなたの地平に凛として在るもの。簡単に近づけるものではありません。わたしたちはずっとそこを目指して修行を積んでいる。しかし、近付いているのか時にわからなくなることすらあります。道は長い。焦ることはない、そうやって、むきになって闘う必要もありません。あなたは、すでに無意識の世界でずっと闘い続けているのですから」
伊波の温かい言葉がかぐやの胸に響いた。
かぐやは、もう、否定できなかった。
この人だけが、わたしを、・・・この世でただ一人、理解してくれている。
この師夫の元でなら、もう一度、わたしは生まれ変われるかもしれない・・・
ゆったりと流れていた東の空の雲間から、まばゆい
はらはらと、かぐやの両眼から涙がこぼれ落ちた。両親を失ってから、決して、死んでも、二度と泣かないと心に誓ったはずなのに。
かぐやは、全身を何かで打たれたように感じ、片膝を地面についた。
「迷っています。混乱しています・・・」
素直な言葉が、口からこぼれた。
「師夫、わたしを、・・・お導きください・・・」
涙が再びこぼれ落ちた。
伊波は何も言わなかった。眩しい朝の光の中で、緩やかに、滑らかに動き続けている。下半身は不動のように見えて、的確な移動を繰り返し、上半身は舞うかのように優雅で流麗に動いている。
かぐやは、伊波の動きに、時を忘れて見入っていた。
深く、静かに息を吐き、伊波は動きを止めた。
「いい時間を過ごしました。おそらく、あなたにとっても・・・」
伊波の包み込むような笑顔に、かぐやはまた泣いた。
「はい。ありがとうございます、師夫・・・」
佐知がかぐやに近づいてきて、無言で手ぬぐいを差し出した。
かぐやは頭を軽く下げてそれを受け取った。
顔を拭きながら、物音に気付いて耳を澄ますと、近くの樹林からすすり泣く声が聞こえてきた。
リュウの声だ。
彼はかぐやの後を追ってきていたのだ。そして、かぐやと伊波とのやりとりを聞いて、どうやらもらい泣きしているようだった。
伊波は、履いていた革サンダルの紐を結びなすと、皆に声をかけた。
「朝の、散歩に行きましょう」
「あの、彼のことですか・・・」
かぐやはリュウのことを説明しようとした。
「あなたの熱烈なファンのようですね、彼。純粋でいい。どうせ離れないでしょうから、あなたがいる間は好きにさせてあげましょう」
伊波の言葉に、リュウは喜んだが、佐知は仏頂面だった。
伊波を先頭に、朝の散歩が始まった。
庵をはさんで、かぐやとリュウが使う道と反対側にいくと、それまでの景色が一変した。
ところどころで樹林がばっさり切れて、むき出しの地肌がのぞいている。赤茶けて、もろく、いかにも崩れやすい土質だ。事実、水の流れた跡が深いわだちとなって刻まれている。ひと雨ごとに、大量の土砂を運んでいくに違いなかった。
傾斜も急で、下からは手を使わなければ登れそうになかった。降りるのは、さらに困難な状態である。リュウが思わず、かぐやの顔を見て、これが散歩ですかと、無言で問いかけてくる。
伊波が軽々と跳躍し、崖を駆け降りていった。
あらかじめ決めてあるかのように、崩れにくい、次の跳躍に最適な場所を選んでリズミカルにステップを刻んでいく。
次いで、佐知が飛び出した。数回、バランスを崩すところもあったが、難なく降りていく。
かぐやは先に飛んだ伊波と佐知のステップとリズムを脳裏に焼き付けていた。
最初の跳躍をためらうと、致命的なミスになる。その次のことは、考えている余裕はない。初めは、真似でよい。感じるまま、体が反応するまま、なすべきことをするのみだ。
「リュウ、おまえには無理だ。ゆっくり降りてこい」
リュウに声をかけると、かぐやは思い切って大きく跳躍した。空中にいるのはわずかな時間だが、大きな跳躍のおかげで降りるべきルートの全貌が見えたし、踏むべきポイントの位置もほぼ把握できた。
バランスを崩したのは、1度だけだった。それも、ほんのわずか。
かぐやが伊波と佐知のところへ降り立った時、
「うわぁぁぁ・・・」
リュウの叫び声がして振りかえると、リュウの体が天空を舞っていた。
かぐやにならって、無謀にも飛び込んだに違いないが、このままでは危ない。
かぐやが思う間もなく、伊波が飛び出していた。伊波は、こぶ状に盛り上がったところへ駆け上がると、落下してきたリュウの体を間一髪のタイミングで横蹴りした。頭部を腰よりも下に倒し込み、より確実に打撃するために足刀ではなく、足裏全体を使った力強い蹴りだった。
