第13話 エピローグ

いつものように、キッチンで夕食の支度をしていた裕子に、学校から帰って来た翔太がリビングのカウンター越しに話しかけて来た。

「俺さあ、今日、監督に呼ばれて、次の大会でベンチ入りすることになったから。」

「そう、よかったわね。活躍してレギュラーになれるようにしなきゃね。」

裕子が手を休めて答える。翔太は手元に目を落としたまま、まだ何か言いたそうにしている。

「どうしたの、何か頼みでもあるの。」

裕子の問いかけに、翔太がはにかみながら小さい声で答える。

「あのさ、試合を見に来て欲しいんだ。親父の写真を持って。」

翔太がこんな態度を見せるのは、初めてだった。

健次郎の写真ということに、裕子は心理的に大きな負担を感じた。でも、子供達の将来のためになりそうなことなら、裕子はどんなことでも我慢するつもりだった。それにもう、健次郎はいないのだ。

「いいわよ。バックネット裏の一番前で見ていてあげる。」

「うわー、そこはやめてくれよ。外野席でいいよ。」

翔太の声が明るくなった。

「そしたらさ、俺、おふくろの席に向かってホームラン打ってやるからさ。」

翔太は早口でそう言い残すと、リビングを飛び出し、2階に駆け上がって行った。自分のセリフがあまりに臭くて、きっと恥ずかしかったのだろう。翔太の背中を見送った裕子は、久し振りに感慨にふけっていた。

 ― いつのまにか翔太の背中が広くなったわね・・・まるで父親そっくりの体付きになってきたわ・・・

その感慨の中に、若干の複雑な思いが含まれていることには、裕子は気付いていなかった。

キッチンの冷蔵庫の前にしゃがみこんでいた佳織が、くすりと笑った。翔太が来たとき、佳織は夕食の準備を手伝い、食材を探して冷蔵庫のドアを開いて中を覗き込んでいたところだった。冷蔵庫の陰にいた佳織に、翔太は気が付かなかった。

その佳織が裕子の方をふりかえりながら言う。

「翔太のやつ、なんか、がらにもないこと、言っちゃって。」

「そんなこと、言わないのよ。」

「ねえ、わたしも一緒に見に行く。いいでしょ。」

「そうね、みんなで見に行こうか。あなた達がまだ小さかった頃のように。」

裕子は少しだけ遠い目をして言った。

「さて、夕食の支度しなきゃ。」

裕子は独り言を呟いて現実に立ち返った。

「そうだ、お供えを交換しておかなきゃ。」

裕子はよく熟れた柿を一つ持つと、勝手口でサンダルを履いて、外へ出た。そこは家の北側で、家と塀の間の狭いスペースがあり、薄闇の中に1メートルほどの高さの真っ赤な鳥居と、同じ色の50センチほどの小さな祠が佇んでいた。祠の屋根の一部には、そこだけ補修したらしく、ひときわ鮮やかな朱色が夕暮れに浮かび上がっていた。この小さな祠には、わずかながら供物を欠かしたことがない。

裕子は、祠に供えてあったトマトを取り上げると、代わりに手に持っていた柿を置いた。トマトは傷んでいて、全体の半分以上が陥没して、窪んだところは赤黒い中身が露わになっていた。裕子は、キッチンに戻りながら、そのトマトによく似たものを、最近どこかで見たような気がした。しかし、どこで見たのか思い出せなかった。

裕子は傷んだトマトを、迷わずにディスポーザーに放り込んだ。トマトはディスポーザーの中で粉々に砕かれ、水とともに真っ暗な水道管の中を、どこへとも知れず流されて行った。

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家に憑くもの sirius2014 @sirius2014

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