第10話 修行 琉球王国

 夜が明ける前、暗いうちにかぐやは目を覚まし、身支度を調えた。

 幸い、月明かりが動作を助けてくれる。

 車のシートから抜け出し、懐中電灯を手に取った。月光も、樹林の中までは届かない。 

 足下を慎重に照らしながら、昨日、上り下りした通路をたどってかぐやは伊波の庵へ向かった。

伊波が再び現れたかぐやを見て何というか、見当はつかなかった。冷たくあしらわれるか、無視される可能性は十分に考えられた。

 少なくとも、佐知には、二度と来るなと宣告されている。

 だが、何かに突き動かされるように、かぐやは脚を運んだ。

 どんなに罵られようとかまわない。頭ではない、理性ではない、今まで自分の内に存在しなかった何かがそう決めている。伊波に会いにいくという、かぐやの決意は変わらなかった。

 かぐやは昨夜と同じルートをたどり、庵が見える樹林に行き着いた。

 東の空には赤みが差し、空全体に明るさを広がってきている。

 庵の前を見ると、伊波が立ち、東の空を眺めていた。夜明けとともに修行を始めるのではないかという、かぐやの予感は当たったようだ。

 かぐやは樹林を抜け、伊波に近づいた。

「来ると思ってました」

 伊波の声は穏やかであった。

「申し遅れました。わたしは中園有紗といいます。訳あって、かぐやと呼ばれています。今日は、お願いが2つあってまいりました」

「何でしょうか?」

「1つは、3週間後、わたしの上司があなたをお訪ねしたいと言っています。何か、特別なお願いがあるようです」

「あなたは、それが何か、聞かされていないのですね」

「はい、わたしは・・・聞いていません」

「卑下する必要はありません。軍の中ではよくあることです」

「なぜ、軍だと」

「あなたの使う拳には、米軍の近接格闘術の動きがありました。それに、ロシア軍のシステマやイスラエル軍の格闘技も。あなたは、それを見事に自分の技として昇華させている。始まりはお仕着せの武術の寄せ集めであっても、すべてはあなたの流儀となっている。感心しました」

「わたしは、己の未熟さを知りました。正直、ショックでした」

「あなたの技量が劣っているわけではありません。単純な力こそ、わたしの方があるかもしれませんが、筋肉のしなやかさ、関節の柔軟性、跳躍力、すべてわたしが劣っています」

「ご謙遜を。真正武術大会の真剣勝負で何度も優勝されたと聞きました」

「あなたの上司は、相当の地位にいる人ですね。わたしのそんな昔話まで知っているとは」

「会っていただけますか?」

「さぁ、わたしは見ての通りの風来坊で、しがない修行者です。風に吹かれる塵芥ちりあくた川面かわもに落ちた枯れ葉のようにさすらっていますから」

「でも、沖縄にはいらっしゃるんですよね」

「ええ、沖縄を出るのは難しいことになっていると、佐知から聞いています」

「沖縄が日本政府から独立宣言したことはご存知なんですね」

「少しだけです。こういうところにいると、特に変わりはありませんから」

「でも、米軍の最高司令官や駐日大使が拉致監禁され、沖縄の政府機能を制圧する軍事クーデターが起こっています。自分のふるさとである沖縄がそんなことになって、気にならないのですか」

「では、あなたに質問したい。独立して、どうするんでしょうか?沖縄は何の資源もない、どちらかといえば貧しい地域ですよ」

「法整備をして、自由貿易国を目指すそうです。あるいは、国際金融センター、タックスヘイブンの国を」

「莫大な資金がかかる話ですね」

「黒幕がいるのは、間違いないです。わたしの上司はおそらく、彼らに思い通りにさせないために動いています」

「日本政府のためですね。沖縄の人のためではない」

 伊波の声は冷めていた。

「では、中国に沖縄を差し出すのですか?」

「それが沖縄人の選択ならば、それでいいでしょう」

「あなたは沖縄人として、日本への帰属意識とか愛着はないのですか?」

「今はなんとも言えません。ただ、本土政府が沖縄にしてきたことを許しがたいと思っている沖縄人はたくさんいます」

「基地問題ですか、太平洋戦争の沖縄戦のことですか?」

「戦争についていえば、間違いなく、そうです。本土決戦の時間稼ぎとして、捨て石として、沖縄は本土の犠牲にされました。多くの民間人が、時間稼ぎのためだけに銃弾の雨を浴び、火炎放射に焼かれ、味方と思っていた日本の軍人に、自決を強要されました。民間人が20万人、4人に1人が命を奪われました。これは国家による虐殺です」

