第4話

 印堂の速攻は、ほとんど文句のない形で決まった。

 空間を飛び越え、化け蜘蛛が反応する余地もない。

 片手剣のただ一撃で後ろ脚――というより腕の一本を切り飛ばし、旋回しながら着地を果たす。それは化け蜘蛛の反撃への備えでもあり、次の攻撃の予備動作でもあった。動物的な挙動。


 また頭を使わずに戦っていやがる、とは思ったが、俺は何も言わずにおいた。

 それが功を奏する場合もある。

 このときがまさにそれだった。化け蜘蛛は意外なほど器用に脚を踏み鳴らし、方向転換を図る。残った七本脚――人間の腕を擬するそれらが踊るように動く。なるほど。こいつの妙に器用な機動力は、人間の腕を使っているためか。

 ついでのように腕の何本かが振り回され、印堂を掴もうとする。悪くはない。触ることさえできれば、エーテル鈍化で動きを止められる。一度でいい。それが印堂にとっては致命傷になり得る。

 印堂は目を細め、これを迎撃するのではなく、むしろ飛び退いてかわした。いつもなら反撃で腕を切り落としている場面だ。そうしなかったのは、恐らくは直感だったのだろう。

 なぜならば、蜘蛛が新手を繰り出していたからだ。


「ぼ」

 と、空気が軽く爆ぜるような音が響いた。

 水蒸気の破裂に似ている。振り向いた化け蜘蛛の口元から、青白い煙が噴き出したように見えた――さっきも屋敷の渡り廊下で見たやつだが、より激しい噴出だった。強い風が吹き付け、何らかの衝撃が生まれたらしい。地面がえぐれて、躑躅と砂利が飛び散った。

 自ら飛び退いていた印堂は、紙一重で助かったといえる。

「――それ」

 印堂はサーカスの猿のように宙返りを果たし、衝撃を殺した。着地と同時に、低い姿勢で飛び出す。その目が、一瞬だけ俺を見たように思う。

「さっきも見たから、覚えてる」

 あるいはそれは、少しは自分も頭を使っているという自己アピールだったのかもしれない。


 嘘をつけ、と俺は思う。本当に覚えているのなら、ちゃんと完全に回避しろ。

 とはいえ思い出しただけでも印堂にしては上出来だし、クレームをつける暇もない。《E3》戦闘の推移はめまぐるしい――印堂は次の瞬間にはもう再び化け蜘蛛の背後に回りこみ、さらに腕の一本を斬り飛ばした。

 やや慎重すぎるようだが、それでいい。教えた通りだ。

 一気に勝負をつけようとするより、確実に敵の戦力を削る。そういう戦い方を、印堂は学ぶべきだ。特に、格上と戦うには慎重で嫌らしい戦術が必要になる。レベルアップにはちょうどいい練習相手といえるだろう。

 この前の《ネフィリム》と対峙した一件以来、印堂雪音は確かになんらかの壁を突破した。ほんの一枚分だけだが、確かに強くなったことは認めねばなるまい。

 後は時間の問題だった。


 問題だったのは、セーラの方だ。

 飛びかかってきた化け猿の斬り下ろしを、正面から受け止めやがった。もう少し工夫する手もあったはずだ。それができなかった。恐怖か、あるいはそれを抑制するための興奮で、意識が硬直しているように思える。

「邪魔すんなよ――」

 セーラは受け止め、押し返しながら怒鳴る。間違いなく、単なる景気づけのためだ。自分を鼓舞しなければやっていられないのだろう。

「ぶっ殺すぞ!」

 他人事ながら、クソみたいな脅し文句だ。親の顔が見てみたい。

 もちろん化け猿が発揮する膂力は、セーラのそれには及ばない。一合。澄んだ金属音が鳴り響いて、鍔迫り合いの必要もなく弾き返せる。化け猿は飛び跳ね、間合いを離す。それもわずか一歩分だった。

 即座にセーラはそれを追う。踏みにじられた躑躅の花弁が舞い上がる。


 バカめ、と思う。

 よくある誘いだ。セーラはその手に乗りやすい。基本的に戦いを怖がっているから、速く終わらせたがる。結果としてそれが自分を危険にさらすことを、本当には実感できていない。

