第11話 2階の母娘

「お母さん、しっかりして!目を覚まして!」

暗闇の中から呼ぶ声が聞こえる。裕子の意識は、その声に反応するように、少しづつ覚醒して行く。

「ねえ、お母さんったら、お願い!しっかりして!」

悲鳴にも似たその声に、裕子ははっきりと意識を取り戻していた。目を覚ました裕子は、目にいっぱいの涙を貯めた佳織の顔を、視野に捉えた。

「お母さん、気が付いたの。」

佳織が泣きながら抱きついて来る。まだ半ば意識が朦朧とした裕子は、佳織を抱き返しながら、意識を失う前のことをゆっくりと思い出していた。

「お父さん、お父さんは?」

記憶が蘇った裕子が、周囲を見回しながら言う。

「お父さん?お父さんがどうしたの?」

佳織が体を離して聞き返す。裕子はそれには答えずに、這ってベッドの間を覗き込む。その突き当りのリビングボードの前には、健次郎が倒れこんでいた。手足が不自然な方向にねじ曲がっている。

「あなた・・・」

裕子が震える声で呼ぶ。

 ― これは本当の健次郎なのだろうか。

 ― もし、健次郎が立ち上がってまた襲いかかってきたら・・・・

そんな一抹の不安があった。しかし、その声に佳織が反応していた。

「お父さん!」

ベッドの間に倒れていたため、母に気を取られて気付いていなかったのだ。佳織が健次郎に駆け寄って体を揺する。

「お母さん、お父さん息をしてない!」

佳織が泣きそうな声で叫ぶ。

「救急車、早く救急車を呼んで。」

裕子が細い声で佳織に頼む。佳織はポケットから携帯電話を取り出すと、ベランダに近いサッシに移動して、ボタンをプッシュする。

裕子は、這って健次郎に近づくと、顔に手を近付けた。確かに呼吸をしていない。不思議なことに、真っ赤になっていた健次郎の顔の火傷は、跡形もなくなっている。健次郎の顔は何の感情を表すことなく、その場に横たわっていた。

そのとき、裕子は、健次郎のポケットから携帯電話がはみ出しているのに気が付いた。メールの着信を示すLEDが点滅している。裕子は何気なく携帯電話を拾い上げ、フリップを開いて着信したメールを呼び出した。

そのメールは、真由美という女からだった。メール本文には、ハートマークや絵文字が大量に散りばめられていた。そのメールの文面を呼んだ裕子の表情が変わる。


  奥様は離婚を承知してくれそう?

  こんなにいやがっているのに、いつまでも健次郎さんを拘束して、

  ホントにひどい奥様ですね。

  奥様との話し合いがうまくいくことを祈っています。

  明日は、部屋でごちそう作って待ってます。

  いっしょにお祝いができるといいネ!!


裕子の頭の奥で何かがはじけて火花を散らせた。裕子は改めて受信トレイに溜まったメールのヘッダーを眺めた。着信メールの大部分は、真由美という女からのメールだった。それらのメールは、読むに堪えない幼稚で露骨で赤裸々な内容に満ちていた。裕子の脳裏に、自宅に戻って来たとき、ソファーでメールを打っていた健次郎の姿が浮かび上がる。

裕子は、次に送信トレイを開いた。真由美宛のメールが過半を占めていたが、該当する時間の送信メールは見当たらない。メールの本文を読む気は起らなかった。

裕子は、ふと思いついて未送信トレイを開いてみた。そこには、ちょうどぴったりの時間に作成された1通のメールが保管されていた。裕子はメールを開いて、絵文字が散りばめられた文面に目を通した。(自分宛のメールには、絵文字など使われたことがなかった。)


  とっても良い知らせだ。

  妻は離婚を承知してくれたよ。

  最後の説得が効いたみたいだ。

  これ以上、僕を縛り付けるのは申し訳ないと言ってくれた。

  だからもう安心して。

  明日帰るのを楽しみにしているよ。

  帰ったらこれからのことを話し合おう。

  それから


メールの本文は途中で終わっていた。おそらく、やろうとしていたことが終わった後に、続きを打って、送信するつもりだったのだろう。携帯電話を持つ裕子の手が震えていた。

 ― あれが「最後の説得」だったの。

 ― あんな粗雑な犯行が、ばれないとでも思っていたの。

裕子は、健次郎の携帯電話を握りしめたまま、茫然と立ち尽くした。

「おかあさん!?」

裕子は佳織の呼びかける声で我に返った。

「おかあさん、大丈夫? 具合悪そうだよ。」

「大丈夫よ。」

裕子は佳織に答えながら、健次郎の携帯電話のフリップを閉じ、スカートのポケットにそっと落とし込んだ。

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