印堂雪音の場合
印堂雪音にとって、世界はあまりにも複雑だ。
空間を満たす亀裂。無数の歪み。《E3》がもたらす聴視覚を通して、彼女はその『隙間』を見る。この人気のない路地裏にも、『隙間』はそこかしこに存在している。印堂雪音は不思議に思う――なぜ世の人々は、この『隙間』に転がり落ちずに済んでいるのだろう。
そうして取り留めもない思考を巡らせつつ、印堂は足元の『隙間』を踏み越える。
耳元で声が響いたのは、そのときだった。
『おい! ――雪音?』
ノイズの混じった、多大な緊張を含む女の声だった。セーラ・カシワギ・ペンドラゴンという。彼女のクラスメイトで、同時にチームメイトだ。印堂と同じアカデミーで学ぶ、勇者候補生でもある。
勇者養成機関を名乗るアカデミーという学校は、進級時に『実習授業』を課すことで知られている。三人一組となり、標的と定めた魔王を狙う。印堂とセーラは、その実習授業のためにチームを組んだ仲間だった。
『雪音、何やってる? ってか、聞こえてるのか?』
しかし、やや聞こえてくる声のボリュームが大きすぎる。印堂はわずかに眉間に皺を寄せ、右の耳に手を当てた。そこには耳朶に引っ掛けるタイプの、小型のインカムがある。
『まさかぶっ壊したんじゃないよな? これ、アカデミーの備品なんだからな』
やはり、ボリュームが大きい。
確か、音量を調整する方法を教わったような気がする。印堂は思い出そうとしたが、声の主はそれを邪魔するように立て続けにまくし立ててきた。
『なあ雪音、聞こえてるなら返事くらいしろよ』
「――うん」
印堂は口元のマイクに手を当てて、短く答えた。
「聞こえてる」
つい、ぶつ切りのような返答になってしまう。
印堂雪音にとって、世界はあまりにも複雑だ。現にいまの印堂は、『隙間』を縫って歩きつつ、インカムの音量調整方法を思い出しながら、さらに会話までこなしている。どれか一つに集中させてほしい、と、印堂は思う。
「聞こえてるけど、声が大きい。セーラ。これ、どうすればいいの?」
『ええ? 声? 胸ポケットに入れてやった本体あるだろ。そいつの音量調整ボタン使えよ』
「本体……」
印堂は沈黙し、胸ポケットに触れた。確かにそこにはインカムの本体らしき装置がある。ボタンが複数。印堂はそれらを眺めて、さらに眉間の皺を深めた。
いったいどのボタンが、音声の調整の役割を果たすのだろう。
『それより雪音、どこにいるんだ? もう合流の予定時間過ぎてるぞ!』
印堂が考え込む間にも、声は切迫した様子で喋り続けている。
『まさか迷ってるんじゃないだろうな』
「ん」
印堂は曖昧な答えを返して、また一歩、足元の『隙間』を踏み越えた。
「全然」
彼女の眼前には、入り組んだ路地裏がある。
「……迷ってない」
『なんで一瞬でバレる嘘をつくんだよ! いまのリアクション、それもう絶対迷ってるだろ!』
「迷ってない、と思う」
『嘘つけ。だったらいまどこにいるか、自分で言えるか?』
「……ええと」
印堂は足を止めない。角を曲がり、さらに狭い路地裏へと小柄な体を滑り込ませていく。その足取りには迷いがない。ただ表情を感じさせない瞳が、左右を素早く確認した。
「だいたいわかってる。すぐ大通りに出るから、安心して」
『できるか!』
ノイズ混じりの声には、悲痛な響きすらあった。
『しっかりしてくれよ――状況わかってるか? 亜希と連絡がつかないんだ。何か想定外のアクシデントでも起きたのかもしれない』
「うん」
印堂は、城ヶ峰亜希の顔を思い浮かべる。印堂、セーラとチームを組む、もう一人のメンバー。今夜の襲撃のために待ち伏せしているはずだが、恐ろしいほど隠密行動に向かない少女だった。しかし、勝手に持ち場を離れたり、連絡を怠ったりするようなタイプではない。
単なる連絡用機器の不調ならともかく、危険に晒されている可能性もある。
『私もこれからフォローに行くけどさ。雪音、さっさと迷子状態から脱出しろよ』
「わかってる」
『だったら急いでくれよな! まだ失敗って決まったわけじゃない。《琥珀の茨》卿を不意打ちできるチャンス、今夜を逃したら次はいつあるかわかんねーし……!』
《琥珀の茨》卿、という。
今夜、彼女たちが標的とする魔王の名だ。
アカデミーという――勇者養成機関に所属する印堂たちには、進級試験として魔王を討伐する実習授業が課されている。東京にひしめく魔王の数は、数百もいるとアカデミーでは教えられた。《琥珀の茨》卿は、その中では決して強力な方ではない。
だが、その行状から懸賞金が跳ね上がり、アカデミーで管理しているリスク評価も上昇した。
手頃な獲物、というやつだった。
少なくとも印堂たちにとって、計画した段階ではそのように思えた。
『亜希がしくじってたら、速攻で救出して引き上げだからな。予定通りな』
「うん」
うなずきながらも、印堂の頭の中に失敗のイメージはない。