「うえっ?」

 間抜けな声が証明するように、セーラは明らかに戸惑った。

 化け猿の動きが加速したからだ。青白い煙を全身から吹き出しながら、セーラを迎え撃つ。曲刀を旋回させて、横殴りに振るう。


 たぶんそれが、あの化け猿特有の力なのだろう。

 身体を構成するエーテルを噴出することで加速する。その度に自分の体が希薄になっているように見えるのは、エーテル噴出による消耗か。

 加えて、化け猿野郎の剣術は実に奇怪な太刀筋だった。

 恐らく腕に備わった二つの関節が、捻りこむような曲刀の軌道をさらに見切りにくくしているのだろう。ただでさえ、片手使いの曲刀は近距離だと相手にしづらい。独特の旋回するような刃の使い方に特徴がある。実際よりも速いように感じると思う。

 化け猿の刃はセーラの死角を縫うように一閃し、左の二の腕を浅く切り裂いた。

 セーラは何か苦痛の喚き声か、罵倒の怒鳴り声をあげたと思う。相手の刃を弾いたのもたぶん発作的な反応で、追撃を防ぎながら後退する。


 これがいかにもまずかった。

 化け猿は全身から青白い煙を放ってさらに加速し、セーラの意表をついた。ごく軽く、蹴り払うように左足を伸ばす。それで十分だった。薄くぼやけるように霞む爪先が、セーラの脛を薙いでいる。

「う」

 セーラはよろめき、そのまま無様に片膝をつく。踏みにじられた躑躅の花弁が彼女の周囲を舞った。エーテル汚染が一瞬だけセーラを襲ったのだろう。影響は浅いだろうが、立ち上がる暇を相手が与えるはずもない。

 化け猿が曲刀を振り上げた。

 立ち上がりかけるセーラは防御のために日本刀を掲げたものの、化け猿が手首を捻ったときに無力となった。刺突だ。セーラの受け太刀をかいくぐり、閃く曲刀の切っ先は、あまりにも簡単に彼女の右の太腿に突き込まれる。

 セーラの喉から、甲高い悲鳴があがった。


「バカめ」

 俺の叱責は届いただろうか。

 手は出さない。印堂にもそのように厳しく言ってあるし、化け蜘蛛と相対している以上、そんな余裕はない。俺の足元で城ヶ峰がうめき声をあげた。青ざめた顔で、どうにかセーラの方向を見ようとしている。

 すべて遅い。

 ぜんぶセーラ自身の責任でしかない――俺が想定する限り、最も愚かな戦術をとったことに関しては。


「くそっ」

 セーラは短く毒づいて、気合を入れる。馬鹿だ。そんなに嫌なら、もっと上手いやり方を考えればいいものを。

「いってぇなっ」

 脂汗を浮かべながらだったが、その虚勢だけは評価できる。

 やつは右の太腿を貫く刃を掴み、さらに押し込ませた。化け猿が引き抜くよりも素早く。肉を貫くほど。

 まるで、いつかの城ヶ峰のようだった――技も知恵も劣っているならば、差し出す代償は一つしかない。

 自分の肉体を危険に晒す、相討ちに近い一手だけだ。

 化け猿は刃を引き抜くための努力を、ほとんどすぐに放棄した。煙をとともに加速。曲刀から手を放し、代わりに、セーラの首筋へ伸ばそうとする。

 一つ多い関節が、その動作を遅らせた。


「お、あっ」

 セーラのかすれたような奇声が響いた。

 日本刀の切っ先が弧を描く。片手での切り上げ。

 そいつはもう吹けば飛びそうなほど希薄になった、化け猿の体を容易く両断している。青白い煙だけを残して、化け猿の実体が消え失せる。断末魔の悲鳴もない。

「……くそっ」

 もう一度だけ毒づくと、セーラはその場に崩れ落ちるようにしてうずくまった。


 あとでじっくりと反省させるべきだ。

 無様な戦術にも程がある。あんなものは勇気とはいえない。あれほどの深手と引き換えに勝利を得ても、その先が続かない――破滅的ですらある愚かさ、これではまるで城ヶ峰のようだ。

