第5話

「素晴らしい」

 巨大な化け狼――すなわち《夜の恩寵》卿は、本当に感動しているような声を発した。

「自己犠牲か。美しい魂の形だと思うよ」

 その賞賛は、ある意味でとても無邪気なものだったと思う。もしかしたら《夜の恩寵》卿には、魂というか、精神の形が見えるのかもしれない。だが、俺はその言葉をほとんど聞いていなかった。

 視界の片隅で、《嵐の柩》卿の体が躑躅畑の上を跳ねた。


「おい」

 我ながら、かなり不機嫌な声になったと思う。怒っていた。《嵐の柩》卿め。恩着せがましいことをしやがる。

 城ヶ峰みたいなやつは一人で十分だ。

「《光芒の牙》。手を貸せ。あのバケモノを消す」

 俺はバスタード・ソードを眼前に構える。巨大な狼の化け物の鼻づらへ、切っ先を突きつけるように。思考を加速して観察する。

 よく見てもひどい造形だ。目玉は十個、足が八本。笑ってしまいそうになる。もしかしたらさっきの蜘蛛の怪物とも混ざっているのかもしれない。

 好き好んでこんな格好になろうと思うなんて、やっぱり《夜の恩寵》卿の愚かさも、一度死んだくらいじゃ治らないらしい。あるいは――


「――いま、なにを言った? 《死神》ヤシロ」

《光芒の牙》卿が、苛立ったような声をあげていた。

「笑わせるな。私に命令する権利が、いまさら、貴様に」

「ある」

 断言して、《光芒の牙》卿の返事は聞かない。印堂を一瞥する。

「印堂、セーラと城ヶ峰を見とけ」

「ん」

 印堂の返事はいつもより短い。俺がどんなテンションかわかっているのだろう――セーラの負傷はそう簡単に癒えない。城ヶ峰もまだ動けないだろう。というより、無駄に動かれても困る。

 俺の邪魔だ。

「たまには勉強させてやるよ、お前らにも」


「待て。ヤシロ、貴様」

《光芒の牙》卿が何か文句を言いたそうだったが、構わない。一歩、無造作に見えるように踏み出した。

「お前は俺に協力するしかない」

 そして走り出す。

「なぜなら、いまから俺がこうするからだ」

 まるで無防備に見えただろう。

 巨大な怪物に突っ込んでいく、果敢どころではない無謀な攻め手。まるで城ヶ峰も同然だ。《夜の恩寵》卿の体躯は、軽く俺の倍以上はある。これに対して、致命傷となるような斬撃を見舞うのは難しい。


「正面からか? 勇敢だな」

《夜の恩寵》卿は、四本もある前足の一つ振り上げた。

 この攻撃方法は予測してある。鉤爪はハッタリに過ぎず、実際は触るだけでいい。それだけでエーテル鈍化で俺の突進は止まると思ったのだろうし、実際、その通りには違いない。本来ならば。

「きみの魂は奇妙だな、ずいぶんと捻れていて――」

 いつかのアーサー王みたいなことを言いやがる。偉そうにしやがって。青白い前足が俺の正面から振り回されてくる――だが、そいつが俺に届くことはない。


 冷たい風を感じた瞬間、真紅の衣が俺の眼前に翻った。《光芒の牙》卿は、ひどく憤慨した声でまだ喚いていた。

「決して許さん」

 いくつかの刃が、真紅の衣の内側で閃いた。

「この、悪辣で卑劣な《死神》め」

 罵倒はムカつくが、《光芒の牙》卿の攻撃は的確だった。刃が踊るように回転し、《夜の恩寵》卿の前足、手首のあたりを深く引き裂いた。切断する。

「む」

 化け狼の喉から、唸り声が漏れた。

 これは《夜の恩寵》卿にも意外な攻撃だったに違いない。《光芒の牙》卿の先ほどまでの様子から見て、まさか俺を守るような行動をとるとは思わなかっただろう。

《光芒の牙》卿が俺に激しい殺意を抱いているのは事実だ。

 しかし、それは自分の手で、正々堂々と俺を殺したいという奇怪極まりない願望でもあった。

 だから、こういう局面では俺を守るしかない――《光芒の牙》卿は俺もびっくりするほど異様な思考回路の持ち主だが、それが魔王だ。みんな精神のどこかが壊れている。《夜の恩寵》卿はそのあたりを誤解していた。

 俺はそのまま、加速しながら前進する。

 目的は一つ。


「ぼ」

 と、頭上で空気の爆ぜるような音がした。《夜の恩寵》卿が、大きく裂けた口を開いている。そこから青白い光が溢れた。奔流となって吐き出される。

 こいつを搔い潜るために、俺は必死こいて全速力を発揮したというわけだ。

 この訳のわからない攻撃を食らったらどうなるか、俺は自分の身で試してみたくはなかった。無謀に見えるほどの突進はそのためだ。口から吐き出す以上、近すぎる標的に当てることはできない。


