エピローグ
三人の生徒を置いて、俺は地下室に急いだ。
そうするしかなかった。その部屋こそ《嵐の柩》卿が、「隠し財産」を安置した場所だった。
できるだけ急いだと思う――それでも手遅れだった。
屋敷の地下室は、すでに開け放たれていた。
石の壁が崩れ落ちている。それも、破壊されたものではない。不揃いではあるが、パズルのピースのような形状の壁の残骸を見れば理解できる。この地下の石壁は、これらの破片が複雑に組み合わされることで形成されていたのだろう。
こいつを物理的に壊そうとすれば、相応の時間がかかる。重機の類を使った大工事になるだろう。仮に、俺が知る限り最強の破壊力を持つ《ソルト》ジョーのエーテル知覚を使ったとしても、屋敷ごと吹き飛ばしかねない。
この分厚い壁を突破するスマートな方法は、たった一つだ。
組み上げられた石の配列を記憶しており、なおかつ物体に運動エネルギーを与えることのできる《嵐の柩》卿のエーテル知覚を使うこと。やつが考える面倒くさい『仕掛け』は、どうせこんな構造だろうと思っていた。
そこまでは、俺にも予想できていたことだ。
ただしこのとき、想定の範囲外にあったことが一つ。
「ごきげんよう、ヤシロ様」
部屋の奥、粗末なパイプ椅子に腰かけて、《嵐の柩》卿は優雅さを装って微笑んでいた。天井の小さな電気照明が、彼女の影をいかにも頼りなく壁に投げかけている。
「――ああ?」
俺はさすがに意表をつかれて、どう返答したものか迷った。こんなところで《嵐の柩》卿が待っているとは。てっきり、さっさと金目のものを手に取って逃げ出しているものと思っていた。
これでは、俺がひどい間抜けみたいに感じる。
俺が黙って状況を咀嚼しようと努めている隙に、《嵐の柩》卿はまた口を開いた。
「遅かったようですね。私たち、二人とも」
「そうか」
俺は妙に広く感じる地下室を眺めた。
大して広くもない空間には、何もなかった。ただ、冷えた暗闇だけがある。見るべきものは、せいぜい《嵐の柩》卿が腰かけるパイプ椅子と、空っぽになった本棚とキャビネットがいくつか。そのくらいだ。
「ここに、何があったと思います?」
《嵐の柩》卿は、挑むように尋ねてくる。ずいぶんと強気だ。
「金目のものだろ」
俺は早口に答えた。イラついている。物事があまりにも上手くいかない。これは簡単なピクニックみたいなもののはずだった。
「お前の非常用資金だ。たぶん現金じゃないよな。貴金属とかか?」
「惜しい。本ですよ」
《嵐の柩》卿の言い方は、いつも以上に芝居がかっていた。
「この屋敷の持ち主が所持していた資産です。魔神信仰者であった彼――もしくは彼女が収集していた、古い本」
「大した金になりそうもないな」
「人によります」
わずかに歪んだような笑みを浮かべ、《嵐の柩》卿の目が本棚とキャビネットを見た。そこにあったはずの『本』とやらを思い返しているのだろう。
「私が以前に携わっていた《E4》の精製にも、それらは大いに役立ちました。アーサー王が一冊の本にいくら払ったかご存知ですか?」
知るかよ、と思った。あの男のことなんて興味もない。
「ここに眠っていたのは、未解読の本でした。断絶した過去の黄金時代の知識がそこにあり、寓意と暗号を紐解けば、限りない知識が得られたはずです」
「かもな。で、どこに隠した?」
「この状況で、まだ疑われるなんて」
《嵐の柩》卿は泣くような素振りを見せた。わざとらしい。
「悲しいですね。私はあれほど真心をお見せしたのに」
「ふざけてる場合かよ。お前じゃなけりゃ、誰が持って行った? さっきの壁を突破して」
「どちらもわかりません」
「やっぱりふざけてんな」
「とんでもない。私が崩すまで、あの壁は健在でしたよ。物質をすり抜けたり、空間を飛び越えたりできるエーテル知覚の持ち主がいるのかも。または、そうした集団の誰かが」
喋りながら、《嵐の柩》卿は立ち上がる。
「いずれにせよ、何者かがこの部屋に侵入し、本を持ち去った。そのことだけが確かです。そう。何者かがいた。《ハーフ・ドラゴン》のように、隠された意図を持った何者か」
そうして、彼女は俺の肩越しに背後を見た。射貫くような視線だった――つられて俺も振り返る。気配があった。
