第8話 リビングの母娘
「何度も同じこと言わせないで。また出たのよ、『あれ』が。」
裕子が電話口で大声を出した。その声は、膝を抱えてソファーに座り、膝の間に顔を埋めている佳織の耳にも届く。佳織の隣には、翔太がいつになく鎮痛な面持ちで座っていた。
「来週、セコムが入るまでの、たったの数日でしょう。どうしてそのくらい会社が休めないの。会社と家族とどちらが大事なの。」
電話口の向こうで、健次郎が何か言っているが、佳織にはその内容まで聞き取れない。
「いいわよ、どうせたいして出世してるわけじゃないんだから。クビになったっていいわよ。わたしの家賃収入だけだって、贅沢しなけりゃなんとかなるわ。」
佳織はぼんやりと聞きながらも、母が父に投げているのは、少しきつい言葉だと感じていた。
「そうよ、『あれ』を見たのは佳織と翔太だけ。わたしはまだ見てないわ。あなた、わたしも『あれ』に襲われてみろって言うの。」
口では母に敵わない父が弁解をしている。やがて父の弁解が一通り終わったらしい。母が満足げに言った。
「そう、良かった。お願いね。羽田は1時過ぎね。車で迎えに行くわ。」
どうやら父が折れたようだった。
「それじゃ、頼むわね。」
裕子はそう言うと、受話器を置いた。
「お父さん、明日戻って来てくれるって。セコムが入るまで、家に居てもらうわ。」
佳織の反応は薄かった。両腕で自分の体を抱え、小刻みに体を震わせている。
翔太が小さな声で佳織に言う。
「親父が家にずっと居たって、大丈夫かどうか分からない。今度は親父が一人のときに『あれ』に襲われるかも知れない。」
「でも、お父さんがずっと居てくれれば、まだ安心だよ。」
佳織が泣き出しそうな声で答える。
「『あれ』は、自分が化けた相手が現れると消えるんだよ。だから、家族全員が揃っていないと危険なんだ。きっと、親父が単身赴任になっていなくなったから、『あれ』は出るようになったんだ。」
翔太が思いつめたように言う。
その様子を見ていた裕子は、小さな溜息を一つついた。
自分はまだ『あれ』に会っていない。もし、自分が『あれ』に襲われたら・・・
裕子は、足元が地面に沈みこんで行くような、眩暈にも似た不安が広がって行くのを感じていた。
健次郎はベッドに座ったまま視線を宙に彷徨わせた。手にはまだ、受話器を握りしめたままだ。その肩に細く、しなやかな指を持った白い手がかかる。白い手がそのまま健次郎の体の前に回ると、背中にぴったりと女の柔らかい体が貼りついた。
真由美は背後から健次郎を抱きこむようにして肩にあごを乗せ、男の首筋に頬をすり寄せ、耳元で囁いた。
「奥さんから?」
健次郎が短く答える。
「そうだ。」
「なんて言ってきたの?」
「また帰って来てくれと。」
「この前帰ったばかりなのに・・・」
「すぐに戻るよ。」
「・・・必ず戻ってきてね・・・」
真由美が健次郎の背中に頬を押し当てる。健次郎は体に回された真由美の手を両手で優しく引きはがすと、体を捻り、正面から真由美を抱きしめた。
「大丈夫、心配しないで。真由美と別れることなんて、俺にはできない。」
「お願い、捨てないで・・・」
真由美が吐息のように声を吐き出す。
健次郎は真由美を強く抱きしめたまま、再び視線を宙に彷徨わせた。その表情は冥く、彷徨っているのは視線だけではなかった。
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