番外編・冷たい散歩(エピローグ)
昔の夢を見るのは、調子が悪い証拠だ。
それか、よほど気分がへこんでいるか。たぶん両方だろう。
特に《音楽屋》イシノオが出る夢は、最悪の部類に入る。
あの日の仕事もひどかった。
当時の俺は《光芒の蛇》卿の眷属に潜り込み、イシノオとともに『狩り』に精を出していた。うすら寒い春の夕暮れ、暗い路地裏でのことだった。
「ありがとうございます、ヤシロさん」
と、イシノオが言った。それはよく覚えている。
やつは足元に転がった人間の一人を、その眼鏡の奥から見下ろしていた。まだ死んでいない。ひどく痛めつけられただけで、辛うじて呼吸はしていた。
「この人、残りはぼくがいただいても?」
「勝手にしろよ」
俺はこの悪趣味なメガネの殺人鬼が嫌いだった。
いまでもそうだ。友達じゃなければ殴っている――たとえもう死んでいる人間だとしても。死体を掘り起こしてもう一回殴りたいほどだ。
「新しい楽譜を用意したんですが、どうでしょうね。この人の声、ちょうどよくハマると思いません?」
イシノオは歌うように言った。そんなもん知るか。俺が無反応でいると、やつは生き残った最後の一人の口元に何かを近づける。
そいつ――まだ若い男はこっちを見たが、俺は目を逸らした。
だが、あのときはそれが良くなかった。
「……お兄様!」
そらした視線の先から、誰かが駆け寄ってくる。白いぼろ布の塊のような人影。《光芒の牙》、という。
このとき俺が組んで仕事をしていた、とある魔王の眷属のひとりだ。
「お待たせしてしまいましたか?」
やつは俺の前で足を止めると軽く跳躍し、弾むような声で言った。
「こちらはすっかり終わっていますね! さすがです、お兄様。私は少してこずってしまって」
「そりゃご苦労。今日の仕事は終わりだな。俺はこれで――」
「良かったです。お兄様、今夜のご予定は、その、何か……何かあったりしますか?」
白いぼろ布の塊は、何かを主張するように蠢いた。
「あの。私、美味しいお店を見つけたんです。『碧玉楼』。あの――中華料理、なんですけど。お兄様、お好きでしょう? えっと、なので、だから。……ご一緒にいかがですか?」
「いや」
確かにあの当時、餃子は好きだと言ってしまった覚えがある。
妙な懐かれ方をしていると思った。正直、気分が重い。結局俺はお決まりの台詞を口にする。
「また今度な」
「あ! では、お兄様が教えてくださった居酒屋はいかがでしょう? 私、あそこの――なんと言いましたっけ。焼き鳥? が、とても美味しくて――」
「やめとく」
今度こそはっきりと首を振った。
「食欲が湧かないんだ。吐き気がする」
「そんな。それは――大変です、お兄様の身に何かあったら、わ、わたし――じゃなくてお姉様も悲しみます。お医者様のもとへお連れしますっ。歩けますか?」
「やめろ、いいよ。一人で立てる」
寄ってきた《光芒の牙》を押しのける。気分は良くない、当たり前だ。こんな商売どうかしている。
「誘うなら、イシノオにしろよ。暇だろ、こいつ」
「おや」
イシノオが顔をあげる。その足元で、死にかけた男がうめき声をあげていた。地の底を揺らすような呻き。
「ぼくは遠慮しておきますよ。お二人を邪魔したくない」
ひどい笑顔だ。またしてもぶん殴りたくなる。
「ねえ、ヤシロさん。たまにはお付き合いしたらどうですか? 大事ですよ、そういうの」
「黙れ、《音楽屋》」
これを言ったのは俺ではない。
《光芒の牙》だ。苛立ちの混じった冷たい声――気持ちはわかる。イシノオの本性を知ったとき、だいたいのやつはこういう口調になる。
「余計なことを言うな。いくらお前がお姉様のお気に入りでも殺すぞ」