「そうでしょう? トリスタン卿」
「――まあ、そうですね」
嫌になるほど爽やかに笑っている男だった。城ヶ峰のクラスの引率で、確かにそのツラは忘れようもない。トリスタン。アーサー王の忠実な手下が、俺の背後から近づいてきていた。
俺はその顔を強く睨んだが、やつはまったく意に介した様子もない。
「何者かがいる。古い時代の、強い知識を求めている何者かが。我々も調べているところです」
トリスタンの野郎は、小さく肩をすくめた。
「本当なら、明日の昼間に余裕をもって調査しようと思っていたのですけどね。さすが《死神》ヤシロさんだ。噂通りの手並み、感服しましたよ」
「嘘つけ。黙ってろ」
《E3》がよく効いているせいか、俺の言葉はひどく荒っぽくなった。そして思考が回りすぎているせいか、余計なことを思い出す。
「――《夜の恩寵》卿が言っていた」
あるいは、やつはその残滓か。ただの幽霊にすぎないのか。
「エーテル知覚のその先、だとさ。怖がっていたよ。やつは本当に何かを見たのかもしれない。魔王になるくらい体内エーテルを増幅させると、どうなるんだ? 何を知覚する? 《嵐の柩》卿、お前はどうだ?」
「悪夢を」
ほんの少しだけ、《嵐の柩》卿の表情が揺れたように思った。
「悪夢を、しばしば見たような気がします。いまではほとんど思い出せません」
「それも嘘くさいな」
俺の周りには、嘘くさいやつばっかりだ。
俺は《嵐の柩》卿と視線をぶつける。睨み合うような形になる。そのまま数秒の沈黙――それを、トリスタンの笑い声が破った。ずいぶんと空気を読まない笑い方をするやつだ、と思う。
「もう、帰った方がいいですよ」
そいつは恐ろしく白々しい勧告だった。
「夜も遅い。明日も野外研修がありますから。彼女たち、しっかり連れて帰って来てくださいね」
「気が進まないな」
「よろしくお願いしますよ」
トリスタンはこちらに背を向けて、もと来た通路を引き返していく。本気であの連中を俺に押し付けるつもりだ。目つきでわかる。あいつは俺がアーサー王と仲が良くないのを知っている。そしてアーサー王がその気になれば、俺なんて簡単に捻りつぶせることも知っている。
最悪の気分だ。
あいつらが面倒臭がられている事実を、こうしてリアルに見せつけられるとは。俺だって面倒くさいし、できれば他人に押し付けたいものを。
「帰る」
吐き捨てて、俺は床に転がる壁の破片の一つを蹴飛ばした。ほとんど動かない。つま先が痛むだけだった。背中から、《嵐の柩》卿の声が追ってくる。
「ヤシロ様」
「なんだよ」
「オリエです」
何を言っているのかわからず、俺は《嵐の柩》卿を振り返った。やつは意図の読めない、薄い笑みを浮かべていた。
「いま思いつきました。私の名前です。私、もう魔王ではありませんから」
「だったら、なんだ?」
「覚えておいてください。勇者になろうと思うので」
「ああ?」
その発言には、ひどく驚かされる。元・魔王の勇者だと。勇者から魔王への転職ならいくらでも耳にするが、その逆があろうとは思わなかった。自分の過去を清算することは容易なことではないし、本当に転職したいなら堅気に戻ればいい。
とんでもないことを言い出すやつがいたものだ。
「自分の立場をわかって発言してるのか」
俺は《嵐の柩》卿――自称・オリエの腹のあたりを指さした。
「お前の体内には爆弾が埋めてある。吹っ飛ばすぞ」
「どうぞ。ヤシロ様の手で葬られるなら、本望です」
「くそっ」
今度は思い切り、壁の破片を蹴り飛ばす。砕けるほどに強く。
「爆弾の話、最初から嘘だと思ってたな?」
「もちろん」
やつは笑みを深めた。
「ヤシロ様がそんなこと、するわけがないと信じていました」
その言葉を聞いたとき、俺は一つの誓いを立てた。
二度とこいつとは組まない。
そして《嵐の柩》卿――だかオリエだか知らないが、とにかくその女と俺はほとんど同時に、声をあげて笑った。クソむかつくことに、タイミングが一致した。それだけだった。
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