「では、なぜもっと早く怒りの声を上げなかったのですか?こんなことになる前に」

「あなたは琉球処分という言葉を知っていますか?」

「いいえ」

「では、沖縄がかつて独立国だったことは?」

「知りません。すみません」

「本土の人が、沖縄の歴史に興味がないのは昔からです。あなたが知らないのも、無理はない。・・・沖縄は15世紀に尚巴志しょうはし王という人物によって統一され、琉球王国が成立しました。中国や台湾などと交流し、450年もの長きに渡って王国は存続しました」

「沖縄は元々、独立国だったのですか?」

「そうです。中国とはもっとも親密な関係でしたが、吸収されることなく、独立国を保っていました。中国は朝貢ちょうこうしてくる周辺国に対して、大国のおおらかさとプライドを持って接していたのでしょう。尚巴志王は明の皇帝からシャンの名字をたまわっています。血迷った豊臣秀吉が朝鮮の征服を足がかりにして、明をわがものにしようと出征した時には、王国に協力を命じました。しかし、琉球王はこれを拒否しました。明への義を貫いたのです。ほどなく、秀吉は野望の一部すら果たすことなく世を去り、琉球王国は生き残りました」

「では、王国が崩れたのは?」

「17世紀に、九州から薩摩藩が3千とも言われる兵を率いて、奄美大島、沖縄本島に攻め入って首里城へ迫りました。破れた琉球王尚寧しょうねいは和睦を申し入れ、それ以降、琉球は薩摩藩に属することとなりました。もっとも、薩摩藩の完全支配になったわけではなく、琉球王は、明に変わった中国の清に対しても朝貢を続け、なんとか独立を維持していました。それが、明治になると、明治政府が強引に鹿児島県に組み入れて琉球藩を廃止し、新たな支配者として沖縄県令を送り込んだのです。琉球王尚泰しょうたいに抵抗する力はなく、東京への移動命令を受け入れました。彼は飾り物の華族の称号をもらい、琉球王国は滅びました。これが、明治政府による琉球処分です」

「明治政府による、強圧的で、一方的な支配ですね。清は、どうしたんですか?まさか、琉球が奪われるのを、指をくわえて見ていたのですか」

「中国にとって、琉球や朝鮮は支配下の属国であり、国の一部でした。そこへの侵略があれば、全力でこれを阻止します。秀吉の朝鮮出兵が失敗に終わったのも、中国軍、当時の明軍の支援があったからです」

「琉球に、清は?」

「当時の中国は西洋列強の侵略にあえぐなど、中にも外にも大きな問題をかかえていて、とても手が及ばない状況だったのでしょう。そして、日清戦争でのまさかの敗戦です」

「完全に手を引くしかなかった、と」

「そうです。政治的には、まったくそうです」

「心情的には、奪われた、盗まれた、と感じているわけですか」

「そもそも琉球処分そのものに、合理性、正当性がなく無効である、琉球は尖閣諸島を含めて、古来からの中国の領土だと主張する軍人や政治家は今でも少なくありません。日本人が知らないだけです」

 伊波の目が少し険しくなった。

「沖縄の人々の思いや、気持ちはまるで無視されていますね」

 伊波は、うなずいた。

「本土政府の暴力に蹂躙じゅうりんされ、中国からも見捨てられてしまった。その、怒りや悲しみ、やりきれなさ、むなしさは、表現しがたい複雑な思いとして、深く静かに、しかし決して消えることのない痛みとなって沖縄人の心の奥底に存在し続けているのです。不満や怒りの声を静かに飲み込み、心の底に押し込んでしまうのは、悲しいかな、わたしたち沖縄人の習い性になってしまった」