「おっと、それは大変」
イシノオは快活に笑って、足元の人体を踏みにじる。
うめき声がいっそう強くなる――ぶうん、と空気が震えるような声があがる。
「ん。音階ずれましたね。失敗だな」
言ってから、やつは無造作に足元の男を蹴飛ばした。白い歯が何本か砕かれて、アスファルトに転がる。イシノオはそれに目もくれない。
「ねえ、ヤシロさん。ここはお願いできませんか? ぼくが殺されないように、ひとつ、その子の機嫌をとってあげて――」
いたぶられている男の、うめき声が止まらない。空気が震えている。軽い頭痛。
そこで俺は気づいた。
単なるうめき声ではない。携帯電話のバイブレーション機能にも似た音。
「誰だ?」
俺がそう言ったとき、周囲の時間が止まった。イシノオも、《光芒の牙》も黙り込み、ぴたりと固まった。
「用があるなら、はっきり言え」
このときにはもう、俺はこれが夢であることを完全に自覚していた。
夢を通して、誰かから話しかけられている。そういうエーテル知覚なのだろう。なんとなく、それがわかった。
『実に奇妙な夢だ、《死神》ヤシロ』
イシノオの声に似ていたが、違う。空気を満たして響くような、そんな不思議な声だった。
『いくつかの相反する感情が入り混じっている。珍しい類だな』
「人の精神分析はやめろ。殺したくなる。よく言われるだろ、あんた?」
『まあな』
やつは簡単に認めた。俺はため息をつく。
「名前くらい名乗れよ」
『失礼。私の名前は《焦がれの霊糸》卿。《三弦同盟》の一人――もうご存知だろうが。このような形での接触、失礼する』
「ほんとに失礼だよな」
だが、俺に拒否権はない――この夢の世界は、おそらくこの魔王のテリトリーなのだ。
「で? 俺のプレゼントはどうだった? 余計な駆け引き無しで頼む」
『率直に言うと、非常に助かる。あの《貪婪たる鱗》とかいう三流の首ではなく、きみたちが我々の側についたという事実が』
《焦がれの霊糸》卿は落ち着いていた。
少なくとも、そう思わせる喋り方ができていた。
『はぐれ柳生の《もぐり》のマルタ。《死神》ヤシロ。きみたちの助力はありがたい。まもなく戦争になる――夏が明ければ。《ローグス》と雌雄を決するだろう』
「ああ。俺はそっちにつく。――だが、条件が一つ」
俺はその場に座り込んだ。夢の中ではあるが、こちらも落ち着くのは重要だ。
「《ローグス》には、俺がケリをつけなきゃならない男がいる。《ルービック》って名前だ。そいつは俺がやる」
『結構』
《焦がれの霊糸》卿の声は冷たく、無機質に聞こえる。
『では、成立だ。こちらの陣営の者を接触させる。――だが、我々からも一つだけ忠告を』
「なんだよ。裏切ったらどうのこうの、って話か?」
『違う』
急激に周囲の風景がぼやけていくのを感じた。
夢が終わりかけている。あるいは、《焦がれの霊糸》卿が接触を切ろうとしている。
『勇者狩りに気をつけろ』
――――
「――勇者狩り?」
俺は声に出してそれを繰り返し、目覚めていることに気づく。
耳元で鳴り響くバイブレーションの音は、スマートフォンだ。現実のもの。
「くそ」
目覚ましではない。着信――名前。セーラ・カシワギ・ペンドラゴン。
ひどい気分だ。吐き気がする。《焦がれの霊糸》の野郎、あんな夢を見せやがって。敵対することがあったら容赦しねえ。
だが、しばらく震え続けるスマートフォンを見つめて、俺が思うことは一つだ。
俺はもっと真面目に、丁寧に、「師匠」をやる必要がある。
レベルアップをしなければ。
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