第9話 1Fの夫
裕子は自分の車であるBMW325のハンドルを握っていた。夫の健次郎は5シリーズを欲しがったが、裕子にとって5シリーズは大きすぎて、取り回しが難しそうだったので、健次郎を説得して、一回り小さなこの車種を選んだ。それでも裕子にとって、3シリーズでも大きかった。今では裕子は1シリーズにすれば良かったと後悔している。健次郎が5シリーズに拘ったのは、単なる見栄だったのだろうと思う。
健次郎には、金銭にしっかりした面と、意地悪く言えば成金趣味のような面が同居していた。おそらくそれは、あまり裕福とは言えない家庭に育った健次郎の生育環境に由来するものだろうと、裕子は見ている。
裕子はその健次郎に腹を立てていた。夫の飛行機が到着する時刻を見計らって、羽田空港まで車を走らせたのに、夫はその飛行機に乗っていなかったのだ。運転中で見られなかった携帯電話に、夫からのメールが入っていた。東京の本社でトラブルが発生したので、予定よりも1本前の飛行機に乗って、いったん本社に寄るという内容だった。空港に着いてから、そんなメールを見ても意味が無い。裕子は仕方なく、自宅に戻ったのだった。
自宅の車庫にBMWを停めると、裕子は自宅のドアを開いた。佳織と同じように、家の中の様子を伺う。
「ここで見たって、しょうがないわね。」
裕子は呟くと、廊下に上がった。リビングのドアノブに手を掛け、一瞬躊躇するが、すぐにドアを開く。正面のソファーには、夫の健次郎が座っていた。健次郎はいつものように爪楊枝を咥え、携帯電話を開いている。
「あら、あなた、脅かさないでよ。」
健次郎は裕子に一瞬目をやると、すぐに携帯電話に目を落とした。
「本社に寄って来るんじゃなかったの。」
裕子の問いかけに、健次郎は携帯電話に文字を打ち込みながら答える。
「ああ、俺が本社に行ったときには、もうトラブルは解決していて、そのまま車で送ってもらったんだ。」
裕子の立っている場所からは、健次郎の携帯電話の画面は見えない。
「それなら、メールでもなんでも連絡してくれれば良かったのに。」
裕子の口調は、どうしても詰問調になる。
「ごめん、つい忘れてたよ。」
健次郎は話しながらも、携帯電話から目を離さない。
「だめね、あなたって。待ってね、今お茶淹れるから。」
裕子はそう言うと、手に持っていたヴィトンのバッグをソファーの端に置き、キッチンに入った。
やかんを火に掛け、茶筒から急須に茶葉を入れる。湯呑を二つ用意しているところで、やかんの湯が沸騰した。
「いけない、沸騰しちゃった。」
裕子は慌てて火を止めると、振り向いてキッチンのカウンター越しに、リビングの夫に目をやった。健次郎は、もう携帯電話の操作を終えて、足元に置いた自分の旅行鞄の中をかき回していた。裕子は、何を探しているのだろうと思いながら、急須から湯呑にお茶を注いだ。お茶を注ぎ終わったところで、背後に人の気配を感じて、後ろを振り向いた。そこには、いつの間にか夫が立っていた。
「どうしたの、いきなり人の後ろに立って。」
裕子は不審の色を隠さずに、詰問調で健次郎に話し掛けた。裕子は、健次郎が咥えている爪楊枝に、ふと違和感を覚えた。
― なにかいつもと違う。
― 何が違うんだろう。
裕子は夫が咥えている爪楊枝をじっと見つめた。違和感の原因がわかった。爪楊枝がいつもより短かった。どうして短いのかと、さらに注意深く見つめると、その爪楊枝には、頭の部分が無かった。頭の部分が折り取られ、ぎざぎざの断面が見えていた。
裕子よりも20センチ以上背の高い健次郎は、無言で裕子を見下ろしている。その表情は、今まで裕子が見たことがないものだった。裕子は気味が悪くなり、再び声を掛けた。
「どうしたの、返事くらいしなさいよ。」
今まで妻楊枝に気を取られて上ばかり見ていた裕子が、目を下に下ろすと、健次郎は両手でナイロンロープを持っていた。
― ああ、さっき鞄をかき回していたのは、これを探していたのね。
裕子がそう思ったとき、いきなり健次郎の両手が動いた。健次郎は両手で持っていたナイロンロープを、素早く裕子の首に回した。そのまま両手でロープを引き絞る。裕子は突然の出来事に半ば茫然としながらも、本能的にロープを緩めようとする。しかし、健次郎の締め上げる腕の方が圧倒的に強い。たちまち裕子は呼吸ができず、血流を停められた頭が猛烈に痛みだし、目の前が暗くなって来る。
― このままでは・・・・殺される!!
裕子は自分が置かれた状況に戦慄した。無意識にキッチンカウンターの上を動かした手に、湯呑が触れる。裕子は湯呑を掴むと、その湯呑の中の熱湯で淹れたお茶を、健次郎の顔にぶちまけた。考えたわけではなく、ほとんど自己防衛本能的な、動きだった。
絶叫した健次郎は、ロープから手を離し、顔を押さえて倒れ込んだ。裕子はまだ薄ぼんやりとしか見えない視界の中で、よろめきながら廊下に出た。崩れ落ちそうになる膝を励ましながら、壁を伝って玄関に向かって歩く。
夫に一体何が起こったのか、あれは、本当に夫なのか、佳織や翔太が言っていたものが、夫に化けているのではないか。
そんな思いが頭の中を駆け巡った。
やっとの思いで玄関まであと数メートルとなったとき、玄関脇の和室に通じるドアから、健次郎が飛び出して行く手を塞いだ。リビングにつながった和室を駆け抜けて、裕子を追い越したのだ。熱湯を浴びた健次郎の顔は、火傷で真っ赤になっていた。
その真っ赤な顔で裕子の前に立ちはだかった健次郎は、裕子を見てにやりと笑った。今までに見たことのない笑いだった。
立ち止まった裕子は、後ずさった。すると、健次郎は足を踏み出した。裕子が一歩下がると、健次郎が一歩踏み出す。裕子は数歩後ずさったところで、2階への階段に飛びついた。
子供の部屋は鍵を取り付けていない。健次郎が、子供部屋は鍵を掛けられないようにした方が良い、と主張したからだった。しかし、夫婦の寝室なら鍵がかかる。
― そうだ、寝室に逃げ込もう。
裕子は、健次郎が追って来るのではないかと、何度も後ろを振り返りながら、懸命に階段を上がった。
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