第4話 姉

「ただいま~。」

翔太がドアを開けながら、だるそうに言う。家の中は静まり返っている。人の気配は無い。

翔太は玄関から廊下に上がろうとして、いつも玄関の隅に立て掛けてある素振り用の金属バットが無いことに気付いた。

「ちぇっ、またおふくろかよ。」

翔太は母親が片付けたのだろうと考え、小さく舌打ちすると、靴を脱いで廊下に上がった。廊下の突き当たりはキッチンに通じるドアで、その少し手前がリビングへのドアになっている。リビングとキッチンもカウンターをはさんで繋がっている。翔太はスリッパもはかずに廊下を歩き、突き当りのドアを開けてキッチンに入った。

キッチンには誰もいない。キッチンのカウンターから見渡せるリビングも無人だ。

翔太は冷蔵庫のドアを開けると、牛乳のパックを取り出した。パックの口を開き、直接口を付けて飲み込む。母や姉がこの場にいたら、絶対にできない飲み方だった。

その時、天井から足音が聞こえた。思わず牛乳が口の端から垂れ落ちる。

「やべっ。」

翔太は慌てて手の甲で口を拭いた。天井からは、微かに足音が聞こえる。

「ねえちゃん、帰ってたのか。今日は友達と買い物して来るとか言ってたのに。」

翔太が耳を澄ませると、微かな足音に混ざって、金属と木をこするような音が聞こえる。

「あいつ、なにやってんだ。」

翔太は呟くと、牛乳を冷蔵庫に戻した。キッチンからリビングに出ると、さらにリビングから廊下に出た。そして廊下を数歩玄関方向に歩き、階段を上る。

佳織の部屋のドアは閉まっていた。部屋の中からは、相変わらず金属と木をこするような音が聞こえる。

翔太は自分の部屋に入ると、カバンを部屋の隅に放り投げ、ベッドに倒れこんだ。携帯電話を取り出して、いつものサイトをチェックする。そうしているうちに、眠たくなって来る。

翔太は大きなあくびを一つすると、目を閉じた。佳織の部屋からは、不思議な音が聞こえ続けている。

なんだか、その音を聞いていると、眠くなるようだった。

やがて翔太は、全身がベッドにめり込んで行くような感覚とともに、眠りに落ち込んで行った。


どのくらい寝ただろうか。翔太は何かの気配を感じて目を覚ました。

目を横に転じると、ベッドのすぐ脇に佳織が立っていた。

「わっ!」

驚いた翔太が半身を起こす。

「何やってんだよ、俺の部屋で。人の部屋に入るときは、声ぐらい掛けろよ。」

俯いて翔太を見降ろしている佳織の右手には、翔太の素振り用の金属バットが握られていた。それを見た翔太は気が付いた。

 ― あの、金属と木がこすれるような音は、ねえちゃんが金属バットを床に引きずって歩く音だったのか・・・

佳織は無言のまま、ゆっくりと金属バットを振りかぶった。翔太はこれから何が起こるのか理解できずに、大きく目を見開いて佳織を見つめる。

佳織が翔太の頭に金属バットを振り下ろす瞬間、翔太は反射的に跳ね起きてベッドから転がり落ちた。

金属バットが翔太の枕に激しく叩きつけられる。鈍い音とともに、翔太の枕が叩きつけられた金属バットを中心に、二つに折れ曲がる。

「うそだろっ!」

翔太はそのまま転がるように部屋のドアまで動いた。そしてドアに掴まって立ち上がると、佳織を見た。

「いきなり何すんだよっ!頭おかしいだろっ!」

興奮して大声を出す。佳織はベッド脇に立ったまま、ゆっくりと振り向く。ゆっくりと、頭だけを後ろに向けて行く。翔太はその場に凍りついたように、その光景に見入った。

体は向こうを向いたまま首だけをこちらに回し、佳織の顔が翔太の正面を向く。その佳織の無表情の顔が、細かく震える。翔太が見つめる前で、佳織の顔全体が細かく振動しながら、口が開いて行く。顔全体に赤い血の染みが広がって行くように、口だけが大きく開いて行く。

「わわっ、わぇひるちぇぃ」

翔太は声にならない叫び声を上げながら、身を翻して階段に向かった。

 ― やべっ、あいつだ、先週俺に化けてたっていうあいつだ。

翔太は階段を駆け下りる。階段は途中に小さな踊り場があり、そこから直角に右に曲がっている。翔太は、その踊り場で足を縺れさせた。

「わっ!」

翔太は飛び込み前転の要領で、踊り場から階段に向かってダイビングした。そのまま、3回転して階段下の廊下に叩きつけられる。目の前が暗くなり、背中を強打して呼吸が止まる。頭を振って意識を取り戻し、むりやり息を吸っては吐く。立ち上がろうとした翔太は、すぐに床に転がった。右膝にまったく力が入らなかった。

 ― くそっ、膝がいっちまった・・・

なんとか片足で這って進もうとしたとき、翔太の耳に奇妙な音が響いた。

コン

コン

コン

翔太は、ゆっくりとだが、リズミカルなその音の正体を突き止めようと、階段を見上げた。踊り場のカーブから、顔中を真っ赤な口にした佳織に化けたものの姿が現れた。手摺に隠れて胸から上しか見えない。

しかし、翔太にはその音の正体がはっきりと分かった。佳織に化けたものが引きずる金属バットが、階段の段差を落ちて一段下の階段に当たる音だった。佳織に化けたものが、金属バットを引きずりながら、一段一段ゆっくりと階段を下りて来る。

コン

コン

コン

「ひえっ」

翔太は小さくマンガのような叫び声を上げると、玄関に向かって必死に這い進んだ。這いながら進む翔太の目の前の床に、紺色のソックスを履いた足が立ち塞がった。翔太が足に沿って見上げると、金属バットを振りかぶった佳織に化けたものがいた。

「うわっ」

翔太は慌てて体を反転させると、反対側に進んだ。しかし、すぐにその目の前に紺色のソックスを履いた足が現れる。翔太は体を反転させるが、もう這い進めなくなっていた。せめて頭だけでも守ろうと、額を床にこすりつけ、両腕を頭に回し、頭部をカバーする。他には何も考えられなくなっていた。

そのとき、両腕で頭を抱え込んだ翔太の耳に、玄関のドアが開くわずかな音が聞こえた。

翔太は上目使いに玄関を見た。玄関には、背後から強烈な光を浴びて全身が陰になった少女が立っていた。翔太には、それが逆光の女神に見えた。

「おまえ、なにやってんの、そんなとこで。」

逆光の女神が、口を開いた。

「なにをって・・・」

翔太は頭を覆っていた両腕を解き、後ろを振り返った。そこには、誰もいなかった。

ただ、翔太の足元の廊下に、1本の金属バットが転がっているだけだった。

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