「しかし、今回は、その声なき声が、ついに沖縄国独立宣言となって現れたんじゃありませんか?かつての宗主国である中国が支援し、軍事力を貸す。沖縄人は琉球王国がそうであったように、独立国に復帰する。沖縄人は自信と誇りを回復することができる」

「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。今のわたしにはわかりません」

「ですから、わたしの上司に会って、話を聞いていただきたいのです。きっと、多くの情報をもってここへやってきます」

「本土政府の言い分を聞いて、何がわかるのでしょうか?」

 かぐやは、彼の穏やかで落ち着いた物腰、言葉の中にも、強烈な怒りや憎しみが渦巻いているのを感じ取った。

 中国に対しても、本土政府にたいしても、そして沖縄人に対しても。

「正直に言えば、あなたを納得させられる話になるか、そこまで、自信はありません。でも、わたしは上官を信頼しています」

「あなたは軍人として上官の命令に忠実に従っている。でも、考えたことはありませんか?その命令は本当に正しいのか?その命令を果たすことは、誰のためになるのか?」

 伊波に尋ねられて、かぐやは言葉に詰まった。

 命令、指令とは自分にとって何なんだろう?

 絶対のものではない。だが、それがなければ、今の自分は何だろう?

「命令は、今のわたしのすべてです。何の疑いも、迷いも感じたことはありません」

 自分で話しながら、それは本当だろうかと、かぐやは自分の心を疑った。

 自分の中に、昨日から違うかぐやがいる。今までのかぐやと、昨日からのかぐや、2人のかぐやがいる気がする。かぐやは、混乱した。

 伊波は寂しげに笑みを浮かべた。

「それは、最も幸せなことであり、最も不幸なことですね」

「どういう意味か、わかりません」

 かぐやは強気を装ったが、内心は大きく乱れていた。

 最も困難な命令に嬉々として従い、必要とあれば、何の迷いもなく、人を殺してきた。緊迫した状況を楽しみ、成就感、達成感、充実感を感じてきた。それの、どこがいけないというのか。自分は全力で、軍のため、国のために尽くしたのだ。

 だが、なぜだか、昨日、伊波の拳に触れたとたん、すべてが消えてしまった気がする。一瞬にして、無になってしまったと感じた。

 そして、悲しい拳、空しい拳という言葉が胸に突き刺さり、どんなにしても抜けなかった。

「あなたを否定しているのではありません。あなたは素晴らしいものを身につけている。あなたは軍人として、信じるもののために、命がけで行使している。ただ・・・」

 伊波は言葉を切り、最後まで言わなかった。

 後は自分で考えろというのだろうか。

 いいや、自分は軍人だ。軍の力で、軍の存在で救われた。いま、こうしていられるのは軍のおかけだ。かつて、生きる意欲を失って、自分自身に関心をなくしてしまった時、何もしてくれない警察、無責任なマスコミ、欲望に狂ったネット民、すべてに絶望し、18歳でありながら衰弱死寸前であった。

 そんな自分を救ってくれたのは、防衛省に勤める叔父の一条準哉だった。彼は、自分の政治力を最大限に利用し、かぐやをマスコミやネットから隔離し、護ってくれた。そして、当分、世間に出なくてすむように防衛省でもごく限られた幹部しか知らない極秘訓練施設に預けてくれた。この異例の措置のおかげで、かぐやは救われ、自ら志願して訓練に励んだ。かぐやがたぐいまれな武術の才能を発揮させ、施設開設以来の逸材に育ったのは、偶然の産物だ。

 一条はかぐやの異能ぶりに驚き、かぐやの希望を何度も確かめた後、部下の中瀬にかぐやを託した。防衛省防衛政策局諜報特務課の特殊工作員、コードネーム「かぐや」はこうして生まれた。

 伊波は、かぐやが思いを巡らせているのをじっと見守っていた。

「今のわたしには、命令を実行するしかないのです」

「そうですね。変な言い方をして、申し訳ありません。あなたを困らせるつもりはありませんでした。さきほどの申し出については、よく考えてみましょう。・・・ところで、もう1つのお願いとはなんですか」

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