番外編・冷たい散歩(3)
目的の店は、品川の通りから少し外れた場所にある。
小さな看板だけが出ている。一見したところ、なんの店だかわからない。自称「多目的ファッションヘルス」である《プラチナ》はそういう店だ。
俺と印堂は、その店の前で立ち尽くしていた。
マルタはいない。
あいつにはあいつの、やることがあったからだ。
「……ここ?」
印堂はなんとなく不機嫌そうな目で、犬のように鼻をひくつかせる。
「教官、こういうお店、よく来るの?」
「来ねえよ。デリヘルだからデリバリーだよ」
「じゃ、呼んだことあるの?」
「住所まで教えて呼ぶか? そんなアホはジョーだけだ。とにかく、ここに用があるのは――」
「あ!」
耳鳴りがするほど、甲高い声が響いた。
「やっぱりヤシロさん! お店の前でゴソゴソやってると思ったら、もう来てたんだ?」
店のドアが目の前で開いて、派手な化粧の女が顔を出していた。まだ若い――少なくとも、そう見える女だった。
彼女の名は、いくつかある――この店では『ミカ』だ。
そう名乗っているし、俺もそう呼ぶことにしている。
「悪かったな、ミカ」
俺は片耳を抑えて答える。こいつの声は騒がしすぎて鼓膜に響く。
「来るのはもう少し後の予定だったけど、叩き起こされたんだよ」
印堂を見下ろし、ちょっと力をこめて背中をつつく。余計なことをしたのはお前だ、という意味だ。
印堂がそれに気づいたかどうかはわからない。
が、ミカは印堂を見下ろし、また大げさに甲高い声をあげた。
「あっ、すごい! ちっちゃい! 座敷わらしみたい! ヤシロさん、この子どうしたの? ヤシロさんの子供じゃないよね。じゃあ――誘拐? ついにその手の犯罪行為?」
ミカの無遠慮な視線を受けて、印堂はもはや明白に不愉快そうに眉をひそめた。
「……教官。この人、うるさい。誰?」
こういうとき、印堂は躊躇なく初対面の相手を指さす。ろくな礼儀作法を仕込まれていないせいだろう。
「教官とどういう関係?」
真面目に答えようとすれば、やや難しい質問だ。
しかし、俺は迷うことなく断言する。
「別に。関係とかは特にない」
「えええええ! ヤシロさん、なんか私に冷たくない? 私たち、そこそこ長い付き合いでしょ?」
ミカの反応は大げさで、ばしばしと俺の肩を叩いてくる。俺はその手を振り払う。
「期間だけはな。安心しろ。お前と仲良くするつもりはねーから」
「そんなあ。仲良くしようよー、ヤシロさん」
語尾を伸ばすような独特の喋り方。どうもこいつの相手は疲労を感じる。
「ヤシロさん、人付き合い悪いって言われるでしょ」
「公務員とは仲良くしたくねえんだよ。わかれよ」
というより『仲良くしよう』というのはミカが適当に言っているだけのことだ。もっとはっきり言うと嘘だ。
なんとなくわかる。
俺の見解では、こいつは俺のことがかなり嫌いだ。互いに利用できる部分があるから、辛うじて対話できているに過ぎない。
「公務員? ……この人、公務員なの?」
印堂が俺のジャケットの裾を引っ張れば、ミカは能天気な顔でうなずき返す。
「うん。文科省所属の調査員、長谷川ミカです。ぜんぶ偽名だけど! とにかく、よろしく。えっと――」
「印堂。雪音。アカデミー所属」
「雪音ちゃん! よろしくね! もしかしてヤシロさんの弟子? うわー、あのヤシロさんがマジで弟子取ったんだ。これはウケる」
ミカは喉を鳴らしてわざとらしく笑う。
その言葉の調子と動作だけ見れば、完全にピエロみたいな女だ。しかし、ホンモノの公務員であることだけは否定できない。
正確には、エーテル障害事案対策室の職員、という肩書らしい。
やっていることはまさに調査員で、こういう《プラチナ》みたいな店に接近し、魔王に関する情報を得る。
民間ではありえないような予算とやり方で調査をしているので、利害さえ一致すれば強力な情報源になりえる。
「教官、公務員の人に知り合いとかいたの?」