「お前、図体がでかすぎるんだよ」

 俺はありがたいアドヴァイスを《夜の恩寵》卿に与えてやった。

「マジで考え方がお化け屋敷レベルだな。そんなんでビビッて逃げ出すのはセーラぐらいだろ」

 ぎりぎり間に合った。

 頭上を青白い光が通り過ぎていく。俺はさらに踏み込み、バスタード・ソードを一閃させた。前足をまた一本、鋼の刃が断ち切る――追撃はしない。一撃ずつで十分だ。すれ違うように飛び離れる。

 束の間、白い光が直撃を受けた花壇が視界に入った。焼け焦げたような躑躅の花弁と、抉れた土の破片が宙に飛び散っている。あれの直撃を受けると、やっぱり悲惨な目に合うらしい。

 戦術に路線変更なし。作戦続行しかないだろう。


「いくら魂をいじくり回したところで」

 俺は体を翻す。一瞬の停止から、再加速。

「頭を賢くすることはできないみたいだな」

 挑発的に喋りながら、再び《夜の恩寵》卿に接近する。《光芒の牙》卿が何か苦情を叫んでいるが、気にしてはいられない。

「なるほど。きみは見た目の魂の形よりも、ずいぶん強いな」

 呟いた《夜の恩寵》卿が、急激に萎んでいくのがわかった。青白い煙が全身から立ち昇っている。俺の相手をしやすいサイズにまで縮小するつもりか。それだけなく、失った足の代わりに、昆虫を思わせる節足を生やし始めていた。

 機動力で張り合わないと、勝負にならないと思ったか。

 つくづく、ズレてやがる。

「きみの相手にふさわしいよう、私も最適化するとしよう」


「そうか」

 俺は片手をコートの内側に突っ込んだ。

「お前、やっぱり頭悪いだろ」

 引っ張り出すのは、円筒形の道具。こいつは投げて使う。俺は一瞬、フォローのために走りこんできた《光芒の牙》卿に視線を向けた。やつが足を止め、慌てるのがはっきりと伝わってきた。

「あ」

「――悪いな」

 こっちの謝罪は、声には出さない。

 もともとこの道具は、《光芒の牙》卿に対処するために持ってきたものだ。あいつとは、近いうちに埋め合わせをしなければならないだろう。それでも、俺はやる。

 円筒からピンを歯で引っこ抜き、放り投げる――同時に、ジャケットの袖で目を覆った。俺が投擲した円筒は、一瞬の後、凄まじい光とともに破裂している。


 フラッシュ・バンという。

 強い光を発生させる投擲武器で、スタン・グレネードとか閃光弾とも呼ばれることがある。本来なら強力な轟音を伴うことで、聴力を麻痺させる狙いもあるが、俺が今回用意したものはその音量を意図的に無効化してある。

 投擲されたフラッシュ・バンに気づいた《光芒の牙》卿が、悲鳴のような声をあげた。しかし遅い。

「おのれ!」

 苛烈な閃光が、俺たちの周囲を焼いた。《夜の恩寵》卿が何かを叫ぶのも聞こえた。金切り声だ。こいつは効いただろう。

 俺は光の中でも足を止めない。時間が止まって感じるほどに知覚を加速させ、隙を与えることなく接近する。時間を数えて目を開く。

 ずいぶんと萎んだ《夜の恩寵》卿が、躑躅畑の中でのたうっているのが見えた。

 俺は速やかに踏み込み、その胴体にバスタード・ソードを叩き込む。鋼の切っ先は、青白く希薄になった体を易々と断ち切る。


「その体は光に弱いんだよな、《夜の恩寵》卿。まさか自覚がなかったわけじゃないだろう」

 こんなことは、長野で活動する勇者ならば誰でも気づいていることなのだろう。

 例えばそれは、城ヶ峰たちのクラスの野外実習だ。やつらは夜が明けてから、真っ昼間に幽霊の掃討活動を行おうとしていた。

 なぜか。

 アカデミーの連中が気にすることなんて、たった一つしかない。生徒の安全性を高めるためだ。

 また、夜間に幽霊の出現事例が活性化すること。《嵐の柩》卿が屋敷の照明を復旧させてから、やつの書斎にたどり着くまで全く襲撃を受けなくなったこと。《夜の恩寵》卿が待ち構えていた書斎に電気照明がなく、薄暗かったこと。その他にも俺が気になったことはいくつかあるが、だいたいその辺が理由だ。

 つまり俺が立てた予想はこうだ――《夜の恩寵》卿が支配する幽霊どもは、強い光の中だとなんらかの活動障害を起こす。

 この予想が外れていたとしても、やつが視力で外界を認識している以上、フラッシュ・バンの効果から逃れられるとは思っていなかった。体の構造上、咄嗟に目を覆う手段もない。

 なにせこいつの目は十個もある。


「やっぱりお前、頭が悪すぎる」

 俺は苦しむ《夜の恩寵》卿を見下ろして呟いた。

「そりゃそうだよな。死人を完全に幽霊にするエーテル知覚なんて、都合のいいものはそうそう存在しない。お前は《夜の恩寵》卿の言動を真似しただけの、不完全なコピーに過ぎない。そういうことだよな?」