 それともまさか城ヶ峰に対する借りを返そうとして、こんなどうしようもない手口に踏み切ったのか。

 だったらさらに愚かすぎるし、どうせ偶然だろう、と俺は思う。

 セーラが恐れて後退し、取れる戦術がそれしかなかったから実行に移す羽目になっただけだ。断じて褒めるようなことではない。苛立たせてくれる。


 何より、いまの俺はそれどころではなかった。

 眼前には対応すべき敵がいる。

「――お兄様」

 と、《光芒の牙》卿がささやくのがわかった。

「覚悟」

 そのとき、俺は自分が構えるバスタード・ソードの切っ先が輝くのを見た。月を隠す雲が途切れたせいだ。瞬時に殺意が空間を満たす。

《光芒の牙》卿の、赤い衣が翻る。跳ねた。思わず唸りたくなるほどの速度で飛び込んでくる。衣の内側で何本もの剣が閃いた。そのうち、本物の刃は二振りだけだ。あとは《光芒の牙》卿が作り出した幻像に過ぎない。

 いくら俺でも、それを判別することは不可能だ。


 できることはせいぜい、致命傷を狙う軌道の刃を見極め、それを確実に弾くこと。もちろん外れだ。バスタード・ソードに伝わる手ごたえはない。

 代わりに、右の肩口と左のこめかみに焼けるような痛みが走った。

 右肩をごく浅く抉られ、左目は危うく持って行かれるところだった。これを連続させて一方的にダメージを蓄積させる、というのが《光芒の牙》卿の戦術の一つだ。これが厄介だったから、かつて俺が《光芒の蛇》卿を暗殺したときも、徹底してこいつと戦うことを避けた。

 ――しかし、これで初手は凌げた。

「そのくらいだと」

 俺は後退するのではなく、さらに一歩踏み込んだ。

「殺されてやれないな」

 単純な体当たりでしかないが、とにかくそれは決まった。《光芒の牙》卿の小柄な体を、思い切り吹き飛ばす。躑躅の花壇を真紅の衣が翻り、転がっていく。


 ここだ。

 俺は勝負を決める一手を仕掛けるため、彼女を追撃しなかった。ジャケットの内側に手を伸ばす――その手首を、不意に掴んできたやつがいる。

 元・《嵐の柩》卿だ。

「ヤシロ様」

 俺がどういうつもりか問う前に、彼女は思い切り俺の手首を引っ張った。とんでもなく強い力だった。速やかに引き倒される。なんて腕力だ。ゴリラか、こいつ――俺はその意図を問いただすよりも、事態が展開する方が速かった。

 青白い炎に似た閃光が、俺と元・《嵐の柩》卿の鼻先をかすめた。

 視界が光に焼かれて、束の間、機能が失われた。目の奥がちらつく。何者かの獣じみた咆哮が響くのが聞こえる。

「考えました。あの娘のような行いが、結局は――」

 ちかちかする視界の中で、元・《嵐の柩》卿は笑ったように思う。その笑みこそは、まさに魔王。邪悪で酷薄な、爬虫類を思わせる笑い方だった。後頭部から転ばされたせいで、頭の奥が痛む。

 俺は改めて文句を言おうとした。

「おい」

「つまり真心です」


 そうして元・《嵐の柩》卿は、俺を押しのけるようにして覆いかぶさった。

 次の瞬間、寒気のするような突風が吹き付けた。

 俺がちゃんと理解できたものは多くない。跳ねる巨大な影、閃く青白い光。なんらかの衝撃があった――頭を殴られたように感じた。俺は一度瞬きをした。何が起きたのか、そのときは理解できなかった。

 元・《嵐の柩》卿の体が、蹴とばされた空き缶のように吹き飛んでいく。脇腹が深々と抉られ、血が噴き出している。その一瞬の光景だけがえらく鮮明に見えた。

 つまり、そこでようやく視界が戻った。

 俺の眼前では、巨大な狼の化け物が月に向かって咆哮をあげていた。

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