第2話 前兆

佳織は、新築したばかりの真新しいリビングの入り口に立ち、キッチンで夕食の支度に取りかかっている母に向かって怒っていた。

「もう、部屋に入るのはいいけど、勝手にわたしのもの、触ったり動かしたりしないでよ。」

「どうしたの。」

母の裕子はのんびりした口調で答えた。年頃の子供が些細なことで切れるのは、もう慣れていた。小さい頃はかわいかったが、多少成長すると、自分一人で大きくなったような顔をして、なにかにつけ親に反抗する。夫が単身赴任で不在の今、子供達の矛先は自分一人に向かって来る。いちいちまともに取り合っていたらきりが無い。

「わたしのミニー、いつもベッドの枕元に置いておくのに、今日帰って来たら、部屋の真ん中の床に落ちてたんだよ。どうしてこんなことするの。」

佳織がまだ小学校低学年の頃、家族で東京TDLに行ったときに買ったミニーマウスのぬいぐるみのことだった。

裕子は首を傾げて記憶を辿った。確かに掃除をするため、今日佳織の部屋に入ったが、ぬいぐるみを動かした覚えは無い。まあ、気付かないうちに掃除機か何かが引っかかったのかも知れない。

「そんなこと言うんなら、掃除くらい自分でしたらどう。あなたが掃除しないから、わたしが佳織の部屋を掃除しているんでしょう。まったく高校生にもなって。」

母の反撃に、佳織はとっさに言い返せずに頬を膨らませた。すると、リビングのソファーに座って携帯ゲーム機に興じていた弟の翔太が口を挟んだ。

「そう言えばこの前、俺が帰ってきたら、机の上に数学の参考書が開きっ放しになっていた。」

「自分でしまい忘れたんでしょう。」

裕子は取り合わない。

「俺が自分で数学の参考書なんか開くわけないじゃん。」

翔太が憮然として言う。

「そんなこと自慢にならないのよ。」

裕子が半ば怒りを込めて言う。

「いつまでゲームなんかしてるの。もうすぐご飯よ。」

形勢不利と見た翔太は、ゲーム機を閉じると立ち上がった。

「晩飯まで庭で素振りしているから、用意できたら声掛けて。」

そう言い残して、リビングから出ると、玄関に置いてある素振り用の金属バットを持って庭に出て行った。

裕子の矛先は佳織に向かう。

「佳織ももう高校生なんだから、少しはご飯の支度手伝ったら。そんなことじゃ将来困るわよ。」

「もう、なにかって言うと高校生なんだからって、お母さん専業主婦なんだからいいじゃん。わたしは、料理が趣味のお婿さんを探すわ。」

「世の中、そんなにうまく行かないのよ。」

わたしだって・・・という続きの言葉を、かろうじて飲み込む。

まだ薄明るい庭からは、翔太が振る金属バットが風を切る音が聞こえる。そのリズミカルな音を聞きながら、裕子は理由もなく、なんとなく不安な気持ちにかられていた。


風呂から上がった裕子は、2階の自分と夫の寝室に入った。ドレッサーに向かって座り、引き出しを開いてクリームを出そうとした。

「あらっ、ないわ、どうしたのかしら。」

クリームが無かった。

買ったばかりの、外国製の高価なクリームだった。夫の健次郎が値段を聞いたら、きっと眉をしかめただろう。

「もう、翔太のいたずらかしら。」

裕子は部屋の中を見回す。部屋には夫の健次郎と自分のベッドが、1メートルほどの間隔を空けて並んでいる。夫のベッドは普段は使わないため、枕まですっぽりとベッドカバーで覆っている。その夫のベッドの枕のあたりに、クリームのビンが置いてあった。

裕子は立ち上がって夫のベッドの枕元に歩み寄り、クリームのビンを取った。

「翔太ったら、後で叱っておかなきゃ。」

裕子はビンの蓋を回してはずした。

「あら?」

買ったばかりでほとんど使っていないにも拘わらず、中のクリームが大きくえぐれていた。裕子はビンの中を覗き込んだ瞬間、小さな悲鳴を上げてビンを放り出した。

床におちてクリームがこぼれ出たビンの中からは、一匹の灰色の虫が這い出していた。

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