第8話 恩納岳 謎の男

 その時、かぐやが潜んでいた樹林の辺りで鈍い音がして、聞いたことのある男のうめき声がした。

 リュウだ。なんだ、何をしているんだ。

 リズムを乱されたかぐやは庵の女から離れて間合いをとった。

 リュウを振り返る余裕はない。何が起こっているか、感じ取るしかなかった。

 かぐやは息を整え、全身の感覚を研ぎ澄ませた。リュウの息づかいは荒い。血を流している気配はない。だが、凍り付いたように動けないでいる。なせだ?

 かぐやがさらに気配をつかもうとした時、耳元でまったく知らない男の声が響いた。

「危ないものをもってるな。あの男」

 かぐやは総毛立ち、取り乱してその場から飛び退いた。

 誰の声だ。なぜ、気づかれず、ここにいる。

 パニックになりそうな自分を、かぐやは意志の力で強引に抑え込んだ。

 かぐやの足下に、先ほど見たリュウの拳銃がほおり投げられた。

 誰かが取り上げ、かぐやに気づかれないように近づき、それを足下に投げたのだ。

 かぐやの全身から一瞬、力が抜けた。

「師夫」

 庵の女が呼びかけた。

 かぐやのすぐ隣、薄闇の中、一人の男が立っている。

「拳銃を持った坊やとナイフを下げた若い女。どうなっている?」

「それが、わたしにも」

 庵の女はかぐやをにらみつけた。「この女が、突然、襲いかかってきたんです」

「なるほど、やっかいなことだな」

 男の低い声にはゆとりがあり、どこか楽しんでいるような響きがあった。

 かぐやは不利な状況を認識し、本能的にナイフに手を伸ばした。

 脅威とならば、排除せよ。

 だが、抜けなかった。

 いつの間にかかぐやの正面に回った男の手が、両手の甲を押さえていた。それも、力づくではなく、動かそうとすると初めて感じるやわらかい強さで。

「やめておけ。経穴を押さえてある」

 かぐやは拘束を解こうと体を大きくひねって後ろに下がった。

 さらに右脚を支点に回転し、安全な間合いに逃げようとした。

「いい動きだ。だが、遅い」

 かぐやの胸の前には男の人差し指があった。

 もはや理性を失いかけ、かぐやはありったけの力で動き回り、男に打撃を加えようとした。

「だめだ。無駄が多すぎる」

 すべての動き、打撃が無効化された。男からの攻撃が何も加えられていないにも関わらず。

 世界中から選りすぐられたあらゆる武道、格闘技のエキスパートたちに徹底的に訓練を受け、その誰にも負けない力を身につけたというのに、このざまはなんだ。

 まるで、赤子のように扱われているではないか。

 かぐやは動きを止めた。

 何をしてもこの男には通じない。

 初めて味わう、敗北感・・・

 男はかぐやから離れると、庵の女に穏やかな声で話しかけた。

「佐知、夕飯にしてくれないか」

「分かりました。ほとんどできています。この女が邪魔しなければ、ちゃんと間に合ったのに」

 佐知と呼ばれた庵の女は、憎々しげにかぐやを睨んだ。

「気にするな。少しぐらい」

「この女はどうします?連れの男も」

「何か用事があってきたのだろう。要件を聞いて、帰ってもらいなさい」

「また襲ってくるかもしれません」

「わからないのか?佐知」男の口調が少しだけ険しくなった。「おまえの殺気が、この人の殺気を呼び起こしたのだ」

「それは・・・」

「殺らなければ、殺られると、おまえの拳精が思わせたのだ。違うか?」

「わたしは何もしていません」

「そうかな。おまえは夕闇が迫るこの時刻になると、いつも、命を奪われた大切な人のことを思う。そして、抑えきれぬ怒りの炎に包まれる」

「お分かりになっていたのですか」

「なぜ、わたしがこの時間になると、おまえを一人にすると思う?」

「未熟でした。申し訳ありません。師夫のお心を煩わせてしまい」

「非難しているのではない。自らの心に向き合い、怒りの炎を乗り越えてほしいのだ。それがわが拳の奥義にいたるただ一つに道だからな。だが、わたしもまた未熟者だ。おまえと同じように、怒りの炎を心に宿して生きている。だから、おまえを受け入れ、共に歩み、共に修行に励んでいる」

「ありがたき幸せ」

 佐知は片膝を折り、深々と頭を垂れた。

「この人もまた、修羅の世界にいる。拳を交えたおまえにも分かったはずだ。己を失い、己を殺す拳だ。自らの意思で人を殺すのではない。人に縛られ、命じられてふるう、悲しい、空しい拳だ」