リュウの体には横回転が加わり、斜め下に密生していた繁みに背中から飛び込んだ。
かぐやはリュウに駆け寄った。
「おい、大丈夫か」
「姐さん、ちょっときつかったす」
「無理だと言っただろう。おまえというやつは、まったく」
「すんません。みんな、簡単そうに降りてくもんだから」
「まともに落ちてたら、大変なことになってたぞ。わかってるのか?死んでもいいのか?」
リュウの表情がゆがんだ。苦しそうだ。
「俺みたいなクズでも姐さんは心配してくれる。だから、少しでも姐さんの役に立つ男に、なりたいんです・・・ダメなことはわかってるんです、でも・・・」
「わかった。わかったから、・・・もう言うな」
かぐやはリュウから目を逸らした。
間違っている。リュウ、間違ってるぞ。わたしにはそんな価値はない。かぐやは怒鳴りつけたくなったが、佐知の声に遮られた。
「どういうつもりなの?ヒーローを気どって死んじゃうのは気持ちいいかもしれないけど、後始末するのは、わたしたちなのよ」
「申しわけないです。すみません」
「今度、こんなことをしたら、いくら師夫が許したと言っても、容赦しないから」
「二度としません。約束します」
伊波が降りてきて、リュウに手を貸して立たせた。リュウの体をあちこち触ると、にっこり笑った。
「丈夫な体だ。落ち方もうまいな」
「助けていただき、ありがとうございます」
「最初の跳躍はとても良かった。第2、第3のステップもいい。問題は、その次だな」
「思ったより滑って、慌ててしまいました」
「そこで体勢をどうすべきか、どんな手が打てたのか、よく考えてください」
「師夫、それでは・・・」
「ゆっくり、よく考えて、答えが見つかったら、また試してください」
「また、迷惑をかけてしまうかも・・・」
「いいですよ。別に。ただし、いつもうまくいくとは限らない。だから、今度は失敗しないでください」
「はい。頑張ります。こんな、何もないクズにまで・・・ありがとうございます」
「あなたには勇気がある。丈夫な体がある。それに・・・護りたい人がいる。たくさんのものを持っているじゃないですか」
「俺は・・・、何もない、人に迷惑をかけるだけの最低のクズです」
「でも、あなたは、変わろうとしている。そのためにここにいるし、命がけでわたしたちについてこようとしている。違いますか?」
「ずっと不安でした。仲間と馬鹿やってても、どこか醒めていて。どうしたらいいか、わからないまま、沖縄も急に独立とかしちゃうし、やけくそになりかけてました。ドラッグのやりすぎか、暴走して交通事故で死んでもいいなと本気で考えてました。そんな時、姐さんと出会って、こてんぱんにやられました」
「それで、目が覚めたのですか?」
「殺されると思いました。すごい早業で、お仕置きだとか言って、俺たちの一番大事なところをちょんぎっちゃうし」
かぐやは、思わず声を上げた。
「あれはな、口封じのためだ。それに、ちょっとだけだろ、切ったのは」
「それにしてもすごい迫力で、すごい冷たい態度で・・・俺たちは切り刻まれる。こんなきれいな顔をしてるけど、鬼みたいな女に殺されるんだと観念しました」
「鬼とは何だ、鬼とは」
「姐さんをここへ送ることになって、逃げることもできないし、俺は覚悟を決めて、最後まで姐さんについていくことに決めました。どうせ、どこかで野垂れ死ぬだけのクズですから、どうなってもいいって。それに、姐さんがどんな人なのか、すごく興味がありました」
「鬼娘とクズ男か、いいコンビね」佐知の言葉は、相変わらず辛辣だった。「おまえはもう庵に戻って。師夫とわたしはこれから先が長いんだから、おとなしく待っていなさい」
「わかりました」
リュウは崖を登り始め、かぐやは師夫と佐知に付いてさらに下の崖へむかった。
3つの崖を登り降りし、川を1つ渡り、庵に戻った時には、2時間以上が経っていた。
かぐやはどうに2人から遅れずにすんだが、両足が筋肉痛になっていたし、二の腕と肩に軽い打撲痛が残った。汗も相当かいていたが、伊波と佐知は慣れているからか、ほとんど汗をかいていなかった。
なるほど、この人たちにとっては、散歩程度の負担なのか。
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