第3話 弟

佳織は鍵を開け、勢いよくドアを開いて玄関に入った。

「ただいま。」

いつもの調子で声を掛ける。返事はない。

「お母さん、買い物か。誰もいないんだ。」

靴を脱いでスリッパに履き替え、前を向いた佳織の目に、廊下を横切る翔太の姿が映った。翔太はすぐに視界から消えた。佳織は、翔太はリビングから出て、すぐに階段を上ったのだろうと判断した。

「いるんだったら、おかえりくらい言えよ。」

佳織がつぶやく。

しかし、2・3歩歩いたところで、違和感を感じた。リビングから出て階段を上がるには、いったん玄関に向かって2メートルほど歩かなければならない。玄関に向かって歩けば、佳織から翔太の正面が見えるはずだ。しかし、さっき見た翔太は、突然現れて真横に廊下を横切り、姿を消した。

ありえない。

佳織はすぐに違和感を打ち消した。

 ― 気のせいよ。

 ― 新しい家にまだ慣れていないから。

佳織も翔太に続いて階段を上がった。2階の間取りは、階段から見て一番奥が両親の寝室、真ん中が翔太の部屋、そして一番手前が佳織の部屋だ。階段を上がりきったところで、翔太の部屋のドアが閉まるのが見えた。佳織も自分の部屋に入り、鞄を置くとベッドに腰掛け、携帯電話を取りだした。

友人から来たメールの返信を打とうとしたとき、隣の部屋から大音量の音楽が鳴り響いた。翔太が音楽を聞き始めたのだ。

「あんのやろう・・・」

佳織は憤然として部屋を出ると、翔太の部屋のドアを叩いた。

「ちょっとぉ、音が大きすぎるわよ!近所迷惑でしょ、少しは考えなさいよ。」

すると、音が止んだので、佳織は部屋に戻った。佳織が部屋に戻ると、再び大音量の音楽が鳴り響いた。佳織はさっき以上の勢いで部屋を飛び出すと、翔太の部屋のドアを激しく叩いた。

「いいかげんにしなさいよ!ばかにしているの!」

すると、また音が止んだ。佳織は思い切りドアを開けると、翔太の部屋を覗き込んだ。

「おまえ、頭おかしいんじゃないの。中二病かよ。」

年頃の娘と思えぬ口調で言う。翔太はドアに背を向け、部屋の反対側の机に向かって座っていた。佳織がなおも睨みつけていると、翔太がゆっくりと立ち上がった。

「なんか言いなさいよ。」

佳織が言うと、翔太がゆっくりと体の向きを変え、佳織に向かい合った。佳織は、また強烈な違和感を感じ始めていた。

 ― なにかおかしい。

 ― 翔太がなにかおかしい。

佳織に向き直った翔太は、手にシャープペンシルを握りしめていた。そのシャープペンシルを握った手を、肘を支点としてゆっくりと持ち上げて行く。そのまま耳の横まで持ち上げると、シャープペンシルの尖った先端が佳織の顔に向けられる。

「ちょっと、どうしたのよ、そんなもん振り上げて。」

佳織の声には怯えが滲む。

翔太の口が開き始める。佳織が見つめる中、翔太の口はどんどん開いて行く。蝶番が軋む音が聞こえそうなほど、ゆっくりと大きく翔太の口が開いて行く。口の中は真っ赤だった。佳織は、その赤い色をどこかで見た気がした。

翔太の口はさらに開き、口から上が後ろに傾き始めた。人間の口がこれほど大きく開くものなのだろうか。佳織は茫然とその光景に見入った。

翔太は、もう翔太とは思えない別のものに変わっていた。その翔太に似たものが足を一歩踏み出した。

佳織は激しい恐怖に襲われた。

翔太に似たものは、頭の横までシャープペンシルを振り上げたまま、佳織に近づいて来る。佳織は凍りついたように動けない。恐怖に竦んだまま、茫然と自分の顔にシャーペンシルの先端が近付くのを見つめる。

 ― いけない、これは翔太じゃない、逃げなきゃ。

翔太に似たものがすぐそばまで近づいた。もう一歩で、シャープペンシルを佳織の額に向かって振りおろせる距離になる。

佳織はドアのノブを握りしめたままだったことに気が付いた。佳織は金縛りを振りほどくように、腕にありったけの力を込めた。

 ― 動く、体が動く、逃げられる。

佳織は、全身の力を振り絞って、思い切りドアを閉めた。その勢いで腰から後ろに倒れこみ、廊下に尻もちをつく。両手で体を支えた佳織は、閉めたドアを睨みつけながら、そのままの姿勢で、後ろ向きに這った。制服のスカートが大きくまくれ上がり、とても人に見せられる姿ではなかったが、佳織にそんなことを気にしている余裕は無かった。

なんとか階段の降口までたどりついた佳織は、手摺につかまってやっと立ち上がった。手摺で体を支え、ともすれば崩れ落ちそうになる膝に力を入れ、ドアを振り返りながらやっとの思いで階段を下りる。翔太の部屋のドアはそのまま、動かない。それでも佳織は、今にもそのドアが開いて、あの翔太に似たものがシャープペンシルを振り上げたまま出て来るのではないかと、恐怖にかられた。

やっと階段を降り切った佳織は、廊下の角を曲がろうとして、自分よりも大きな何者かに突き当たった。佳織はゆっくりと上を見上げた。

それは、翔太だった。

佳織は声を出すこともできず、大きく目を見開いたまま、その場に凍りついた。なんとか倒れないよう、階段の手摺にしがみつく。

「なんだよ、失礼だな。どんだけ驚くんだよ。」

翔太が口を開いた。その声と口調に、佳織の緊張が一気に解ける。

「翔太なの、本当の翔太なのね。」

「当たり前だろ、本当じゃない俺がいたら、お目にかかりたいぜ。」

「今、翔太の部屋に、本当じゃない翔太がいたのよ。」

佳織は話しながらも、あれが追って来ないかと何度も2階を振り返る。

「嘘だろ。冗談きついぜ。」

「本当なの、本当にいたのよ。シャーペンで襲いかかって来たの。」

「ふーん・・・」

翔太は半信半疑の態で玄関に引き返すと、玄関に置いてある素振り用の金属バットを手に取った。

「お目にかかってみようじゃないか、本当じゃない俺に。」

翔太はそう言うと、バットを構えたまま階段を上がり始めた。佳織も翔太の陰に隠れるように、腰を引いたまま翔太の後ろに続く。

階段を上り切り、翔太の部屋のドアの前に立った。ためらいを見せた翔太は、ちらりと佳織に目をやると、意を決したように、ドアノブに手を掛けた。一気にドアを押し開ける。

翔太の部屋には、誰もいなかった。

「誰もいないぜ。」

翔太が佳織を見ながらあきれたように言う。

「さっきは確かにいたのよ。待って、ベランダかも。」

佳織は声を押し殺して言う。翔太はバットを持ったまま、ベランダに面したサッシを開き、ベランダを見回す。

「いないよ。まさか、ここから飛び降りたなんて言うなよ。」

「おかしいなあ・・・」

サッシが開き、部屋に吹き込んだ風のせいで、ドアがゆっくりと閉まって行く。

「寝ぼけてたんじゃないのか。」

翔太が憮然としながら、サッシを閉めてドアに向かう。閉まりかけたドアを開けようとした翔太が、突然息を飲んで立ち竦んだ。

「どうしたの。」

翔太の後から肩越しに覗き込んだ佳織の口から、悲鳴が上がった。

分厚い木のドアの、ちょうど佳織の眉間の位置の高さに、シャープペンシルが深々と突き立っていた。

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