「一応な。ホントに一応。知り合いにいると便利なときも、たまに――ホントたまにはあるからな。この店の情報とか」
「……魔王もこういうお店使うの?」
「正確には、その眷属が使うケースがある。」
魔王はその非合法活動のすべてを単独で取り仕切っているわけではない。
むしろ組織的に行動するのが魔王というものだ。
意識の甘い眷属を一人押さえることができれば、そこから切り崩せる。こういう店はその取っ掛かりにちょうどいい。
「で? ミカ、昨日の電話で言ってた話はホントだろうな?」
「もちろん! 私もねー、ヤシロさんには大活躍してほしいからね」
ミカはバッグに手を突っ込み、かなり分厚い封筒を引っ張り出す。
「はい、これ。今日中に始末つけるんだよね? うまくいくように祈ってあげるからね。ありがたいでしょ」
「うるせーな、お前はホントに……」
俺は閉口する。
こいつの祈りなど逆効果としか思えない。
当てになるのは、この封筒の中身だけだ――俺はそこに入っているものを確認し、うなずく。
とにかく、こいつが欲しかった。
入っているものは、三つ。
第一に顔写真。人相の悪い、黒いコートの男が一人で写っている。トカゲのような頬の入れ墨、サングラスにオールバックときたら、もう堅気でないことは間違いない。
第二に、びっしりと書き込まれたスケジュール表のコピー。
第三には、錠剤。《E3》ではない。これから使うちょっとした薬だ。
「魔王?」
印堂も、俺の手元をのぞき込んでくる。
「その人、今回のターゲット?」
「ああ。《貪婪たる鱗》卿な。《ローグス》って組織の新入りメンバー。で、この店を結構な頻度で利用してる」
「そうそう、《ローグス》ね」
ミカは少しうんざりしたようにその名を繰り返した。
「最近、迷惑してるんだよね。私の仕事も忙しくなっちゃって。円卓財団に後れをとるなみたいな空気あるしさ――ヤシロさん、ガンガン狩っていっちゃってよ。目指せ魔王根絶、これが今月の標語ね!」
「お前、俺を快楽殺人鬼か何かだと思ってるだろ」
「謙遜しないでよ、ヤシロさん」
ミカの薄笑いのような表情は変わらない。作り笑いというより、もう笑うしかないとか、そういう類の笑顔だ。
ちょっとした悪意すら垣間見える。
「噂に聞いてるよ。アーサー王に喧嘩売ったんだって? すごいよねえ。《光芒の蛇》卿を殺して、《嵐の柩》卿を引退させた看板は伊達じゃないね? さすが《死神》!」
言いたい放題、ペラペラとよく喋ってくれるものだ。アーサー王に《光芒の蛇》、《嵐の柩》のことも、思い出したくはない。
一連の事件はいまだに記憶にひっかかっている。小さなささくれのような感じだ。触れられると不快になる。
政府の調査員のこいつには、それが分かっていないはずがないのだ――《音楽屋》イシノオのことだって。
分かっていて言っている。
だから、せめて俺は軽薄な態度で応じる。
「まあ、俺は無敵だからな。こんなサンシタ魔王は敵じゃねえ。だからって俺をスカウトするなよ、お前らとは一緒に仕事したくないからな」
「ひどいなあ。雪音ちゃん、この人の弟子で苦労してない?」
「してる」
「おい、印堂」
「してるけど、楽しい。教官は強いし、いろいろ教えてくれてる」
印堂は無表情のまま、一歩前へ出た。
「だから、あんまり教官をイラつかせないで。私もイラついてくるから。あなたのことが嫌いになってきた」
「あ、そう」
まったくの真顔で言い切った印堂に、ミカは興が冷めたようなため息をついた。
「じゃ、黙っとこうかな。ヤシロさん、かわいい弟子ができてよかったねー」
勝手に言ってろ、と思う。
しかし気になるものは気になるので、俺は印堂に小声で尋ねる。
「……俺、そんなにイラついてる顔してたか?」
「うん。教官、イラついてるとよく喋る。……いまさら気づいたの?」
「マジか」
まさか印堂にそれを指摘されるとは。
これは落ち込む――軽いめまいがした。
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