第7話 母
佳織は家のドアを、そっと顔の幅だけ開けた。そこから見える範囲の家の中を見回す。セコムが入るのは1週間後だ。それまでは、自分の身は自分を守るしかないという態度だった。
玄関には、母がいつも履いている靴がある。
「ただいま。」
大きな声で言ってみる。返事はないが、キッチンの方から、包丁で何かを刻む音が聞こえて来る。
「お母さん、いるんだ。包丁の音で聞こえないのかな。」
佳織は呟くと、ドアを大きく開いて玄関に入った。廊下に上がってそのまま廊下を進み、リビングに入る。
リビングからは、カウンターと天吊りの食器棚の隙間からキッチンが見える。
そのキッチンでは、エプロンをつけた母の裕子が、リビングに背中を向けて、俎板の上で何かを刻んでいる。
包丁が俎板を叩くリズミカルな音を聞きながら、佳織は裕子に近づき、カウンター越しに話しかけた。
「今夜のおかず、なに?」
裕子は気付かないのか、返事をしない。
佳織はいやな胸騒ぎを感じつつ、何を刻んでいるのか見ようと、裕子の手元が見える位置に体をずらし、覗き込むように裕子の手元を見た。裕子の包丁は、俎板を叩いているだけで、何も刻んでいなかった。
愕然となった佳織は、カウンターから後ずさった。すぐにソファーに足をすくわれ、腰からソファーに倒れ込む。ソファーに深く腰を下ろした形になった佳織は、そこからキッチンの中の母を見つめた。
包丁が俎板を叩く音が止む。キッチンの中の母がゆっくりと体の向きを変える。佳織の位置からだと、母の首から腰までしか見えない。母はゆっくりと、キッチンとリビングへの出入り口に向かう。佳織はその母の姿を目で追いながら、凍りついたようにその場から動けない。
佳織は自分の予想を信じたくなかった。しかし、その予想は絶対に当たるだろうと思った。
母の姿がいったん冷蔵庫の陰に隠れる。
すぐに、出入り口に母の全身が現れるはずだ。その時には、母の顔も見えることになる。佳織は母の顔を見るのが怖かった。自分の予想が当たるのが怖かった。
リビングの出入り口にゆっくりと母が姿を現す。母の顔は、予想通り、ほとんどが真っ赤な口だった。
悪い予想や予感はなぜかよく当たる。
佳織は絶望的な気持ちの一方で、ぼんやりとそんなことが頭に浮かんだ。出入り口に立った母に化けたものは、手に持った包丁を器用に逆手に持ち替えると、ゆっくりと振り上げて行く。以前、翔太に化けたときは、肘を曲げてシャープペンシルを耳元まで振り上げたが、今度は腕をまっすぐ伸ばしたまま、頭の上まで振り上げて行く。頭の真上まで振り上げたところで、腕が止まる。包丁の切っ先は、佳織に向けられている。母に化けたものの真っ赤な顔が、佳織に向けられる。そのままゆっくりと、リビングに一歩踏み出した。
佳織はソファーの中で固まった。そのとき、リビングから廊下に繋がるドアがゆっくりと開いた。
裕子はレジ袋をぶら下げたままドアを開けると、玄関に入った。玄関には自分の靴にならんで、佳織のローファーが脱いであった。
「あら、買い物に行ってる間に、佳織が帰ってきたのね。」
裕子は独り言を言うと、サンダルを脱いで廊下に上がった。スリッパを履いて廊下を歩き、リビングのドアを開けた。
目の前のソファーに佳織が座っていた。佳織は体を正面に向け、首だけこちらに回して、泣きそうな顔をしていた。
「どうしたの、そんな顔して。」
裕子が声を掛けると、佳織は表情と同じ泣き出しそうな声で答えた。
「おかあさん・・・・なんで玄関に靴があったの・・・・」
裕子は不思議なものを見るような目で佳織を見つめ直した。
「なぜって、サンダルで買い物に行ったからよ。どうしたの、何かあったの。」
裕子は話しながらキッチンに入ろうとして、リビングとキッチンの出入り口に向かった。しかし、裕子は出入り口の手前で竦んだように立ち止まり、驚愕の表情を浮かべて足元を見つめた。フローリングの床には、包丁が突き刺さっていた。それは、たった今突き刺さったように、細かく震えていた。
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