 本能に従うがごとく、条件反射的に襲いかかった自分の拳の正体を、この男はたちどころに見抜いたというのか。

 かぐやは体の中が空白になったような、漆黒の世界が突然、無の世界に変わったような不思議な感覚を味わった。

 他の誰とも違う、この男の拳には、何かがある。

「もういいだろう。入るよ」

「待ってください。わたしは・・・」かぐやはとっさに引き留めた。「わたしの失礼をお詫びしなければなりません」

「気にしないでください。ごくたまに、誰に聞いたのか、腕試しにここへ来る人もいます。あなたのような若い女性は初めてですか」

 師夫と呼ばれた男は、軽く笑って庵の中へ姿を消した。まるで何事もなかったかのような緩やかな動きで。

 庵の前には、かぐやと若い女が残された。

 暗闇が濃くなっていたが、男が庵で灯りをともしたおかげで、辺りが明るくなった。

「時間がないから、手短にお願いね。要件は何?」

 視線を向けると、佐知が、相変わらず怖い顔でにらんでいた。

 気にいらない、初めて見たときから。

 このくっきりした顔立ちも、勝ち誇ったような物腰も。

 すぐに返答しないかぐやに、佐知はいらだった声を出した。

「ねぇ、黙ってないで、早くして」

「あぁ、それは」

 要件・・・要件は何だったのだろう?

「あなた、頭おかしい人?何しに来たのか忘れちゃったの?」

「そんなことはない。わたしはある人の依頼で、あの男に会えと」

「あの男ですって?師夫に対して、失礼にもほどがあるわ」

 佐知が怒鳴った。

「失礼・・・しました」

 とっさに謝ったが、かぐやはむっとした。小娘に怒鳴られるほどのことか?第一、自分はあの男の名前を知らないのだ。それは、わたしの落ち度か?だが、それを口にすると、名前も知らない男をのこのこ訪ねてきたのかと罵られそうで、かぐやは口をつぐんだ。

「で、わたしの師夫に会って、どうしたいの?」

 わたしの、という言い方に佐知の優越感を感じて、かぐやの胸が波立った。

「どれほどの技をもつのか、器量をもつのか、確かめろと」

「は?あなた程度の腕で。笑わせるわね」

 佐知は嘲るように、声に出して笑った。

 悔しい、この女、優越感の塊だ。殺してやりたい。

 かぐやはしぶしぶ答えた。

「もう、十分に分かりました」

「力が及ばぬこと、技の技量、人としての器量、想像を超えるものだったと認めるのね」

「認めます」

「じゃ、用件は済んだわけだ。暗いけど、気をつけて帰ってね。役立たずの彼氏も、忘れずに拾っていってよ」

「彼氏なんかでは・・・」

「どっちでもいいのよ。それから、どうやってここを突き止めたのか知らないけど、誰にもしゃべらないでよ。修行の邪魔になるから。もちろん、あなたも二度とこないで」

「それは・・・」

 かぐやは返答を濁した。今後、中瀬一佐から、どんな指示が出るかわからない。

 それに、先ほど見た圧倒的な拳の力に、かぐやは強烈にかれていた。このまま引き下がることはできないと、かぐやは強く感じていた。

「とにかく、わたしたちに近づかないでほしいの。もっとも、師夫には二度と近づけたりしないけど」

 あきれた。あなたの方がされていたじゃない。

かぐやはむっとしたが、取りあえず今は引き下がろうと考えた。

 かぐやは、佐知から視線をはずし、リュウの倒れているところへ戻った。

「姐さん。すみません。足手まといになってしまって」

 リュウが心底すまなそうな声をだしたので、かぐやは怒る気になれなかった。それに、リュウがどじを踏もうが踏むまいが、今の自分では、あの師夫と呼ばれる男には敵わなかったに違いない。

「立てるか」

「大丈夫です」

 リュウが立ち上がろうと体を動かした時、かぐやの背後から何かが飛んできた。

 かぐやは気配を感じて身を翻すと、その物体をはたき落とした。

「何よ。忘れ物じゃない」

 佐知の声でその物体を確認すると、リュウが持っていた拳銃、ベレッタM92Fだった。

 かぐやはその拳銃を拾い、ようやく立ち上がったリュウに手渡した。

「リュウ、歩ける?」

「大丈夫です」

「暗いから気をつけて」

「ありがとうございます。姐さん。こんな俺を見捨てないでくれて」

「置いていったら、あの鬼娘にまた投げつけられるでしょ」

「そうですね。怖いですね、あの娘、顔に似合わず」

 リュウが歪んだ笑いを浮かべた。

 かぐやはリュウを伴って山を下りて行き、途中で荷物を拾い上げて、麓の軽自動車まで戻った。

「リュウ、悪いけど、何か食べ物を買ってきてくれない。ここで待っているから」

「了解です。姐さん、何がいいですか」

「任せるよ。飲み物も頼む」

 かぐやはリュウに現金を渡した。「目立たないように」

「十分、気をつけます。ガソリンも入れてきますね」

 リュウのような素性のわからない男とこのまま一緒に行動するのは気がすすまないが、害意は見られなかったし、今の状況ではいたしかたなかった。

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