「違う」

 と、《夜の恩寵》卿は、苦悶の声の合間に言葉らしきものを発した。

「我こそは《夜の恩寵》卿」

「思いこむ分には自由だよな、可哀そうに」

「哀れなのは、きみたちだ。後悔するぞ。何を知っている?」

「ああ?」

「きみに、何がわかる? エーテル知覚のその先、真の恐怖を知っているか? 我々は見られている。知られているぞ、気づいていないのか? こんなものでは足りない。もっと、もっと恐怖を身にまとう必要がある」


「あの《夜の恩寵》卿も、こうなっちまうとおしまいだな」

 俺は肩をすくめた。

「与太話はあの世で――」

 言いかけた瞬間、《夜の恩寵》卿は残った足で地面を跳ねた。飛び掛かってくる。苦し紛れの攻撃。遅すぎる。俺はバスタード・ソードを叩き込み、その体を両断した。

 後には、薄く青白い靄しか残らない。

「じゃあな」

 別れを告げたつもりだが、やつには届いていないだろう。ただ、もう一人残っている――気が重いが、仕方がない。大きく息を吐いて振り返る。


「悪かったな、ルカ」

 正しくは、ルカ・ヒースコート、という。

 それは《光芒の牙》卿の人間としての名前だった。あまり人には言いたくないことだが、俺はその名前を教えられたことがある。それ以来、もう魔王の名前なんて知りたくないと思った。

「お前、かなり強くて面倒だから、こっちは準備しといたんだよ。恨むならレヴィを恨め」

 すでに赤い衣は視界に見当たらない。ただ、屋敷を囲む木々の隙間に、長く波打つ金色の髪が垣間見えた気がする。

「今夜は忙しい。また後で来い」

「――許さん」

 木々の間から、震えた声が返ってくる。半分は怒りで、半分は羞恥心だ。

「絶対に許さん! こんな――騙し討ち――もはや我が怒り、筆舌に尽くせぬ」


 やつは魔王らしく妙なところがイカれていて、自分自身の姿を見られることを極端に嫌がる。いつも赤い衣の幻像で全身を覆っているのも、それが理由だ。決して素の姿で人前に出ようとはしない。人前で全裸になるような気分だと聞いたことがある。

 あの赤い衣を剝ぎ取ったのも、拍子抜けするほど単純な話だ。

 やつにとって光とは、粘土や泥のように自在に触ることができるものだ。逆に言えば、「触ることができてしまう」ということでもある。

 太陽光の下でやつがあまり活動したがらないのもそれが理由だ――特に真正面からフラッシュ・バンのような閃光弾の直撃を受けると、ほとんど津波に押し流されたような衝撃を受けるらしい。

 その圧力は、身にまとう幻像を剥ぎ取るのに十分なものだ。実際、前に試したことがある。


「次はない」

《光芒の牙》卿は叫んだ。

 改めて赤い衣を纏うには、ちょっと時間が必要になる。俺はその隙に、軽々とやつを叩きのめすことができるだろう。

「次はないぞ、《死神》め」

「できるならな」

 俺は可能な限りの悪意をこめて、鼻で笑う。そうするべきだと思った。悪党ってのはそういう態度をとるものだ。

「《グーニーズ》に連絡してこいよ。相手になるぜ」

 答えはなかった。

 木々の間で、金色の髪の毛が揺れたかもしれない。そのまま、闇の奥に消えていく。俺はそれを追いかけている暇はなかった。

 躑躅畑を掻き分けて、近づく。

《嵐の柩》卿が倒れたあたりに。


「――やっぱりな」

 俺は笑うしかなかった。

 血が盛大にこぼれている。それだけだ。《嵐の柩》卿の姿は、どこにもない。

「師匠」

 足元をずるずると這いながら、城ヶ峰が近づいてくる。残念ながら、だいぶ回復したらしい。こうやって気持ちの悪い動きができる程度には。

「《嵐の柩》ならば、師匠に『よろしく』と言っていました。意外に挨拶のできる魔王ですね」

「馬鹿か」

 理不尽なことを言っている、と思いながら俺は城ヶ峰を蹴飛ばしたくなった。

「そういうときは死ぬ気で止めろよ、何を見逃してやがる」

「無理」

 これは、少し疲れたような印堂の言葉だった。

「一対一だと、勝ち目がなかったと思う」

「ってか、いまぎりぎり歩いてる感じ」

 セーラもまた、印堂に肩を借りて起き上がっていた。

「無理だって。止められねえよ」

「軟弱者どもめ」

 俺は八つ当たり先に悩んだ挙句、足元の躑躅を蹴飛ばした。


 これもまた、簡単なことでしかない。

 つまり《嵐の柩》卿は《E3》を使っていた。咄嗟に俺を引き倒したほどの腕力だった――その効果で傷も癒えただろう。やつが《E3》をどこで拾ったのか。どこだっていい。ここはやつが使っていた屋敷だ。照明のスイッチの在処のように、非常用の《E3》ぐらい隠しておけたはずだった。

 あるいは、まさにあのとき手にしたのか。


「俺は地下に急ぐ。後から来い」

 俺は三人の生徒に対して、吐き捨てるようにして告げた。

「あのクソ魔王、次に会ったらただじゃおかねえ」

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