第10話 2Fの夫
裕子は階段を上がりきると、振り向いて今上って来た階段を見下ろした。踊り場には、無表情の健次郎がナイロンロープを手にして立っていた。健次郎は裕子を見上げると、階段に足をかけた。裕子は体の芯から這い上がって来る恐怖と闘いながら廊下を走り、寝室に飛び込んだ。シリンダー錠のシリンダー部分を押し込んでロックする。
一息ついた裕子は、ドアに寄りかかったまま、へたり込んだ。一時的に緊張が緩み、自然と涙が溢れて来る。しかし裕子はすぐに自分を奮い立たせた。
― とりあえず、これで一安心。鍵が無ければここでは入ってこられない。
― でも、まだ終わったわけじゃないわ。
― これからどうしよう、携帯電話は、バッグに入れたままリビングに置いてきてしまった。
そう考えたとき、背後のドアノブが回される音がした。裕子は飛び跳ねるようにしてドアから離れた。外からドアノブを回そうとしているが、鍵がかかっているので回らない。しかし、その音を聞きながら裕子は、自分が再びパニックになりそうになっていることに気付いた。
― 落ち着かなきゃ、大丈夫、鍵がかかっている。入っては来られない。
― そうだ、ベランダだ。ベランダから大声を出そう。恥ずかしいなんて言っている場合じゃない。
裕子は窓に駆け寄り、サッシを開けようとした。しかし開かない。
― いやだ、鍵をかけてあるんだ。慌てちゃだめ。パニックになったら助からない。
裕子は自分に言い聞かせながらサッシのクレセント錠を開けようとした。しかし、錠はまったく動かない。
― ロックね。防犯上、いつも錠をロックしてあるんだった。
サッシの錠のすぐそばに取り付けてあるスライド式のスイッチを上に上げれば、錠のロックが解除できる。
ノブを回すせわしない音が止まらない。裕子はドアが開いてしまうのではないかという不安に駆られて、何度もドアを振り返りながら、スライドスイッチを動かそうとした。しかし、スライドスイッチもまったく動かない。
― どうして! いつもロックしたり解除したりしているのに、どうして今だけ解除できないの!
裕子はパニックに陥りそうになりながら、しゃがんでスライドスイッチを覗き込んだ。スイッチをスライドさせる隙間に、何か小さな円筒形のものが挟み込まれていた。
― なんなの、これは。何が挟まっているの!
裕子はその円筒形のものを見つめ、それが何かをやっと理解した。
それは、爪楊枝の頭の部分だった。爪楊枝の頭の部分が、スライドスイッチの隙間にがっちりと挟み込まれ、スライドできないようになっていた。
裕子は、キッチンで健次郎が咥えていた爪楊枝を思い出した。その時、裕子の背後でドアの鍵が開けられる音がした。裕子は反射的に180度体を回して、ドアに向き合った。ドアのシリンダー錠は、中心のシリンダー部分が飛び出し、開錠されていた。
― 『あれ』が鍵を持ってる。
― どうして。どうして『あれ』が鍵を持っているの! どうして!
裕子はサッシに体を押し付け、寝室のドアを見つめた。ドアがゆっくりと開いて行く。
ドアが開いた入口には、真っ赤な顔の健次郎が、両手にナイロンロープを持って立っていた。
もう裕子に逃げ場は無かった。裕子にできるのは、ロープを手にした健次郎がゆっくりと近づいて来るのを、恐怖に凍りついたまま、眺めることだけだった。
「あなたは誰なの・・・どうして・・・」
恐怖に耐えかねた裕子が震える声を絞り出す。しかし、返事はない。
裕子の目の前に立った健次郎は、ゆっくりと裕子の首にロープを巻きつけた。凍りついた裕子は、抵抗することができなかった。そのとき、裕子は視界の隅に、何かが現れるのを感じた。
視点を定めた裕子の目には、さらに信じられないものが映っていた。開け放たれた寝室の入口に、もう一人の健次郎が立っていた。裕子の表情に生気が蘇る。
― 夫が来てくれた!
昨日の翔太の言葉が耳に蘇る。
―― 「あいつは、自分が化けた相手が現れると、消えるんだよ」 ――
― 助かった!これで『あれ』は消える!
「あなた、来てくれたのね!」
その裕子の声に、裕子の首にロープを巻いていた健次郎が、慌てたように寝室の入口を振り向く。寝室の入口に、もう一人の自分が立っているのをみて、驚愕の表情を浮かべる。健次郎は裕子の首に巻こうとしていたロープから手を離し、寝室の入口の自分に向かって、数歩歩いたところで、立ち竦んだ。
寝室の入口の健次郎の顔が、細かく震えだしたのだ。そのまま健次郎の顔は、筋肉がほどけて行くように、震えながら位置を変えて行く。口が開き始める。顔がめくれあがるように、大きく口が開いて行く。口が顔全体を占領して行く。毒々しい黒みがかった赤い色が、顔全体を覆って行く。
裕子の側に立つ健次郎の顔に、激しい怯えの表情が浮かぶ。裕子も健次郎同様、激しく動揺していた。しかしそれは、健次郎とはまったく異なる理由からだった。
新たに現れた夫の方こそ、佳織と翔太が言っていた『あれ』だった。
― それでは、わたしを絞め殺そうとした夫は・・・・本物・・?
― だから部屋の鍵を持っていた・・・
― なぜ、夫がわたしを殺そうとするの・・・・?
寝室の入口に立った『あれ』は、掌を内側に向けた両手を前に突き出した。その、目の前の何かを両手で締め付けるような手つきのまま、部屋の中に足を踏み込んだ。
部屋には大きなベッドが二つ、1メートルほどの感覚を置いて並べてある。裕子と健次郎のベッドだ。健次郎は、そのベッドの間の隙間に入りこみ、その突き当りまで行くと、そこにある小さなリビングボードに背中を押しあててしゃがみこんだ。一歩一歩近づく『あれ』を見ないようにするためなのか、頭を抱え込んで膝の間に顔を埋める。それは、昨日リビングで裕子と健次郎が電話で話しているときの、佳織の姿勢にそっくりだった。
「やめろ、こっちに来るな・・・やめろ・・・」
健次郎が弱々しく口の中で呟くのが聞こえる。裕子はその様子を、サッシに張り付いたまま、ただ凍りついたように見ていた。
『あれ』が頭を抱えてしゃがみこんだ健次郎の前に立つ。頭を抱え込んでしゃがみこんだ健次郎に、『あれ』が覆いかぶさって行く。裕子の神経が辛うじて耐えられたのは、そこまでだった。
その映像は、裕子の視界で180度反転すると、暗闇の中にフェードアウトして行った。裕子の神経は、最も安易な場所に逃げ込んだのだ。裕子は意識を失って、その場に崩れるように倒れこんでいた。
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