城ヶ峰がしくじっていたとしても、《琥珀の茨》卿の足止めさえ成功していれば、印堂ならば一手で仕留めることができる。その自信がある。魔王さえ取り除いてしまえば、その眷属どもは瓦解するだろう。組織的な抵抗などできはしない。
『で、いまどこだ、雪音? もう大通りには出たか? 何が見える?』
「……道」
『いや、そうじゃなくて。ほら看板とか、店とか。何でもいいから。目印になるような何かあるだろ?』
「ええと」
印堂は視線を左右にさまよわせながら、さらに角を曲がる。
狭い路地が、まだ続いていた。
「特にない」
『おい! 本格的に迷ったな、てめえ!』
「迷ってない……、あ」
印堂はそこでようやく足を止めた。
人間がいたからだ。
道を塞ぐようにして、三人。いずれもひどく目つきの悪い、大柄な男性だった。印堂はほとんど反射的に振り返る。元来た路地の方にも、二人。
複数の人間に追われていることには、数分ほど前から気づいていた。だから、まずは路地裏に入り込んで誘い出そうと思った。《E3》を使用しているのも、そのためだ。追っ手をセーラとの合流地点につれていくわけにはいかない。
『ああ? どうした雪音、何があった?』
「うん」
うなずきながら、印堂は前後から近付く相手との距離を確かめる。
「人がいた。さっきから、私を尾行してたやつらだと思う」
『尾行――おい、尾行されてたのか? なんだよそれ、そういうことはもっと早く言えって!』
言おうと思った、と、印堂は弁解しようとした――が、すぐに諦めた。会話、歩行、道の確認、インカム機器の操作。これに加えて尾行の察知。それらを同時にこなすという行為の困難さを、どう説明すればいいかわからなかったからだ。
印堂が迷っている間に、セーラの抗議の文句は続いている。
『っつーか雪音――』
「――なあ。誰と話してるんだ?」
印堂の正面を塞いだ男のうち、もっとも目つきが悪く、体格のいい一人が低い声を発した。威嚇の要素を孕んだ声だった。片手に拳銃を握っている。印堂の目は、他の四人も同様に拳銃を持っていることを確認した。
印堂は無表情のまま、少しだけ安堵した。
こいつらは、まだこちらが《E3》を使っていないと思っている。あるいは、アカデミーの学生に《E3》が支給されていることを知らないのかもしれないし、《E3》の怖さを知らないのかもしれない。現在の形の《E3》が開発されて以来、まだまだ市場には十分な量が流通しているとは言えない。
しかし彼らの事情など、印堂にはどちらでも良かった。
「その制服って、アカデミーの生徒だろ?」
正面の男は拳銃を見せびらかすように持ち上げ、銃口を印堂に向けた。
「お前ら、何日か前から嗅ぎまわってたよな。なあ? 《琥珀の茨》卿がお怒りだ」
印堂はその言葉で、大体の状況を理解した。《琥珀の茨》卿を狙う、自分たちの動きは察知されていた。城ヶ峰と連絡がつかないことも、それで説明がつく。アクシデントがあった。待ち伏せは失敗していた――そういうことだ。
「大人しくついてきた方がいい。無駄に暴れてくれんなよ、商品にはあんまり傷をつけたくねえからさ」
威嚇するような口調から、不自然な猫なで声になった。そういうやり方で、いままでずっと他人を脅してきたのだろう。
しかし銃口を突き付けられ、威圧されても、印堂は表情をまるで変えなかった。
それどころか、眉間の皺が消えた。
『おい、雪音!』
インカムからは、セーラの声が聞こえている。かなり焦っているようだ。先程までよりも声が大きい――これでは、戦いに集中できない。
「これから、追っ手を排除する」
印堂は簡潔に答えた。
「こっちの動きがバレてたみたい。私はアキを助けに行く。セーラは逃げるべき」
『待てよ、とにかく私もそっちに――』
「ちょっと忙しい。また連絡する」
印堂はセーラの言葉の途中で、インカムを耳から強引に外した。五秒以内に片をつける、と、印堂は心の中で宣言した。
「お? なんだ、お前――」
道を塞ぐ男たちの間に緊張が走る。五つの銃口がこちらに向く。
構わず、印堂は腰のナイフに手を伸ばし、『隙間』に向かって足を踏み出す。印堂にとって『隙間』はトンネルのようなものだ。空間の『隙間』に潜り込めば、それと繋がる別の『隙間』から出ることができる。相手からは瞬間移動したように見えるだろう。
一瞬の暗転。
空間を飛び越える。直後には、もう正面の男たちの背後に出現している。誰も反応はできない。ナイフを閃かせ、喉元に刃先を触れさせる。
「あっ」
あまりにも間の抜けた、男の悲鳴があがった。
印堂雪音にとって、世界はあまりにも複雑だ。
だが戦闘のときだけは違う。複雑な世界がその『隙間』を覗かせ、とてもシンプルな構造になる。戦うときに難しいことは何もない、と、印堂は思う。ただ目的に意識を集中させればいい。それこそが勇者の仕事だろう。
すなわち、敵に暴力を振るうこと。
敵を殺すことだ。
どこまでも思考を純化させながら、印堂は殺戮を果たしていく。
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